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(約15000字)
[4622],[4624]の補足です。
・[4622]
> > 千葉城が立替えられることはないだろう。2001年、千葉市は大金をかけて耐震建築に改修したのだ。
> いえね。くさっても千葉市の公共施設だから、ほかのどんな施設とも同じで例外なく60年は使わないといけない、そういう方向からの(築60年まで持たせるための)耐震補強であって、あの建物を(あの形で)恒久的に維持しようなんて、決まっていないのではないかなぁ。(棒読み)外観は気に入らないけれど現役の「千葉市立郷土博物館」。(※体言止め)
https://www.city.chiba.jp/kyodo/annai/floor.html
> 正面の階段を登ると左手に受付があります。
> 館内はすべてのフロアにエレベーターがあります。
https://www.city.chiba.jp/kyodo/annai/accessibility.html
> スロープ付きの自動ドアの出入り口があります。
https://www.city.chiba.jp/kyodo/annai/images/22.jpg
https://www.city.chiba.jp/kyodo/annai/images/23.jpg
まあ、…ねぇ。建物の1階の外壁が石垣風という。裏手の駐車場に出るための非常口のような場所。(棒読み)
https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/23/33/80/src_23338044.jpg
余計なものを置く感性を疑う。鏡石はどこですか。えー…(てんてんてん)。
・[4597]
> > 店舗はガラス張りだが、1年前までは在庫を積み上げてあって、外から店内がよく見えなかった。「来店したことのない方は、『何を売っているかわからない怪しい店』と判断して近寄らなかったかもしれない。そこで、外からでも店内を見えるようにして、入りやすい店に変えた」という。
> あのね店長さん(ぐぇ)オープン当初はそうだったのよ。いつの間にかだらしなくなっていただけなのよ。
・こちらは千葉市環境保健研究所です(2014年)
https://www.city.chiba.jp/hokenfukushi/iryoeisei/khoken/kkagaku/documents/21-16tyousakennkyuu1-11.pdf
> 5階南側回廊
https://www.city.chiba.jp/kyodo/annai/tenbou.html
https://www.city.chiba.jp/kyodo/annai/images/kyouhakuminami.jpg
千葉市が自前で持っていて自由に使える、高さのある貴重な観測点。高さありきで建てられたのかなぁ。記憶にございません。(※真顔)
・[3591]
> > 横浜のシンボルとしての顔を持つ大観覧車「コスモクロック21」は、全高112.5m、定員480名の世界最大の時計機能付き大観覧車です。
> 観覧車付き時計台(鉄骨造)とも思えてきます。112.5メートルまでのビルの建設に必要なデータが取れるという理解でございます。むしろ、100メートルを超えるビルは鉄骨造だろうといって、なるほど先行して造られる「コスモクロック21」も同じ構造であることが求められそうだといって納得できましょう。(※あくまで勝手な納得です。)
1967年4月9日に観光課の所管施設として「千葉市郷土館」が、ああいう高さの場所にああいう高さの建物として竣工することが、そのあとすぐの何か近くの同じくらいの高さの建物の実現に寄与しているとしたら…(てんてんてん)。『千葉城!(笑)』という外観はまったく気に入らないが、それでも千葉市の何かに貢献したんだと認めないといけない。(※体言止め)
https://www.dai3.co.jp/_old_hp/rbayakyu/20th/times/news202.htm
> 「近代以降の我が国における絶対高さ制限の嚆矢(こうし=ことの始まり=記者注)となったのが、1919(大正8)年に制定された市街地建築物法(建築基準法の前身)の絶対高さ制限である。住居地域では65尺(後に20m、1尺は30.3cm=記者注)、住居地域以外の用途地域では100尺(後に31m)に高さが制限された。 1970 (昭和45)年の建築基準法改正で容積制が全面導入されたことに伴い、50年間運用された『100尺規制』が撤廃された」
> 「当時住宅におけるエレベーター設置がほぼあり得なかったことや、5階が歩いて登れる高さの限界だった」
あの高台に、1967年に建設可能な最大の高さで建ててみて、1970年より後に高い建物を建てるときのために風速など測れるんじゃないか。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%93%E3%83%AB
