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(約12000字)
[4423]の補足です。
・[4423]
> > 登戸浦は、江戸築地に荷揚場を持ち、年貢米や海産物を房総半島から江戸に海上輸送する拠点の一つとなり、佐倉藩の外港でもあった。
・京成電鉄「西登戸駅」のイメージです(※公式)
https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/nishi-nobuto.php
https://www.keisei.co.jp/keisei/tetudou/accessj/assets/images/nishi-nobuto/station_photo.jpg
なぜ登戸、駅でいえば西登戸のあたりだけが「浦」となり「佐倉藩の外港」になりえたのか。きょうはここから“謎”を(げふ)いきましょーいきましょー。(※表現は演出です。)谷津らへんはどよんと溜まり、そこから黒砂まで遠浅で飛行機を飛ばせる(げふ)しこうして「登戸浦」である。何かの流れで、谷津は溜まる方向に、登戸は削られる方向に作用するんじゃないんですか。えー…(てんてんてん)。近代「千葉港」というのも、川鉄というのも、地形あっての何かの流れを自然に使ったもの。千葉は初めてですか&いやーしょっちゅう来てはいるんですよ!(※「は」に傍点。)
※ブラタモリは浦安と佐原と銚子だけ。チバニアンそっちのけでほかのことはできぬ。何を暴いても「軍都」しか出てこないし&えー…(てんてんてん)。チバニアンは別格として、伊能忠敬の次は印旛沼でしょうな。われわれには印旛沼があるんですな。来るとしても2022年でしょうな。えー…(てんてんてん)。千葉は長崎や佐賀と似てますとか、九州と対比いただいてもよい。(※個人の感想です。)
> だから京成千葉線があるんですよ。京成は佐倉のほうなのに西登戸も通るんですよ。
・(♪〜)
https://twitter.com/chiba_c_staff/status/806415801884381184
https://pbs.twimg.com/media/CzD11YAVEAE4zS9.png
https://pbs.twimg.com/media/CzD13Q9UsAQz3yN.png
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20200929002583_comm.jpg
https://www.rbar.jp/cms/wp-content/uploads/2019/09/9d6a50c4f7d56c348daee3fb4aa0bc47-e1567775083698.jpg
https://livedoor.blogimg.jp/vivit_funabashi/imgs/9/1/9194322b.jpg
おわかりいただけるだろうか。(棒読み)
・ウィキペディア「京成千葉線」より「歴史」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%88%90%E5%8D%83%E8%91%89%E7%B7%9A#%E6%AD%B4%E5%8F%B2
> 1921年(大正10年)に本線の船橋 - 津田沼間と同時に津田沼 - 千葉間が開業した。これは本線の津田沼 - 成田間よりも優先され早い開業となった(京成津田沼駅から京成本線が当線下をくぐり、大きく内陸方へカーブする形で分岐しているのはそのためである)。千葉線はこの年に市となった県都である千葉市への輸送、東京湾岸への観光客の輸送を目的として設置された。
情報探索を進めるための仮の話の流れとして「京成は佐倉のほうなのに西登戸も通るんですよ」と(じぶんでじぶんに)問いかけてみたものの、調べてみると、ちょっと違った。(※恐縮です。)
> 西登戸駅周辺は別荘地としても賑わいを見せた。
> 1935年(昭和10年)に省線(国鉄)の千葉駅までの電化が完成する前までは、千葉線の方が運転間隔や利用客数において圧倒的優位に立っていた。
> 1967年(昭和42年)4月1日 - 千葉海岸駅を西登戸駅に改称。
「別荘地としても賑わいを見せた」ときの駅名は「千葉海岸駅」じゃないですか。過去のことを述べるときに現在の駅名で述べてもピンと来ない。駅名はただの識別子じゃない。それ自体が大きな情報なのだ。(棒読み)
> 2011年(平成23年)
