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[2940]で触れました東千葉駅に関する補足です。
・千葉市近現代史の聞き取り調査会、千葉市、千葉大学「平成18年度 千葉市・大学等共同研究事業 市民が体験した千葉市の近現代史の調査報告書 概要版」(2007年3月)
http://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/kikaku/documents/18kingendaisi.pdf
> 千葉駅の存置運動を行うことが決められた。彼等は自らの利害を訴えるのみならず、現駅を残すことによって、千葉駅から北の穴川方面開発によって予想される人口増を受け入れることができるなど、周辺地域の利害を訴えた。
> 当初計画千葉駅から1km程度のところに新駅を設置する予定であったが、63年2月18日に千葉鉄道管理局長が宮内市長に示した計画では、旧千葉駅から250m東の位置に建設が計画された。結局新駅は、計画千葉駅から600m付近、椿森陸橋の下にあたる位置に決定した。この位置になったのは、これ以上都賀寄りだと昇り勾配のために駅の基準に合わないためであった。駅の工費は千葉市が負担し、周辺区域は市と県で区画整理が行われることとなった。新駅は東千葉駅として1965年12月20日に開業
ここに出てくる「千葉駅」は移転前の旧千葉駅を指します。つまり、東千葉駅がいかにしてつくられた(残された)か、という話ですね。
[2940]でも素人ながら検討してみましたが、きちんと広域での便益のバランス(各駅の駅勢圏が重ならず、また沿線を通して大きな「空白域」も出さないようにする)を考えれば「計画千葉駅(現在の千葉駅)」から「1km程度」となるのは当然で、この点は誰が、どの時代に考えても同じ結論に至ります。
それにもかかわらず、地元側が旧千葉駅の駅勢圏を非常に重視し、あくまで旧千葉駅を基準に「250m東なら許せる」という点から考えたことが、いわば「局所解」のような現在の東千葉駅をつくり出した、そして駅の位置に合理性がなかったゆえに、現在の状況(乗降人員が少ない)を招いているといえます。
旧千葉駅を「残し」東千葉駅とするための工費は千葉市が負担したとのことで、さて、東千葉駅を本来の位置(千葉駅から「1km程度」)に「移設」するとなれば、どういう負担割合にすれば「決着」できるのでしょうか。また、千葉市の過去の判断が否定されたり、それによって「メンツがつぶされた」と感じるかもしれない人々を、どうフォローすれば「後腐れ」なく新しい合理的な時代を迎えることができるのでしょうか。
※JRでもいえるかもしれないですが、▼過去の判断はすべて正しかった(誤りはいっさいなかった)とすることと、▼当時としてはベストであったが現在は状況が変わったのでとるべき施策も異なる、とみていくことは、かなり異なることです。そして、後者の立場にあっても、それは決して過去の判断を誤りだったとみなしているわけではないということが、広く理解されることが重要といえます。もっとも、逆に「国鉄は誤りだった」として、▼国鉄の施策はすべて、国鉄がとった施策だということだけで誤りだったとみなすような何かも、必ずしも合理的ではない人々の間では、あるのかもしれません。本当でしょうか&そんなことでいいんでしょうか。
> 敗戦当初に計画された復興計画は、こうした社会状況の変化に柔軟に対応することができず、市民からは「場当たり的」と感じられることとなった。復興計画を扇屋の安田敬一氏は、「中途半端」な都市計画と評した。また千葉滋胤氏は、「TOTALなDESIGNがPOOR」であると評し、「局部的な」計画であったと振りかえった。
> 今回聞き取りを行った千葉滋胤千葉商工会議所会頭の言葉にあるように、「TOTALなDESIGN」が行政・市民の間で不統一であったことが、結果として「場当たり的」な計画をうんでしまったのではないだろうか。敗戦から60年、千葉市の多くの人が復興期を知らない世代へと移り変わってきた今でこそ、千葉市のTOTALなDESIGNが問われているといえるだろう。
※いえ、詳しくは申しませんけれども、さすが扇屋(共同仕入れ機構=ジャスコ、現在のイオンの前身)、さすが千葉氏ですねぇ。
なぜ、その当時に「中途半端でない」都市計画にすること、「TOTALなDESIGN」をすることを、後押しできなかったのでしょうか。その必要性を当時も感じていたというのは本当でしょうか。ある程度たってから考え直したことを、あたかも当時から考えていたかのように、記憶が変わってしまったのではないでしょうか。記憶は結構、変わるものだとも聞きます。