> 1968年(昭和43年)12月 - 千葉ステーションビル本屋に4〜6階を増築。
なんと1968年12月である。駆け込みというかなんというか…(てんてんてん)。1967年4月の開館までに建物はできていた『千葉城!(笑)』で測った風速を根拠にして速やかに千葉ステーションビルを6階建てに増築。こんなことでよかったのでしょうか&しつれいしました。(※ジト目)
※あくまで年代だけ見ての勝手な決めつけです。そんなこともあったかもね、みたいに力なく笑ってください。(※真顔)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%9A%E6%9C%AC%E7%B8%BD%E6%A5%AD
> 1963年5月31日 - 国鉄(現・JR東日本)千葉駅前にある国有地(労働基準局と行政監察局の跡地)を取得。
> 1965年
> 前述の千葉市富士見町の旧国有地に塚本大千葉ビルが竣工。
https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/46/54/19/src_46541989.jpg
https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/46/54/19/src_46541978.jpg
最初からそんなに高さのある建物だったのかしら&高い所にとってつけたような渡り廊下。記憶にございません。阪神大震災で途中の階がつぶれたビルを思い出してしまいます。ああいう年代には、そういうふうに増築した建物がいくらでもあった。南浦和駅ー(↑)って、あるじゃないですか。(※個人の感想です。)
https://www.city.chiba.jp/100th/history/index.html
> 1921(大正10)年
> 京成電気軌道の船橋〜千葉間が開業し、押上まで開通
関東大震災の2年前から電車が押上まで走る。(キリッ
> 1940(昭和15)年
> 長洲に和風の市庁舎を谷津遊園から移築
この庁舎がどうなったかはよくわからないが(=このページを読んでもわからないが=)、長洲らへん(一帯)はたいがい空襲で焼けたと聞く。
> 1957(昭和32)年
> 放射線医学総合研究所開所
> 1963(昭和38)年
> 長洲に市庁舎完成
> 国鉄千葉駅が現在地に移転
> 1967(昭和42)年
> 検見川海岸の埋め立て開始
> 郷土館(現郷土博物館)開館
> 学校給食センターが完成し中学校の完全給食制を実施
千葉市の学校給食センターと『千葉城!(笑)』が同じ年だったとは…(てんてんてん)。
> 1970(昭和45)年
> 市庁舎が千葉港に移転
長洲で復興した庁舎は7年しか使われなかった。○か×か。1970年にできた庁舎は何階建てですか。(※恐縮です。)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/af/Chiba_city_hall.jpg
上に載ってるやつ(※直訳)は、どういうあれなんですかね。(ゲフンゲフン)こういうところが1970年なんですね。記憶にございません。(違)
・(2021年6月8日)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210608/k10013073611000.html
> アスベストの使用は国内では15年前に全面的に禁止されたため今回、取材を進める中でもすでに解決された問題と思っている人が少なくないと感じました。
> 厚生労働省によりますとアスベストの規制は徐々に強化されたため、どの建物に使われたのかその記録が残っていないケースがあり、解体時には事前の調査や飛散を防ぐための対策が求められます。
> しかし、調査をしたもののアスベストを見落としたり、調査や対策を怠ったりしたケースが確認されていて、作業員などがアスベストを吸い込んでしまう、新たな被害が出ることも懸念されているのです。
「千葉市立郷土博物館」の建物はどうだったか。1966年11月24日に開館した「加曽利貝塚博物館」では天井材として使われていたので休館して除去工事をしたといいます。
・「アスベストの疑い」(2016年9月16日)
http://www.chibanippo.co.jp/news/national/351388
> 北貝塚貝層断面観覧施設と竪穴住居跡群観覧施設。15日午前、改修工事の打ち合わせのために訪れ市職員1人が吹付材を確認したところ、アスベストが含まれている可能性があると判断。
> 博物館本館はアスベスト処理を行っていた。
「アスベスト」を日本語で言えますか。
・[4154]
> 「メカ」を日本語で言えますか。
・[4403]
> スクロールを日本語で言えますか。
・[4404]