> 3月14日 - 東日本大震災による電力供給逼迫を理由として東京電力が輪番停電(計画停電)を実施。これに伴い、この日から新京成線との直通運転が休止される。
> 4月11日-12日 - 東北地方太平洋沖地震の余震とみられる巨大地震が発生したため、千葉線・千原線が一時運休となる。
> 6月27日 - 新京成線との直通運転が一部再開される。9月10日に全面再開。
京成千葉線にあっては、東日本大震災の影響は9月まで続いたのである。(※恐縮です。)
・松波町会
http://matsunami.main.jp/chokai/history/
> この地域は千葉市の北西部にあたる丘陵地帯である。
> 近世の時代は下総の国に属し、大名佐倉藩の領地と來迎寺、大日寺、妙見寺の寺領であった。
> また、穴川野地ともいわれ千葉寺、寒川、登戸、黒砂、來迎寺、大日寺、妙見寺(千葉神社)の入会地であり、 地形は高低差が著しく、松林が土地の大半をしめ、民家もまばらであった。
> その昔、松波地区の多くは登戸地籍であり、登渡(登戸)神社の氏子が多かった。
> 登渡(登戸)
> 登渡(登戸)
海のほうから見ての見えかたが基準である。海から見て目印になる岩のとこ(「戸」)! そこが(陸から見て、そこから舟に乗れるという)「渡し」! だいたいそういう意味の、文字というよりは音が先にあって、意味を考えてそれっぽい文字があてられてくる。「登渡」でも「登戸」でもいいのだ。本当でしょうか。(※勝手な想像です。)
・「黒砂」とは
https://www.iis.u-tokyo.ac.jp/alumni/documents/voice05.html
> 区域の南端(図の右端)には昔からの松林があったが、他は畑を造成しただけの裸地で、植樹や造園も行き届いてなかったので、誠に殺風景な過疎地帯の風景であった。近所にある「黒砂」の地名の由来でもある砂地が広く露出しており、風の強い日は室内にも砂塵が積もるような有様であった。
> 空き地(緑地ではない)の多かったおかげで、北部・東部の地区は食糧難時代に農地として活用され、朝夕や休日には教職員の日曜百姓で賑わっていたものである。私も、卒業後の第二工学部助手の時代、船舶教室の小使室に住込んで通勤時間ゼロの自炊生活を数年間続けており、篤農家の一人であった。焼け跡を掘り返すと、焼夷弾殻のパイプが無数と言ってよいほど出てきたのを思い出す。
> 以前に集団検診で都賀公民館に行ったとき、家から600mの距離にあるのを知らずに、電車で「都賀」まで尋ねて大失敗をしたことがある。
ひー。
> 国道14号の終点(K)に在る戸渡神社は、葛飾北斎の富岳三十六景のうちの「登戸浦」に、その鳥居が描かれている神社である。
> 戸渡神社
> 戸渡神社
登らないんですか。(※ジト目)
・ウィキペディア「登渡神社(とわたりじんじゃ)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BB%E6%B8%A1%E7%A5%9E%E7%A4%BE
> 千葉氏ゆかりの妙見社のひとつである。
> 通称登戸神社(のぶとじんじゃ)。
ここまで「登戸」を「じぶんが知ってる『のぼりと』」の読みで読んできたひとは、いまから「のぶと」の読みで読み直してください。(棒読み)
> 地区の最高点である遠望台(標高約15m)に千葉妙見宮(現在の千葉神社)の末寺を正保元年(1644年)9月5日に勧請
いちばん登ったところである。(※恐縮です。)
> 正面鳥居脇には一等水準点が設置されている。
正面鳥居脇には一等水準点が設置されているということです。(棒読み)
・[4047]
> …小泉逓信大臣!([4048])
> > 久良岐郡(くらきぐん)は、神奈川県(武蔵国)にあった郡。現在は、中村川と堀割川の分岐点の久良岐橋、久良岐公園、横浜市能楽堂(久良岐能舞台)にその名をとどめる。
> > 古代の郡域はさらに北の鶴見川まで広がっていたと見られている。
> うーん。現在の土地利用を思い浮かべながら、具体的にいえば京急線や京浜東北線の車窓を思い浮かべながら「鶴見川まで広がっていた」と読み書きしてはいけない。「古代」の「飛んで鶴見川」みたいな(道すがらには何もないというか道もない)「郡域」を生々しく想像すべき。▼新潟市「柳都という別名を持つ」からの「「柳都」というのは海のほうから見た呼びかたではないか。海路はるばる(しばらくお待ちください)一面のヤナギが茂った沼が、この町の入り口なのである。スタンシアラである。○か×か。」については[3958]を参照。「飛んで鶴見川」が、なぜ「飛んで」なのか。海のほうから見ているのである…!!
