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うーん。
・[3716]
> > 架空の「あおば市」が舞台だが、市域の規模と都市、農村部、海が揃っている千葉市がモデルとなり、海浜幕張駅前や千葉市役所、千葉中央公園など、市内各所でロケが行われた。
社会科というか生活科というかの教科書の「わたしたちのまち」のイラストみたいに「ぜんぶのせ!」(※意訳)で都合がよすぎてうそっぽい、こんな「わたしたちのまち」が実在するはずがないと思うでしょうけれど、…あるんだよ!(※白目)全国の市町村の数でいえば例外中の例外かもしれないけれど、千葉市という、教科書の絵みたいな「わたしたちのまち」がね。(※遠い目)
・「志村駅」
https://pbs.twimg.com/media/CLHuFZjVAAAql8b.png
えー…(てんてんてん)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E5%B9%B3
> 板橋区北部、荒川及び新河岸川南岸に位置する後背湿地。
> 東京都中央卸売市場板橋市場やトラックターミナルを中心とする物流拠点となっている。
> 高島平九丁目には都営三田線の車両基地である志村車両検修場があり、その上に都営住宅が建っている。
> 明治から大正時代までは大半が北豊島郡赤塚村に属したため、赤塚地域の一部とされることもあり、警視庁や郵便局は、この区分を基本としている。
> 1841年(天保12年)砲術家高島秋帆が当地域にて、日本で初めてとなる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行う。
> 1969年(昭和44年)3月1日:板橋区による住居表示実施に伴い高島平一丁目〜九丁目が発足する。高島秋帆に因む町名が採用された。
いいですか。新しい町名が「高島平」と決まらないうちは呼びようがない。「赤塚地域の一部」というのは、その土地の土地利用がないに等しい状態だったときの市街地「赤塚」から見ての「あのへん(川のほう)」という言いかたに過ぎない。「高島平」の開発について述べる記事の中で「赤塚地域の一部」という言いかたを紹介する必然性が乏しい。
・東京都交通局「6000形(S43.12〜S45)」
https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/gallery/subway.html
https://www.kotsu.metro.tokyo.jp/pickup_information/gallery/i/subway_mita_01.jpg
> 志村(現・高島平)〜巣鴨間の開業に伴い導入したセミステンレス製の車両です。当時の帯色は赤でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B3%B6%E5%B9%B3%E9%A7%85
> 1968年(昭和43年)12月27日:都営地下鉄6号線開業に伴い志村駅として開業。
> 当時の駅の所在地は「板橋区四葉町」で、赤塚地区(旧・赤塚村)の中にあったために地元住民から「駅がある所は“志村”じゃない」「ふさわしくない」という異論が噴出し、朝日新聞 1968年10月25日東京都心版(16面)においても『志村じゃないのに「志村駅」』という見出しで、この問題が採り上げられた。
> 1969年(昭和44年)8月1日:駅名を高島平駅に改称。
> 同年3月1日の住居表示実施により、駅周辺に「高島平」の地名が新しく定められた。
「高島平」と決めるのが遅れたからに違いない。「高島平」が決まり次第、「志村」という駅名を破棄して「高島平」にすることが最初から内定していたはずだ。何を言われても何も言わず粛々と「高島平」の住居表示実施を経て、駅名も変えた。○か×か。
> 1969年(昭和44年)7月:高島平団地事業計画が14階建て高層団地主体に変更される。
「志村駅」の駅名は、区画整理と団地の事業主である日本住宅公団が決めたものであったはずだ。日本住宅公団として「高島平」という呼びかたを決定するまで「志村」と仮称してあった、その程度のことであろう。もっと○か×か。「志村駅」の建設費用の負担割合が知りたい…といって、その実、路線全体の建設の予算から分離して日本住宅公団の負担割合が云々という「明朗会計!」は、1968年などという年代には、まだできていなかったのではないか。えー…(てんてんてん)。
https://pic2.homemate-research.com/pubuser1/pubuser_facility_img/9/4/6/46000000000000002649/0000000867/46000000000000002649_0000000867_5.jpg
https://pic1.homemate-research.com/pubuser1/pubuser_facility_img/3/5/0/46000000000000002053/0000004804/46000000000000002053_0000004804_4.jpg
市川駅なども同じだけれど、川沿いの低地なので、その高さまでは浸水すること前提という階段である。まさに階段である。(※恐縮です。)特に、駅の周囲の土地が改良もできていない段階で駅は開業しないといけなかったので階段が高くなるのであった。
https://assets.gakuseikaikan-tokyo.com/share/img/estate_photos/2301005335_ar20.jpg
https://www.fitto-house.com/voice/obj/img/000/026/110801-1830_01l.jpg
市街地としての排水機能の整備が終わればそこまで深刻ではないので、いま、その階段を下りきった低いところに店などがあっても、それは問題ないのである。いかに駅だけが先にできたかわかるというものだ。
https://www.city.takeo.lg.jp/rekisi/rangakukan/rangakukankara/syuuhan.html
> 高島家は代々、長崎の市政を実質的に取りまとめる町年寄を務め、長崎警備の一環として出島台場(砲台)を受け持った関係から、砲術を学ぶ必要がありました。
> 町年寄の特権を利用して出島のオランダ商館に出入りし、洋式の銃陣・砲術を研究。高島流砲術を確立して、西洋砲術の第一人者となりました。
> 天保十二年(一八四一)、幕府は海防等の急を説く秋帆の進言を入れ、江戸近郊の徳丸原で西洋式調練を行わせました。幕府が西洋砲術を導入するきっかけとなった演習です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E4%B8%B8%E3%83%B6%E5%8E%9F
> 徳丸ヶ原全域は赤塚城のふもとにあり、古くは名族豊島氏の支配下にあったが、その後千葉氏の支配下に置かれた。千葉氏と豊島氏の争いが太田道灌の援助を受けた千葉氏の勝利に帰して後は、間接的に後北条氏の管理下におかれたようである。
へー…
> そもそもが荒川の後背湿地であり、腰までつかるような湿地帯と沼地が点在する荒原だったことから耕作にも適さず、おもに幕府の鷹狩場や砲術訓練所として利用されていた。
> 腰までつかるような湿地帯と沼地
そこら中がそういう土地だったということを忘れて日本史のマニアなどと称して城と城主ばかり追いかけるような見かたをしてはいけません。
> 明治に入り、豊富な荒川の水資源を頼りに耕地化が進み、「赤塚田んぼ」「徳丸田んぼ」と称され、昭和初期まで、東京都で生産される米の7割を生産するなど、東京屈指の米どころに発展した。
> 23区内で最後まで残った水田地帯も、1958年ごろには新河岸川流域の工場進出および付近の住宅化による地下水の枯渇、家庭排水の流入などにより耕作に不適な状況となってきた。
日本史というならここまで学びきらないと、ですよっ!(※見解です。)
・[4005]
> [4000]からはじまる一連の話題とは無関係です。
じゃあ、何の話題だったのか。えー…(てんてんてん)。豊島氏と千葉氏と高島家しか出てこなかった。ここまで説明してくれた『先生』はここまで!(違)すぐむこうで『次の先生』があざとく岩を眺めてますよっ!(もっと違)
・(1月17日)
https://www.huffingtonpost.jp/entry/news_jp_60039c77c5b6ffcab964e7d5
> 世界史Bでは、複数の設問にわたって、歴史を知るためには資料が重要であること、そしてその資料が組織的に改ざんされてきた過去があることを強く示唆する内容だった。
> 歴史修正などを題材とした小説「1984年」が登場。
いいねーいいねー。「動物農場」([3251])もね。そだねー。
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