> インフルエンザを日本語で言えますか。
・[4374]
> 「諫める」を日本語で言えますか
> 「なかなか批判的かつ刺激的な意見」に「うなずける」という体験。プライスレス。(※詠嘆)
> 「大人のNゲージャー」同士が、互いに他者を目上とみなして「諫める」ようすが「GMカタログ」の誌上で繰り広げられたということである。さっすが板橋区大山の鈴木さんちである。
・[4113]
> 火の見やぐらの製作に「火であぶる」という工程がある。ああGMよ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%B2%E7%81%BD%E7%84%A1%E7%B7%9A
> 都道府県防災行政無線は、都道府県庁と市町村役場・県出先機関・防災関係機関(都道府県警察本部・自衛隊主要部隊・海上保安官署・気象官署・放送事業者など)との間を結ぶものである。
> 1972年の第一次都道府県防災整備によって固定系・移動系・FAX一斉系が整備され(略)
そのような1972年である。1972年のイメージが何か変わりましたか。(※詠嘆)
・(2021年10月5日放送)
https://www.nhk.jp/p/anotherstories/ts/VWRZ1WWNYP/episode/te/VGGP7M25XP/
> 1972年、奈良県の高松塚古墳で石室の壁に極彩色の絵が発見された。
「1972年」という字幕から始まる、どんぴしゃな番組。▼1960年代から1972年までの空気感(「お宝」で「観光」)と、▼1973年くらいの空気感(「模写」)と、▼2002年や2006年の空気感(「石室解体」)を、それぞれ振り返ってください。▼「2020年3月」で締めくくられます。
・(再掲)
https://art16.photozou.jp/pub/305/15305/photo/23329978_624.jpg
・[4274]
> ここに写っているものはぜんぶゲームの中でもやりたいのであるが、できるものがいくつあるだろうか。
・[4263]
> この仕事が終わったら温泉さ行ぐだ! うわぁ縁起でもない。この仕事が終わることはないという未来が確定した瞬間である。長閑な時代であった。(違)
https://pbs.twimg.com/media/EgjHIjoVkAAJt2J.png
・[4361]
> 『AなのでB』みたいな雑な言いかたはじぶんでじぶんに盲点(死角)をつくってしまう、ちょっとまずいやりかただから、最初から避けておくといいよ、ということなんですね。
・[4562]
> グリーン車がないと「全国豊かな海づくり大会」を誘致できない。○か×か。
言った端から「○か×か」と問う。
http://www.yutakanaumi.jp/umidukuri/
> 平成4年11月8日
> 千葉県勝浦市守谷海岸
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%96%E6%88%BF%E7%B7%9A#%E6%A8%AA%E9%A0%88%E8%B3%80%E3%83%BB%E7%B7%8F%E6%AD%A6%E5%BF%AB%E9%80%9F%E7%B7%9A%E7%9B%B4%E9%80%9A%EF%BC%88%E5%BF%AB%E9%80%9F%EF%BC%89
> かつては勝浦駅発着で運転されていたが、1998年に大原駅発着に見直され、2004年10月16日のダイヤ改正で上総一ノ宮駅発着に統一された。
1998年は平成10年です。
http://bosoview.sakura.ne.jp/jr/soubur/e217/e217.html
> 外房線が上総一ノ宮まで(かつては付属編成が勝浦、基本編成が大原まで運用されていました)
さすがに勝浦に普通列車グリーン車は行かなかった。(※恐縮です。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%81%97%E3%81%8A_(%E5%88%97%E8%BB%8A)
> 下り「わかしお」9号は安房鴨川駅到着後、翌朝の上り「わかしお」2号となるまで、夜間留置のために館山駅まで往復することとなったが、これを回送列車ではなく普通列車として使用した。これが特急用車両の普通列車運用の初めとなった。
へぇぇ!!(※恐縮です。)
> 1985年(昭和60年)3月14日:新宿行きおよび両国駅発着の「わかしお」を全廃。また、一部列車でグリーン車連結を取りやめ。
えー…(てんてんてん)。
http://b767-281.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2016/11/17/255_be03_081230.jpg
https://livedoor.blogimg.jp/h_nekomata/imgs/1/8/187895029962a0f56473.JPG