・ウィキペディア「堀田正倫」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%80%E7%94%B0%E6%AD%A3%E5%80%AB
> 慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦い後、徳川慶喜に対して朝廷から討伐令が下ると、上洛して慶喜の助命と徳川宗家の存続を嘆願したが、新政府から拒絶されただけでなく、京都に軟禁状態にされた。このため、藩主不在となった佐倉藩は危機を迎えたが、家老の平野縫殿が新政府軍に与して大多喜藩に出兵したため、何とか改易は免れた。
> 明治維新後は知藩事となった。廃藩置県後は東京に移住し、日本の文化活動推進に貢献した。明治17年(1884年)に伯爵に叙される。明治23年(1890年)、佐倉に戻って私立の農事試験場設立や(旧制)佐倉中学校(現在の千葉県立佐倉高等学校)維持発展に寄与するなど地域の発展に尽力した。
佐倉藩の土地あっての(現在の)公的施設や鉄道をや。本当でしょうか。どこからどこまで佐倉藩あってのものといえるでしょうか。そういう見かたをしたことがあったでしょうか。(※恐縮です。)
> 佐倉城は1873年(明治6年)に第一軍管東京鎮台佐倉分管となり、正倫は1889(明治22)年に佐倉城跡の東方、鹿島台地の縁辺部に本邸を新築し翌年夏より移り住んだ。
台地のヘリである。千葉市から流れ出て北へ流れる鹿島川である。キョンである。
・(参考)
http://fusanokuni.web.fc2.com/gendai/chiba-cyuuou.html
> 汐見丘町
> もとは千葉市登戸の一部。地名は通称を用いたといい、地形的に丘の頭頂部にあたることから海がよく見えた事から名付けられたのではないかと推測する。
そんな漠然としたことでなく、季節ごとの流れの変化などを観測する場所だったのではありませんか。山に現れる田植えのしるしの腰の曲がったおじいさんの海バージョン。海辺で貝を取ってよいシーズンのしるし、みたいなの。古代の日時計の痕跡とか、ないんですかね。そこで暦を管理してたとか、ないんですかね。(※勝手に推定。)
https://www.jiban.co.jp/tips/kihon/ground/municipality/chiba/cyuuou/P12_cyuuou.htm
https://www.jiban.co.jp/images/tips/kihon/ground/municipality/chiba/cyuuou/J12_cyuuou.gif
そこらの地形をそんな区ごとに細かく分けて図示しちゃうと、何もわからんくなる。(※見解です。)幕張(からの上流)は「西の谷」「上の台」([3158],[3701],[4359])というほど谷筋が多くて水が集まって砂が多く流され幕張(一帯の海岸)が砂洲になる。まず幕張の砂洲があってから、それが均されて稲毛までも遠浅になるのである。均されるといっても、岩が突き出たところで止まる。○か×か。タモリさんが来ないうちに解き明かしちゃいましょー!(棒読み)
・[4392]
> > そもそもが荒川の後背湿地であり、腰までつかるような湿地帯と沼地が点在する荒原だったことから耕作にも適さず、おもに幕府の鷹狩場や砲術訓練所として利用されていた。
> > 腰までつかるような湿地帯と沼地
> そこら中がそういう土地だったということを忘れて日本史のマニアなどと称して城と城主ばかり追いかけるような見かたをしてはいけません。
> > 明治に入り、豊富な荒川の水資源を頼りに耕地化が進み、「赤塚田んぼ」「徳丸田んぼ」と称され、昭和初期まで、東京都で生産される米の7割を生産するなど、東京屈指の米どころに発展した。
> > 23区内で最後まで残った水田地帯も、1958年ごろには新河岸川流域の工場進出および付近の住宅化による地下水の枯渇、家庭排水の流入などにより耕作に不適な状況となってきた。
・「川崎製鉄千葉製鉄所1号高炉の建設について」
https://www.chiba-muse.or.jp/SCIENCE/16jfe/repo1.html
> 川崎製鉄は戦後,昭和25年8月に川崎重工(株)製鉄部門が独立して設立された。
昭和25年は1950年です。
> 千葉市蘇我駅の海よりに日立航空機の工場跡地の紹介があった。製鉄所建設用地の決定にさいしては,地形,地盤,用水,電力,港湾,鉄道,労働力,市場などの検討が必要である。千葉で最も問題になったのは,港湾と用水であった。千葉市一帯の海岸は,昔から潮干狩で知られる遠浅の海岸である。このような場所に1万トン級の船が出入りする港ができるものか疑問がおこった。しかし,当時においても,浚渫機械の発達で,海底を掘ることは比較的容易であり,掘った土砂はそのまま埋立に使えるので一石二鳥である。また,千葉の周辺には大きな河川がなく内陸から運んでくる土砂が少ない。東京湾の海流は毎時3ノット程度であり,漂砂の心配がなく,掘ったあとが埋まらないことが判明した。
