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「第一種はぐらかし」そして「先取り学習」について補足です。
・[3061] (初出)
> 「臓器移植」がニュースにならなかった時代には「臓器」という単語は医学部にでも行かないと使う機会がなかった(初等教育では「ここに心臓があります」「こっちは肝臓です」などとはいっても、これらを総称して「臓器」とはいわず、「からだの中をみてみよう!」などといって、一種はぐらかされるわけです=「第一種はぐらかし」と仮に呼んでみます)
・[3091]
> 最初から「充電」を前提とした学習を計画してもいいのではないか、実はそのほうが「目に見えない電気」を、直感的に「見える化」(どれだけの充電で、どれだけ「電気が溜まった」かな? などと「第一種はぐらかし」で電圧の概念を隠蔽=隠蔽するために余計なものを付け加えることもなく)できてよいのかもしれません。
・[3092]
> 「先取り学習」といってもほどがあるので避ける
・個人のブログ 「先取り学習」について(2007年12月18日)
http://willseeds.txt-nifty.com/omoi/2007/12/post_bde9.html
> 9×5+9=9×□
> 9×5は9が5つという意味だということを確認し、そこに9を置いたらどうなるかこちらから尋ねれば、どうにかぼんやりと「9が6つ」と答えられる子はいる。
> しかし、そういう子達はそのまま黙ってみていると大抵覚えてしまった九九を使って計算する方に戻ってしまう。数をイメージすることから逃げていくのだ。
問題が解ける、結果として試験で点数を稼げることと、多少はできない問題もあろうとも、習っていない内容でも考えて解こうとすることができる、そのまったく異なるベクトルを、単一の試験で、単に合計の点数のみで比べることは、そもそもできないことだとわかります。学校にもよりましょうが、より丁寧に取り組めば、試験の結果は点数でなく、問題(単元)ごとの正答数(正答率)で見ていかなければなりません。
それはそれとしまして、本題は「第一種はぐらかし」のほうです。初等教育において、例えば「臓器」や「電圧」といった、全体を総称した呼び方や、上の学年で学ぶ概念を、(いまは)隠して教える、ということが、初等教育での理解のためには重要となります。
似たような「はぐらかし」は、高等教育でも、また、研究の進展(未知の現象や原理の解明)を待っている間(※)にも、意図してまたは意図せず使いこなされてきた、「わかりやすくするための方略のようなもの」といえましょう。
※解明されるまでは、多少あやしくとも当座の理論だけで説明しなければなりません。初等教育を受ける立場と似たようなものです。
・日本電気技術者協会「二次電池について」
http://www.jeea.or.jp/course/contents/09102/
・「水の電気分解によるファラデー定数の決定」
http://ostwald.naruto-u.ac.jp/~takeda/class/ug_labwork1/electrolysis.pdf
> 化学当量(略)グラム当量(略)これらの概念は,実験的に化学量論的関係を説明するうえで,各物質の原子価を問題にすることなく一般的に表現するために利用されてきた。しかし,その概念は,原子や分子の存在を前提としないで使用されてきたものであるため,現代化学においては,これらの概念を使用するとかえって混乱を招きやすい。このため,高等学校化学の教科書からは姿を消して久しい。
> ファラデーの法則は,原子や分子の存在を前提とすれば,化学量論的関係から自明なものである。歴史的には,原子・分子の存在が認知されていない状況において,ファラデーの法則は粒子概念を発展させる役割を果たしている。その意味でファラデーの法則は重要である。
化学を学ぶと同時に、できれば化学の歴史(化学史)も学ぶことが望まれる背景に、こうしたことがあるわけです。
・大阪府教育センター「小学校4年生「電気の働き」」(2014年3月19日)
http://www.osaka-c.ed.jp/karinavi/kyozai_siryou/plan/pdf/13_01_A_04_004_05a.pdf
> 見えない電気の動きを図で説明する活動を通して、電流を意識しながら電気の働きに関する理解を深める。
> 小学校では電圧の概念を扱わないため電流を強弱で表すが、中学校以降では大小(あるいは多少)で表すことが多い。「強さ」という言葉のイメージから、電流を力のような概念ととらえ電圧の概念と混同してしまわないよう配慮することが望ましい。
> 本プランでは子どもの思考を少し制限し、共通のモデルで言語活動を行うために、電気を粒で表現し、粒の大きさや状態は一定で、移動する速さも変わらないものとして例を示している。しかし、子どもたちに自由に表現させた方が、下図のように粒の大きさや粒の元気さでエネルギーの概念や電流の強さを表現したり、水流や稲光になぞらえて表現したりするなど、子どもたちの持っているイメージを知ることができる。単元の最初には、素朴なイメージをつかむために、子どもたちに自由に描かせてもよい。また、子どもたちの状況に合わせて、粒の大きさで電流の強さを表したり、電気が移動する速さが変わるモデルで考えさせたりすることもできる。
水道の蛇口をひねってバケツに水をためるモデル、そしてホースでつなげばバケツで運ばなくても水が運ばれる、でいいんではないかと、素朴には思いますが、たいへんですねぇ。
電気が粒々! というのも、磁石を動かすとつられて電子が動くことになぞらえて理解させるもので、砂鉄みたいなものですね、わかります…という一種「早合点」をさせるということで、それなりに妥当性があるわけです。
傍題ですが、上掲のブログのコメント欄で、いわゆる「でんじろうセンセイ」にクゲンされているかたがいらっしゃいます。
> 科学実験教室でも、マジックショーみたいな、断片的な知識(もの知り)だけで、理科がわかったように思う子を増やしているのではないか、と心配です。
> 現代の科学常識を教え込むのではなく、昔の科学者が失敗や過ちを犯したであろうプロセスを、一歩一歩たどってこそ、未来を切り開く力になると思います。
興味を引くために派手な演出が必要となるのは、学習以外のシーンでの演出(娯楽、テレビやゲームなど)が派手になっているためで、それに負けない派手さがなければいけません。(子どもの視点では、「ためになる」から「ありがたい」といって、退屈な演出に「おつきあい」するほど大人びているわけではなく、どうやっても「おもしろそう」と感じるかどうかという「入口」で決まってしまう部分が大きく、ここを打破しない限りは何もない、科学への興味がゼロということになってしまうわけです。)
そして「自分でも同じことをやってみよう」&「できた!」が「わかった!」につながっていきます。「地続き感」([2937])のようなものが体得されたいわけです。それさえできれば、初等教育の段階で、ことさらに過去の研究者の失敗をあげつらうようなことは、する必要がない(不可欠とまではいえない)と感じます。(あくまで見解は個人です。)ましてや「過ち」などと一種、文学的な表現で語られるようなものは、理科の時間にすることではなくなってきます。社会科の時間に、「公害問題」「産業革命」「家電製品の普及による家事労働の低減」といった文脈から、一つ一つ丁寧に学んでいくことが先決で、大人が大人の視点で、先に「過ちだった」という単一の視点のみから言及することは避けられたく思います。(「国鉄はすべて『誤り』」[3060]も参照。)
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