聞き取り調査は貴重ですが、聞き取られた内容をすべて無条件に正しいとみなすことはできません。(これは、相手がbig-nameな方※であっても例外ではありません。)あらゆる時点で、あまり大きなタイムラグなしに文書化されて保存されてきた情報でないと信頼性は低く、こうしたことからも「文書主義」の重要性がわかるというものです。もしかすると、本人ですら忘れているような発言が、地元の新聞や社内報、機関誌などに残っているかもしれません。
※「植草氏」を含め、協力をお願いする人脈にバイアスがあったのか、一人に声をかけたら我も我もとこぞって「昔話」を「志願」されたのか、聞き取りの相手が軒並みbig-name(あくまで千葉市内において)で、微妙です。
・NHK「水木しげるさん 出征前の手記見つかる」(2015年6月2日)
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150602/k10010099961000.html
> 事務所で取材に応じた水木さんは、手記について「書いたことも忘れていた。戦争から帰ったらすべて忘れる。(略)当時は手記を書いていないと心が安定しなかったのだと思う」と話しています。
> 戦争体験は水木さんのその後の漫画家としての活動にも影響を与え、水木さんは、これまで数々の戦争をテーマにした作品を描いてきました。
> 「ぼくは戦記物をかくと わけのわからない怒りがこみ上げてきて仕方がない。多分戦死者の霊がそうさせるのではないかと思う」とつづっています。
無理に結論を出さず、「後付け」の理由をつけることもなく、「わけのわからない」と「素直そして正直」に表現していることが、とても印象的です。わけのわかるもの(正確なデータが収集できた上でデータドリブンな、合理的な施策の積み重ね)であったなら、「こんなこと」にはなっていなかったともいえ、何をするにも、また、しない(※)にも、合理性が求められる(ある政策プロセスの初期段階で合理性がないと、後から後から状況がひどくなっていき、ますます合理的な選択や決定が難しくなる)ことが実感(いえ、戦争体験に実感はありませんが)されます。
※しないために何をするのか、というところにも合理性が求められます。「するな」というだけでは何にもならず…人々の行動が思いのほか慣用句や常套句に支配されているという話(民事訴訟ながら「お金が目的ではない」とする例[3009])とも似ていて、「ではどうすればよいのか」に応える慣用句なりスローガンなりがないと、多くの人々は思考も言動も止まってしまうのです。「お金が目的ではない」なら、なぜ民事訴訟を起こすのでしょうか。民事訴訟を起こすということを、どう理解しているのでしょうか。「お金」や原状回復のほかに、民事訴訟で得られるものはありません。ソレは、訴訟でない方法でも得られるものでは、ないのでしょうか。他方で、「ナントカ110番」や「法テラス」にも難しさがあるように、本来、訴訟や調停、行政指導などでスパッと決められるべき(と、法令上は考えられている)ことがらが、人々の「おおごとにしたくない」「『告げ口』をしたと思われたくない」その他の合理的でないキモチによって、不必要に泥沼化するケースが潜在的に多くあるとみられ、人々の法的なセンスのようなものが、たいへんバランスを欠いた状況にあるように感じます。
…何がナニか、キミはナニかね、アレかねなどと、ご高齢の方と楽しくおしゃべり(昔話)するときの「秘けつ」のようでもありますが、それはともかく、あくまで千葉駅と東千葉駅の話です。
当時、国鉄としてはたいへん合理的に計画の立案が進められていたところ、きっと地元の人の「いま、ここに駅があるのに、急に駅が遠くなったら困る」という素朴な戸惑いに対して、きちんと合理的に説明を重ね、納得してもらう(必要であれば何らかの補償も講じる)という合意形成の手法や考え方がなかったか未熟であったため(これは成田空港にも、それ以後にも続いている課題です)、合理性を損ねてまで計画を変更することになった、とみることが(あくまで現在の視点では)できましょう。
国鉄としては、十分にデータドリブンであったと推定され、しかし「住民に数字を言っても理解されない(どうせ、わかってもらえない)」といった、いまでいう「上から目線」よりもっとひどい何かがあったのかもしれません。もっとも、国鉄としては行政(自治体)と同じく、担当者にも、局長であっても「顔」はなく、「顔」のある人たち(地元の住民や、その代表)が何かを言えば、最大限、聞き入れなくてはならないとも考えられてもいたはずです。
それでも、「顔」=主観的に施策を進めることはあってはならないという立場を貫徹すれば、他者の「顔」=住民の主観的な要求を、合理的な検討結果に反してまで受け入れるということも、してはならないことだと規定することが(あくまで現在の視点では)可能です。
せめて、これからの時代には「顔」のある人たちの「大きな声」によって、ある施策が合理性を失うことは、避けなければならないと考えます。
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