深く掘ることについては機械の発達を待った形になるが、その後、埋まらないというのは地形の恩恵である。○か×か。
> 記録によれば,当時の蘇我周辺は,夜になると電圧が落ちて機械が停止するほどの電力事情であった。
> 千葉1号高炉の建設に併せて自家発電工場(出力1万2500キロワット)の建設も進められた。用水計画は放水路の計画が遅れたため,直接印旛沼より川崎製鉄までの取水工事申請がなされた。この時,千葉県は農業を中心に生きるべきとする意見と,工業県として発展を図るべきとする意見とあり,印旛沼の用水をめぐって議論がなされたとの記録がある。このように終戦直前の千葉県は,農業県であり,千葉市は軍都であった。
・[4392]
> 日本史というならここまで学びきらないと、ですよっ!(※見解です。)
・ウィキペディア「京成電鉄の車両検修施設」より「高砂車庫」「津田沼車庫」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%88%90%E9%9B%BB%E9%89%84%E3%81%AE%E8%BB%8A%E4%B8%A1%E6%A4%9C%E4%BF%AE%E6%96%BD%E8%A8%AD#%E9%AB%98%E7%A0%82%E8%BB%8A%E5%BA%AB
> 1912年11月 - 曲金(現・高砂)に車庫を設置
> 1926年12月 - 津田沼車庫設置
その土地は何であったかというと、なんでもなかったというのが真相だろうか。(※恐縮です。)
・葛飾区「子ども葛飾区史」より「高砂」の段
http://www.city.katsushika.lg.jp/history/child/3-5-140.html
http://www.city.katsushika.lg.jp/history/child/p_image/3/P140-1.jpg
> 曲金は約620年前の室町時代の資料にも出てくる古い地名です。明治時代になると、地元の人から読みにくいなどといわれました。そのため1932(昭和7)年に葛飾区が誕生したときに、それまで使われていた小字名(村より小さい単位の地名)の中から一番縁起のよい「高砂」を地名にしたのです(曲金村高砂という地名がありました)。
もうおわかりですね。えー…(てんてんてん)。
※川の流路が変遷したんですよ! ぜったいたぶんですよっ。
・ウィキペディア「高砂天祖神社」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%A5%96%E7%A5%9E%E7%A4%BE_(%E8%91%9B%E9%A3%BE%E5%8C%BA%E9%AB%98%E7%A0%82)
> 創建年代は不明であるが、葛西御厨の成立(1165年)以降に創建されたと推測される。曲金村の鎮守であった。
> 社宝の一つに1839年(天保10年)に奉納された「板絵着色雨乞図絵馬額」がある。雨乞いの模様を描写した絵馬である。
・高砂南町会
https://kyoudou.city.katsushika.lg.jp/?p=10579
> 画面中央上の黒雲の中から出現した龍神、左下には社殿の前に神主、脇に僧侶、少し離れて山伏風の人物が雨乞いの祈祷をしている姿があり鳥居から神社まで雨乞い行事に参加している大勢の褌姿の村人が落ち着いた色調で描かれている。
それ以上はちょっと…(てんてんてん)。
・ウィキペディア「京成電鉄」より「改軌工事」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%88%90%E9%9B%BB%E9%89%84#%E6%94%B9%E8%BB%8C%E5%B7%A5%E4%BA%8B
> 京成臼井 - 京成佐倉間には仮駅となる鹿島川専用乗継場を建設した。
この鹿島川である。千葉に鹿島川あり。
・ウィキペディア「旧堀田邸」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A7%E5%A0%80%E7%94%B0%E9%82%B8
> 佐倉藩の最後の藩主であった堀田正倫の邸宅として、1890年(明治23年)に建築された。現存する明治時代の旧大名家の屋敷として貴重な建造物である。
「旧大名家の屋敷」だけれど、それが「明治時代の」ので、しかも「1890年(明治23年)」というあたりが、通り一遍の歴史の学習だけでは追いつかない部分である。
> 「つば造り」や「火打ち貫」といった伝統的な和風建築の工法と、ボルトやナットを使用した西洋建築の工法が混在しており、明治初期の過渡期の様子が窺い知れる。
「明治23年」を「初期」とは言いにくい。○か×か。
> 1942年より敷地の一部を借地していた日産財閥の結核対策機関「佐倉日産厚生園」が1952年に全面買収し、1962年には一般病院となった
・(公財)日産厚生会「佐倉厚生園病院の生いたち」