> 1993年(平成5年)7月2日:255系を投入し、「ビューわかしお」として運転開始(2往復)。
平成4年11月に勝浦を“いい時間”に発着する特急列車にグリーン車があったかどうかということ。また、そもそも平成4年という時期だということ。(※さらに恐縮です。)
・(♪〜)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/36/Wakashio_255.E257_in_%C5%8Dami.png
※画像はイメージです。
・[4604]
> > 食堂(空き教室を改造したランチルームを含む)を保有している学校は、五十四年には小学校三・四%、中学校二・○%であったが、六十二年にはそれぞれ一三・六%、七・二%とかなりの伸びを示している。なお、文部省では、四十七年度から食堂設置に対し国庫補助を開始するとともに、六十三年度からはランチルームへの国庫補助を開始した。
> > 四十八年末から四十九年にかけての第一次石油危機により物価が騰貴
> 昭和44年は何年ですか。はい1969年ですねー(↑)。オイルショックより前なんです。(※変な声で力説)
・「平成20年度 第1回千葉市立博物館協議会議事録」(2008年7月10日)
https://www.city.chiba.jp/kyodo/fuzoku/documents/hakubutu080710.pdf
> 郷土博物館の鎧づくり講座の鎧を拝見しましたが、どうせやるなら大鎧を中心に考えてやっていただきたい。大鎧以外の鎧は、左右対称となっています。古代も近現代もそうです。ところが、大鎧は左右非対称となっており国際性がなく独特で、これが基となって近世具足が成立しています。つまり、これを着るには子どものころから右利きにしなければならなかった。それを理解させることで、日本独特な文化として認識させることができます。大鎧が非対称であることを知らない人が大半なので、こんなに違うのかと知ることが必要です。子どものころから、日本独特な部分がどこにあるのか、なぜ生まれたのか考える必要があります。
大鎧が非対称であることを知らないばかりか大鎧を知りませんでした。じぶんから興味を持って学ぶのは別として、どのくらいの細かさで習う時に大鎧を取り上げることができましょうか。唐突に「右利き」という話題を割り込ませる強引な展開という印象が出てしまわないでしょうか。(※反語)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E9%8E%A7
> 大鎧は弓の使用や矢による攻撃への防御を重視した構造となっており大袖(おおそで)・鳩尾板(きゅうびのいた)・栴檀板(せんだんのいた)等の部品が付属
> 弓を射る時に開く脇と胸部を防御する楯状の部品。鎧の胴の前面に垂下する形で付属する。右脇が栴檀板、左脇が鳩尾板。右の栴檀板は、弓を引いたり刀剣を振るう際に屈伸可能なよう、3段からなる革製ないし鉄製の小札で構成される。一方で急所に近い鳩尾板は1枚の鉄板とする例が多い。元来は両板とも栴檀板と呼ばれており、鳩尾の板が何を指していたのかは不明。
そんなものを着られる者はごく一部。「これを着るには子どものころから右利きにしなければならなかった」に感じる若干のモヤモヤ。「子ども」「右利き」ぜんぶにまで一般化してしまう言いかたの大きな飛躍よ。(※個人の感想です。)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E7%94%B0%E5%B7%A6%E4%B9%8B%E5%8A%A9
> 傷が左から真一文にあったため、左利きではないかという説がある。
> 槍の名手として知られた。
その名も「左之助」。(※体言止め)左利きではないかという説がある「槍の名手」である。(※詠嘆)
https://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/kouko/89migi.html
> 左利きを右利きに変える圧力は、社会や文化によって大きく異なっています。
・「平成29年度 千葉市・大学等共同研究事業報告書」
https://www.city.chiba.jp/sogoseisaku/sogoseisaku/chosei/documents/h29honbun-chibauji.pdf
> 昭和51年(1976)開催の「開府850年記念祭」以降,次第に忘却されていったようである。
かいつまんでいえば「千葉常胤生誕900年にちなみ、千葉市産の野菜がたっぷり入った900杯のとん汁を大盤振る舞い!(無料)」である。(※ひらがな)800年や850年に奔走された大先輩方に申し訳ない。○か×か。
> 平安時代から戦国期までに房総に土着し,兵の家として消長を繰り返した一族の「物語」
