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(約4000字)
[4426]の続きです。
・[3713]
> ふいんきだけ見ると「西洋風ビル」は現役感がなくてギャラリーとかホテルにでもなっていそうではありますが、明治時代に建てられた銀行などの建物が現役だという表現であるらしく「ビジネス○」(と書いて「びじねすによし」と読む)とされています。
・[4426]
> 空襲で焼けない建物である。あぶられても焼けないけれど直撃で壊れないとは言っていない。…身もフタもない。あえていえば「西洋風ビル」は、あくまで「ビル」である。いわゆるひとつの「ビルヂング」である。出ました「ビルヂング」。ぜんぶご存知ですね。(キリッ
空襲の話をしないわけにはいかない&お許しください。
・(再掲)朝日新聞 サザエさんをさがして「うまのふん」(2015年4月25日)
http://www.asahi.com/articles/DA3S11719933.html
http://www.asahicom.jp/articles/images/AS20150423000969_comm.jpg
> 撮影場所は不詳。「梅雨が早く明け、飢えと暑さで馬も倒れた」という説明文がついていた=1946年6月
・[3243]
> おおー、路面電車(市電もしくは都電)の複線の軌道と、戦前から建っていて空襲を受けなかったとみられる建物、そして、どうやら真新しいコンクリートブロックが白っぽく光る平屋の建物があって、たぶん東京か大阪(新聞社の近く?)で…とアタリをつけてみます。
> 上掲の馬が倒れている写真では、銀行か電話局か郵便局か、名だたる会社の本社かわからない、立派な建物が、空襲でも焼けずに建っています。
> …などと、「後世の人」が悩まなくていいように、▼撮影場所、▼撮影時期、▼何を写したのか、など、極力、撮影者自身が文字起こしして、写真とセットにして流通や保管などされるように気をつかわないといけないんだと痛感されましょう。
・「石の館「大大阪浪漫」」(2011年6月5日)
https://blog.goo.ne.jp/nozatomatiaruki/e/31f2d3736e7fe45ebc23942ff141bf1c
> 大正末期から昭和初期にかけて大阪が「大大阪(だいおおさか)」と呼ばれていた時期があった。そしてそれより以前の明治から多くの西洋風ビルが大阪に建てられた。大部分は第二次世界大戦の空襲で焼かれ、あるいは老朽化により取り壊されてしまったが、いまでも浪速の町に多くの石の館が残りレトロな雰囲気を醸し出している。
石だけにカチンとくる(違)例えば「戦前の大阪が「大大阪(だいおおさか)」と呼ばれていたのをご存知だろうか。明治期に各地で多くの西洋風ビルが建てられたが、コンクリートやレンガのものは空襲や老朽化から逃れられなかった。これに対し『石の館』は現存するものが多く、ここ浪速の町でも“レトロな雰囲気”を残している。」などと書いてほしかった。この記事の中では「たまたま残った」ものと「頑丈だから残って当然」なものが、特に区別なく列挙されていく。嗚呼。
> 門の前には「銅座跡の碑」が立つ。
コレハスゴイ。「石の館」じゃないし「大大阪」よりはるかに古そうだけど、そこがいいのだ。実際に歩いてみたら魅力がいっぱい。そこは同感である。(※恐縮です。)
https://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000009604.html
> 「淀屋橋」下車 東約200m
> 銅座(明和3年1766、設置)の役割は、まず銅山からの荒銅を当所で買上げ、当時大坂で技術を競っていた銅吹仲間に精練させ(住友銅吹所の項参照)、それを集荷して海路長崎へ回送するものであった。
落語の乗船名簿には住友とか三井とか書いておけ。(違)
> 建碑のある愛珠(あいしゅ)幼稚園は、明治13年開園(1880)、市内現存する最古の幼稚園で現園舎は明治34年竣工のものである。
ちょいと検索してみておくれよ&あざっす!(※個人の感想です。)現在の建物はなるほど「大大阪」前夜のものであった。幼稚園あってこその「大大阪」である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%98%AA%E5%B8%82%E7%AB%8B%E6%84%9B%E7%8F%A0%E5%B9%BC%E7%A8%9A%E5%9C%92
> 日本でも2番目に古い歴史をもつ。
> 船場のオフィス街の中に位置し、適塾跡に隣接している。
> 園舎は当時の主任保母らの意見を参考にしながら、文部省の技師の指導の元で大阪府の技師が設計した。園舎は御殿風の和風建築物で、敷地の周囲に高塀をめぐらせていること、天井を高くとっていること、園庭と遊戯室との間に段差を設けていないことなどの工夫がされている。
その建物が現存している。
> 1945年6月には建物疎開の対象と決定した。同年8月4日に取り壊しが計画されていたが、空襲のために作業が遅れてそのまま8月15日の終戦を迎えたために取り壊しは中止され、戦後も引き続き園舎を使用している。