https://www.sakurakouseien.jp/hospital/environment/
> 昭和17年に結核療養所として開園、昭和40年頃からは結核のほか、成人病・リハビリテーションを中心とした慢性疾患病院として活動を続けてまいりました。
結核の療養所であったという。昭和17年は1942年です。地域で保存された古い資料では「療養所」という単語を避けてごにょごにょと書いてあるくらいにも古い資料がそのまま、それをまた引用した郷土史のような文章しか見られないかもしれないが、ある時期を過ぎれば歴史的事実として淡々と「療養所」とはっきり書くように変わっている。当然ながら現在も続く病院のホームページでは「療養所」と書いている。「療養所」と書いていないウィキペディアの記述は、いまとなっては不十分なものである。(※私見です。)
・「知藩事」と「藩知事」
https://kotobank.jp/word/%E7%9F%A5%E8%97%A9%E4%BA%8B-96431
> これまでの藩主はすべて明治新政府によって知事に任命された。その新職名を知藩事といった (藩名を冠するときは何々藩知事という) 。
そんな難解な使い分けが、なぜ生じたのか。実は単なる言い間違い、書き間違いに由来していないか。えー…(てんてんてん)。
> 知藩事個人の家計と藩財政が分離され,中央政府の統括下の地方官へと変えられていった。1871年の廃藩置県により解任されたが,封禄と華族の地位は保障された。
「堀田邸」の原資はどこからどこまで(ぐぇ)なんでもございません。(棒読み)
・[4404]
> 京成こそが文字通り、わりとストレートに東京とを結んでいるのだ。
・(2016年9月2日)
https://trafficnews.jp/post/56779/2
> 戦時中、京成がインドネシアで進めた「幻の」鉄道建設計画とは
> 72年前に京成電気軌道が敷設した鉄道と同じように、マカッサルから北に延びる鉄道が2018年に開業予定。
うーん。それも佐倉藩で説明できたりなんかしちゃったりしますか。えー…(てんてんてん)。
・ウィキペディア「本多貞次郎」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E8%B2%9E%E6%AC%A1%E9%83%8E
> 国府台女子学院の創立援助をする。
> 下野国宇都宮藩(現在の栃木県宇都宮市)藩士本多良之助の次男
宇都宮藩だった。(※恐縮です。)
> 1882年(明治15年) - 工部省に入省。東海道線鉄道工事の監督となる。
そもそも東海道線の監督だった。なんでもござれ。そういうふうになっているのが京成なので、私鉄初の新幹線の事業者にもなれると思った。成田湯川駅は新幹線の規格だと思った。(※音声を変えています。)
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/09/39d55a4685f7b7e4b03b618c4cea204c.jpg
※画像はイメージです。
・[4299]
> なんか2種類の新幹線が大宮で分岐しておるー。
・成田高速鉄道アクセス「最高時速160km走行を支える世界最高水準の技術」
http://www.nra36.co.jp/business/level.html
> この分岐器は、上越新幹線の高崎駅で長野新幹線を分岐させるために採用しているものと同様のもので、全長約135mの特殊な分岐器です。これにより、時速160kmで分岐器を通過しても車内の動揺もなく、乗り心地の向上と安全性の確保を図っています。
> 最高時速160kmで走行する本線上の架線は、高速走行時に列車のパンタグラフが常に接触するように、新幹線と同様、可能な限り平坦となるように工事しました。
「最高時速160km」の「最高」とは、あくまで現行の法令上の上限(JR以外の事業者に認めうる「最高」)でしかなく、施設上の上限は最初からもっと高いと信じて疑わない。私鉄初の新幹線の事業者になるための見習いの期間のようなものだと思っている。(※個人の感想です。)
・(2019年10月14日)
https://twitter.com/ktr5104/status/1183439494998982656
https://pbs.twimg.com/media/EGxr7tzUwAA66E0.png
https://pbs.twimg.com/media/EGxr1HsU4AAVhov.png
ほぉお!(違)
・[4406]
> ピンク色そして銀色! それは色ですか。(※反語)
・(2020年8月8日)
https://railf.jp/news/2020/08/08/200000.html
> E6系が盛岡−東京間で単独で営業運転
速度への言及がないけれど。
https://youtu.be/LnuR2g4lxx4
くりこま高原はやい!(※白目)
https://youtu.be/SNjIJ-sCGQs?t=179