> 千葉市に隣接する市で育った筆者の記憶を繙いても,小学校中学年あたりに千葉常胤の存在を学び,校外学習で訪れた千葉市郷土博物館入口付近に展示された木彫の千葉常胤像(安西順一作)は,今日も鮮明な「千葉の記憶」として残っている。
ほかの市町村を通らずに千葉市と茂原市を行き来する道路が…(てんてんてん)。「千葉市に隣接する市で育った」とぼかす必要などない。東金市か市原市か茂原市か。千葉市より西や北の市から「千葉市郷土博物館」には来ないだろう。(※1992年まで町だった八街市を除く。)何しろ外観が(ぐぇ)『千葉城!(笑)』の面倒な説明を回避したいから、ほかの科学館など施設が充実すればそっちへ行く。じぶんが受けた教育を客観視しようじゃないか。(※遠い目)
> 欧化が進む明治千葉の町で,千葉氏の「記憶」を必要とする動きがあったことは,従来ほとんど関心が寄せられなかった問題である。
> 大戦前の千葉が「軍都」としてあったことにも千葉氏の存在が関与している。加藤久太郎『在職四年間』(【資料2】)に明らかだが,町長の加藤が交通兵旅団(現在では鉄道連隊と通称される)を招聘するにあたり主張したのが,「我千葉町の如きは,往昔千葉氏の拠る所にして九星旗の鎮護せりし土地」という千葉氏の本拠地としての「千葉」であった。結果,軍都・千葉が七夕空襲(1945年7月7日)の標的となり,千葉氏に関わる史資料の多くが失われたことは,皮肉としか言いようがない。
後世の者による利用を「存在が関与」と表現してはいけない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E8%91%89%E7%9C%8C%E7%AB%8B%E6%88%BF%E7%B7%8F%E3%81%AE%E3%82%80%E3%82%89
> 千葉県立房総のむら
> 敷地は栄町と成田市にまたがり(略)国の史跡・重要文化財が良好に保存されている。
> 1976年(昭和51年)7月に開設された房総風土記の丘は、千葉県内で唯一の考古学専門の博物館であった。
https://auctions.afimg.jp/e143457301/ya/image/e143457301.1.jpg
1976年は何年ですか。(※言いかた)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/2/2d/Fudokinooka-siryokan.JPG
すごーく1976年ちっくな建物。(※見解です。)
http://www.city.togane.chiba.jp/0000001335.html
> 古くは江戸時代、徳川家康の鷹狩りのために「御成街道」が造られたことにより、この地に宿場町と近隣の農産物が集まる問屋街とが形成されました。
> 現在では、国道126号線と千葉東金有料道路、首都圏中央連絡自動車道(圏央道)をつなぐ交通の要衝となっています。
本日は「東金市」の説明をそのままご覧いただきました。
・(2021年9月11日放送)
https://www4.nhk.or.jp/P6640/x/2021-09-11/44/27424/2866700/
> のれんの奥の奥
http://www.marond.com/company.html
> 大正5年 千葉市稲毛にて川島屋菓子舗開業。
> 大正12年 新たに製パン業を開始。店頭販売。
「店頭販売」の大正12年よ。それまでは「店頭販売」ではなかったということ。名士の別荘から慶事や茶会のお菓子を注文いただく(家紋などの焼き印をおつくりする)といった光景が、「みやこびと」の番組を見た後ならリアリティをもって想像できる。(※恐縮です。)
> 昭和48年
昭和48年は1973年です。学校給食でパンのお取引が堅調だから「マロンド」一号店のオープンに至る。○か×か。(※恐縮です。)
> 昭和56年
米飯給食は時間をかけて拡大していったので、昭和42年に学校給食センターができたすなわち米飯だということではなかった。「川島屋」の説明をご覧いただきました。
・(2021年1月31日)
https://twitter.com/yamazakisuncity/status/1355669751196831745
https://pbs.twimg.com/media/EtBNW0LUcAMEn_z.png
> 本日のグラタン
えー…(てんてんてん)。
・[4532]
> > 最近、レストランでは肉や魚の付け合せにアレンジした米料理が出ることが多いですが、あくまでも、米=野菜の1種、という考え方なので、パンは必ず別添えされます。
> 煮豆みたいなもの。(※言いかた)
・[3982]
> > 「シウマイ弁当」4000個
> > 乗員・乗客や支援を担う自衛隊などに差し入れたという。
> > 内訳は乗員・乗客向けに3800個、自衛隊などに200個。