空襲のために残った。…実に、空襲のために残ったのである。嗚呼。
> 1907年7月21日 - 英国フレーベル会が日本の幼稚園の現状を調査。同園は調査資料を提出。
> 1910年4月21日 - 第1回フレーベル祭を開く。
> 1913年 - 新しい保育として幼児劇を取り入れる。
> 1931年3月13日 - 米国のニュース社が保育の様子を取材し、トーキーに撮影。
1931年は昭和6年です。まさに「大大阪」の象徴として幼稚園を撮りに来たともいえる。すごいぞ大阪。なんだ大阪。おみそしる。(※白目)
> 草創期の同園では、フレーベルの理論を取り入れた幼児教育がおこなわれた。また草創期には読み書きなどの教育もおこなわれたが、実践の中で幼児の発達段階にあわないことがわかり、読み書きなどの教育は短期間で中止された。明治〜大正期にかけては、著名人の視察も頻繁におこなわれた。
日本の幼稚園の、いわば雛形である。読み書きが何歳からというのは言語による。英語あそびなら可。本当でしょうか。▼「イギリスと同じ傾斜で天窓」について[3563]を参照いただくとともに、▼「幼稚園というものは最初から幼稚園であるので、古かろうが新しかろうが幼稚園である。いろいろな教材や遊具を売りこみにくる営業の人からも最新知識を得るから幼稚園はあまり古くならない。」については[3803]、それに▼ピアジェの「発達段階説」そしてフレーベルの「恩物」と「定型玩具」という枠組みで本件ゲームを読み解く話については[3889],[3901]を参照。ありがとうございました。
※そもそも幼稚園ほどにもプリミティヴでエッセンシャルなものは原型がよくできているから、逸脱しさえしなければちゃんとした幼稚園になるのである。
・[4382]
> かわって宇都宮です…じゃなくて、再び風の便りです。…宇都宮どこから出てきたし!(棒読み)
NHKのニュース原稿みたいにしゃべればだれでもちゃんとして見える。(※ソコジャナイ。)
・[3179]
> 国際電話は001でワンダフル!([3173]) レッツおみそしる!([3174]) 『さんがい(3階)』でございまーす!!
・[3999]
> > なぜ「3」だけ濁るのか?
> > そもそも九州など西日本では
> 大阪から見て、さらに西のほうのことを言うときに「西日本」という。
・(2012年11月17日)
https://www.osaka.cci.or.jp/chairmans_eye/kouen/pg280.html
> 大大阪とは活気と衰退の混在した時代
> 京都はいつの時代も大京都かもしれませんが、大阪は過去に大大阪と呼ばれた時代がありました。
「超大陸」みたいな言いかた。(※言いかた)
> 御堂筋、地下鉄が誕生したのもこの頃です。
> 意外や意外、さっきご紹介した「京阪100年のあゆみ」を開きますと、この大大阪の時代は、京阪にとって大変厳しい経営環境にあったことが分かるのであります。
> 昭和2年に支払猶予緊急勅令が実施され、昭和金融恐慌が起こっております。そして昭和4年にニューヨーク株式が暴落して世界恐慌が吹き荒れます。昭和金融恐慌は突如としてやってくるはずがありません。大大阪と言われ始めた大正14年は、既に大不況の前兆のというものがあったと言って良いでしょう。現に、大正13年京阪の社史で岡崎社長は厳しい時代認識を示し、社員に業務刷新や経費削減を訴えているのであります。
> 大大阪の時代は不況の時代でもあったのであります。
2012年は平成24年であります。
・(2018年11月21日)
https://mainichi.jp/articles/20181121/org/00m/040/021000d
この話はこうまとめればいいのねみたいな手近なお手本である。
> 大阪が世界的な都市として大きく飛躍した、大正時代から昭和初期にかけての「大大阪時代」。面積や人口、工業生産額でも日本一となり、かつての「天下の台所」から、「東洋一の商工地」と呼ばれる近代的な産業都市へと変貌を遂げた。大衆文化の隆盛に支えられ、大阪毎日新聞にとっても基盤を固めた時期だった。活況を呈した当時の面影を、現存する建物などから探る。
> 「モダン長屋」
> 株式仲買人の岩本栄之助の寄付
> 商船会社などの出資で建てられたことから、客船を想起させるやや変形の建物
> 日本初の冷暖房装置
なるほどわかった。(キリッ
> 関東大震災を踏まえ、建築家の片岡安の講演で知った、耐震・耐火性に優れた鉄筋コンクリートをいち早く導入した。
なんとなくコンクリートというのでなく鉄筋コンクリートならよかった。しつれいしました。
> 将来的に市街化が想定される地区を市域に取り込みつつ、郊外の住宅地が急増する人口の受け皿になった。通勤・通学というライフスタイルが出現。電鉄会社が四方に延び沿線開発を競い合い、大阪独自の私鉄文化が生まれた。また電気の供給も進展し、各家庭に電化製品が入り始めたのもこの時期だ。
すごく「A列車で行こう」である。ありがとうございました。
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