こんなものではないだろう。現状では施設が遊んでいるとみた。逆に、高崎と軽井沢の間で新幹線と同じ線路で通勤電車が走ってもいいと思った。(※個人の感想です。)▼「新幹線に揺られること9分、我々「おなかすいたみたいな顔!」で…もういいよレストラン街で何か食べてかえろーよ。」からの「安中榛名のマイホーム」については[3552]を参照。
・[3552]
> > 整備新幹線は、国と地方が2対1の割合で費用を負担し、鉄道・運輸機構が施設建設を行います。JRは、貸付料を支払い、新幹線施設を借り受け、営業を行います。
> > JRは受益の範囲を限度とした貸付料(線路使用料)を支払います。この貸付料は新幹線開業によるJRの増益分に相当すると見込まれることから、収支改善効果と同等とされています。
http://www.ginga21.jp/auction/images/items/24168/l_58772075d6118.jpg
https://raillab.jp/img/user/record_photo/1086_10137/960.jpg
https://www.hokurikushinkansen-navi.jp/dataa/news/photo/NEWS000000146401.jpg
> それでは北陸新幹線にかかる群馬県としての受益はじゅうぶんなんですか&どーなんですかっ(略)…なんだかなぁ。しかし、いくら新幹線で高崎駅まで9分といって、その実、17時05分の「あさま624号」で高崎駅に行って買い物して、『レジ袋de長ネギ!』([3385],[3403],[3420],[3447],[3547])のほうなどしながら「あさま657号」で18時09分に戻ってくる…えーっ。(※長ネギはイメージです。新幹線には含まれません。)
・ウィキペディア「利光鶴松」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%A9%E5%85%89%E9%B6%B4%E6%9D%BE
> 1910年(明治43年)10月に鬼怒川水力電気を創立させ、社長に就任する。翌1911年(明治44年)には、京成電気軌道(現・京成電鉄)会長、千代田瓦斯社長にも就任している。
この時代の大きな電力は北関東からやってくる。だから宇都宮藩なのか。(※たぶん違う。)
> 1927年(昭和2年)に新宿駅 - 小田原駅間を一気に開通させた。
京成のあと、小田急である。京成が文字通りまっすぐなのと同様に小田急も文字通りまっすぐである。ある区間において国鉄を圧倒する。よくできた私鉄である。(※恐縮です。)
> 1965年(昭和40年)4月10日には銅像が建立された。
1965年に銅像という。
> 五日市にあった古民家が「松鶴庵」として同園内に移築され同年4月3日に完成、閉園まで蕎麦屋として営業された。
そば屋ねぇ。(※ジト目)
http://kaigansansei.mad.buttobi.net/tohoku-shinkansen/kurikoma-kogen1.jpg
ふつうの駅にしか見えない。(※くりこま高原です。)
・日本車両「新幹線ヒストリー」
https://www.n-sharyo.co.jp/business/tetsudo/shinkansen/tec-history.html
よくできた年表でございます。主語(視点)を日本車両にするのが、かえってわかりやすい。▼「きらら枠の成立」については[3676]を参照。じぶんが日本車両になったつもりで年表を見るのがよい。(※学習上の工夫です。)
・よくあるストーリー(2020年12月1日)
https://toyokeizai.net/articles/-/392278?page=3
あくまで「よくあるストーリー」としてまとまりがよい。(棒読み)
> 1957年に登場した小田急ロマンスカー3000形SE車の開発に際して、国鉄の鉄道技術研究所が技術協力をしたほか、多くの鉄道車両メーカーが開発に参画し、数々の新技術が盛り込まれた。
> その中でも注目したいのが、付随台車に鉄道車両で初めてディスクブレーキを採用したことだ。これは鉄道技術研究所からの強いリクエストがあり、高速運転に対するディスクブレーキの有用性を確認する目的があったと推察される。3000形は付随車用として車軸ディスクブレーキを搭載。これは国鉄の特急・急行型電車の付随車にも採用された。新幹線0系では車輪にブレーキディスクを備えた車輪ディスクブレーキを付随車だけでなく電動車にも採用した。
> なお、小田急3000形は101系と共に高速度試験に使用され、当時の狭軌世界最高速度である時速145kmを達成。日本の鉄道の高速化時代の幕を切り開いたといえる。
小田急線と東海道新幹線は並行しているので、東海道線が並行在来線にはならないとかいう謎の理屈って、あるんでしょうか&しつれいしました。(※音声を変えています。)
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