> われわれの生存権がかかっている。食べる食べないは知らない。食べ物がないという状況を発生させてはならない。『状況』ねぇ。(※ジト目)ただし生存権が云々とは国民に限る。船会社が寄港地でとっさのパン(※船内で調理不要で常温ですぐに配布できる)など調達できるかはぜんぶ船会社しだいだ。そのときヤマザキくらいじゃないと3800食は提供できまい。しかしヤマザキのごはんみたいなパンよ。これがパンですか。(げふ)つくづく国民食である。われらごはんの国である。
・[3724]
> 市町村と協定を結ぶ各地の連続炊飯も手がける製パン業(ふだんは給食用を納め、災害時は避難所に届ける=『お届け先』自体は同じ!)と、国道を管轄する役所と協定を結ぶ山崎製パンの間で、どちらとも直接には関係がない県道については「よきにはからえ」みたいな&本当でしょうか。(そこまではよく理解してなくてすんません、の意。)わたしたちが飢えないようにしておく、あんたじぶんのせいでしょ食料を買いこまずに居住や旅行をしたからだー(↑)みたいにも責任を問われず、とにかくパンが無料で配られるようにしておく、これが生存権というものを現実に確保するための現実の体制というものですぜ。おっと、これは社会科ですぜ?(※見解です。)
・[3754]
> 役場が壊滅してもそれを言いますかみたいなこと
> 役場が壊滅してもそれを言いますかみたいなこと
> 『工兵隊(※直訳)』じゃないとできないことがある。山林の所有者が確認できなくて伐採できないみたいなことを民間の会社は(電力会社であってなお)言わないといけない(※「いけない」に傍点)けれど、生存権だ国の責任だと言ってただちに伐採できるのが『工兵隊(※直訳)』なんです。この役割を正確に理解すべき。
https://www.city.narashino.lg.jp/smph/citysales/kanko/bunkahistory/rekishi/Narashino_POW_camp_1915.html
https://www.city.narashino.lg.jp/citysales/kanko/bunkahistory/rekishi/Narashino_POW_camp_1915.images/photo07.jpg
> フリッツ・ルンプ 稲毛の漁師の娘
> 肉の仕入れに出たドイツ兵は肉屋にハムやマヨネーズの製法を教え
> カール・ヤーンら5名のソーセージ職人は、千葉市に新設された農商務省畜産試験場の飯田技師の求めに応じてソーセージ作りの秘伝を公開し、この技術は農商務省の講習会を通じて、日本全国の食肉加工業者に伝わっていきました。習志野は、ソーセージ製造発祥の地となったのです。ヤーンは最初、伝統の秘伝を公開してしまうことにためらいを示しましたが、西郷所長の熱心な説得に折れてくれたものだと伝わっています。この他、収容所から房総の牧場に出張してコンデンスミルクの技術指導をした者、銀座のカフェーに洋菓子作りの指導に通っていた者などが知られています。
ハムやマヨネーズの製法とソーセージ作りの秘伝との違いとは…(てんてんてん)。
> この年のクリスマスの朝に、習志野のドイツ兵は収容所を出て津田沼駅まで行進し、帰還船の待つ神戸や横浜に向いました。
津田沼駅と聞いて、急に引き戻される思い。(ぶつぶつ)
・(♪〜)
https://traininfo.jreast.co.jp/train_info/img/display/idsimage.jpg
https://mrs.living.jp/wp-content/uploads/2019/11/r1.11iru03.jpg
https://i.pinimg.com/originals/89/96/78/89967808e1cd21b0e68a1662ce31f598.jpg
・[3725]
> > 「津田沼サンペデック」とは、1978年10月に竣工した、2つの商業施設とホール(習志野文化ホール)が一体となった大規模商業施設。今回NREIM社が日本生命(相)から施設の区分所有権を取得
> 建物を解体する時期(2025年か)が来れば、この土地を使って新京成と京成の境界駅となる地下駅みたいなのを京成側が持つみたいな計画([3344],[3503])って、ないのかしら。車両はすでに「A-A基準」で辰巳台や西広や海士有木が地下駅になってもだいじょーぶ(諸事情により略)
> なるほど新京成から前面に扉のない車両が2025年までに全廃されるんですね、わかります。近年の新京成の新型車両はぜんぶ地下鉄を走れるという理解でよろしかったでしょうか&しつれいしました。
・[4562]
> 地下区間もないし地下鉄との直通もない新京成の車両がぜんぶ京成と同じ地下鉄OKな電車にそろう、の意。
・[4496]
> 4日間にわたり、少しずつ移動しながら「海越しの富士山」の「ダイヤモンド富士」が楽しめるということです。「(公社)千葉市観光協会」からの「お知らせ」でした。
・[4357]
> 輝け!(じゃーん)「稲毛陸橋」っ!!(※ジト目)…ただいまのイメージは「輝け! 稲毛陸橋」、「輝け! 稲毛陸橋」でございました。本日は「輝け! 稲毛陸橋」のイメージをご覧いただきました。(※言いたいだけ)
・[3674]
> うーん。「歯科大経由」だけどまいっかみたいな&もっとしつれいしました。
・[4320]
> 出ました「歯科大経由」!!(ぐぇ)千葉海浜交通は事実上の「BRT」なので、京成電車みたいなダイヤですよ。(※真顔)
・(9月29日)
https://www.keisei.co.jp/information/files/info/20210929_140838312685.pdf
> 全線1日乗車券『海浜1日乗車券』について
・[3702]
> 千葉海浜交通(てやんでぃ)
https://www.3aaa.co.jp/wp/wp-content/uploads/2017/10/1f79b95a8fb90333a2e4535c2b26ae2e.jpg
https://keitotetsu.lalulintas.net/wp-content/uploads/2020/04/DSCF7260.jpg
・[4510]
> つくりもの感たっぷりでわるうございました。
> > 森(千葉県指定天然記念物)
> > 「滑河・名古屋方面」
> どこの名古屋だよ&成田だよっ!!(※謎の絶叫)
https://service-news.tokyo/wp-content/uploads/2021/03/DSC05824.jpg
バス・オン・ザ・バスっ。
・(再掲)
https://tblg.k-img.com/restaurant/images/Rvw/5494/5494836.jpg
> 亀山
・(再掲)
https://livedoor.blogimg.jp/vivit_funabashi/imgs/9/1/9194322b.jpg
> 藤崎茜浜線
・[3996]
> ちょーかっくいー。
・[3891]
> はじけるあぶく。はずむかいわ。
> > 防波堤がとまらない。
> いつかもきいたきがするはなしをはじめてきくようなかおできく。(※ひらがな)
・[4028]
> なんどでもいうけれど、内容に軽重があるのに無視して「おもしろ半島」という軽薄なタイトルをつけちゃう軽薄さが許せん。
だからいわんこっちゃない。(ぶつぶつ)
https://livedoor.blogimg.jp/genki100bai1969/imgs/1/f/1f9edc9ae997439aee7e.jpg
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4e/52/6bb2d13b66885f3b3b26625cf48f16af.jpg
> 千葉県千葉郡幕張町実籾(現・習志野市東習志野)
> 千葉県千葉郡幕張町実籾(現・習志野市東習志野)
「幕張町実籾」の「東習志野」よ。(※詠嘆)「千葉市に新設された農商務省畜産試験場」とは、どこなのか。
> 習志野を後にしたドイツ兵の中には、ワイン技師ハインリッヒ・ハムがいました。山梨県のぶどう園の指導に招かれた彼は、そのまま戦争に巻き込まれ、習志野で失意の日々を過ごしていたのです。夢破れて故郷に帰ったハムは、そこでかつて自分が送った1913年産の日本のワインと再会します。「エルスハイムに帰って見つけたこの数本のワインは、まだ輝きがありとてもおいしかった」と、彼は誇らしげに記しています。日本産のワインを育て、日本人にワインの楽しさを伝えようとした彼の夢は、本当に破れさった訳ではなかったのです。彼が心血を注いだぶどう園は、今ではサントリー山梨ワイナリーとなっています。
> 当初、日本人はソーセージを気味悪がり、事業はなかなか軌道に乗らなかった、といいます。
> 徳島県板東の収容所は、同じ時期、ベートーヴェンの第九交響曲を日本初演したことで知られていますが、第九は習志野でも演奏されていたという情報もあります。
・(2019年3月16日放送)
https://www.nhk.jp/p/buratamori/ts/D8K46WY9MZ/episode/te/MP21Q2K469/
ブラタモリ「鳴門」の回を見た後に「習志野商工会議所」のページを読んでください。
https://www.narashino-cci.or.jp/narashino_sausage/history.html
> 習志野市は「日本のソーセージ製法 伝承の地」といわれるようになりました。
> 習志野商工会議所では、約100年前にドイツ式ソーセージの製造法が習志野市内で伝えられたという歴史的事実とそのレシピをもとに、「習志野ソーセージ」を有力な地域ブランド(ご当地グルメ)として育てあげ、地域活性化を図ることを目的に事業を行っています。
「習志野商工会議所」の説明でした。ありがとうございました。
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