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(約11000字)
[4620]の続きです。
・[3601]
> > 千葉常胤生誕900年にちなみ、千葉市産の野菜がたっぷり入った900杯のとん汁を大盤振る舞い!(無料)
・[4620]
> すんごい耳寄り情報。(違)
> 「奥州藤原氏を頼った」などとひとことで済まされるけれど、実際にどんな移動をしたのだろう(以下略)
> 「伊豆山神社」や「修善寺」それに「真鶴から船で脱出」からの「安房」と「千葉常胤」と源氏が頭の中でつながっていなかった。湾の奥の江戸なんぞより安房のほうが京都に近いという感覚を「よく表現し」する、わざとふにゃっとした地図で示し(以下略)
・[3735]
> 「小学校4年生で「社会科地図帳」をはじめて手にしたときの印象」
・[4401]
> 地図帳に「僕たちの町がのっていなかった」ということがあれば、早くも地理の学習への動機づけに格差が生じる。
授業の中で淡々と進んでいく日本の歴史と「千葉常胤」の間のモーレツな距離感。「印旛沼」が出てきても授業は立ち止まらない。嗚呼。(※個人の感想です。)
・[3489]
> > コースツリー=履修系統図
> > 「学生に身につけさせる知識・能力と授業科目との間の対応関係を示し、体系的な履修を促す体系図、カリキュラムマップ、カリキュラムチャート等」(中央教育審議会答申「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて」2012年8月)
> > プログラムにおける科目間の関係と履修の順次性を表した図
> 「『2巡目』『3巡目』の学び」については[3288],[3299]を参照。
もちろん、詳しいことは上の学校でやってねといって、下の学校ではスムゥズな流れに重きを置いた設計になっていることは必要なことで重要なことであるが、それでも、という『欲』である。(※恐縮です。)
・(参考)「秀吉のワイン」とは
https://museum.kirinholdings.com/person/wine/02.html
> 当時の文献の中には、足利義昭も織田信長も、いずれも実際にチンタ酒を飲んだとする記録が見当たらない。
> フロイスの『イエズス会日本年報』には、豊臣秀吉が博多でイエズス会士の乗っていた船を訪れて、糖菓とポルトガル産のブドウ酒を喜んで賞味した旨が記されている。
確かな記録があるものに限るという立場からは「秀吉のワイン」という覚えかたになる。「信長のワイン」は『なかった!』という主張をするわけではない。信長も飲んだという話が秀吉の頭になければ秀吉もまた飲まないだろう。「秀吉のワイン」という歴史上のイベントが、そのとき秀吉だけで(ほかとは完全に独立に)発生したというわけではないのである。○か×か。(※考えかた)
・[4615]
> 「入ってきていた」という日本語は難し過ぎて、「入ってきていた」と言っているのに「入ってきた」「やってきた」ひどければ「あった」としか受け取られない。(以下同文)
・[3297]
> 本件武将(!)に限って「医師の見地」を導入して考察するのでなく、症状と歴史的イベントに強い関係が疑われる事案すべてに対して、もれなく「医師の見地」を導入していかなければなりません。それが「学問的エレガンス」([2992])ですよねぇ。
> 「プライマリケアに対応できる幅広い臨床能力」については[2987]も参照。
ある時期を境に極端に残虐になった武将は「PTSD」ではないのか(*)。「医師の見地」を導入した考察が待ち遠しいけれど、いまはまだ「偉人たちの健康診断」くらいで満足するしかない。わたしたちの社会の進歩は、まだまだ“道半ば”であります。(※個人の感想です。)
*遡って特定の武将について診断を確定するということでなく、疫学的に、そういう状況であればどのくらいの割合でどういう症状になるだろうから、どの程度の確からしさで本件武将もそういう症状だ、といった議論をするのである。『歴史ロマン!』ということでなく、現代の診断方法や予防方法の改善につなげるものである。もちろん、『歴史ロマン!』としても厚みを増すのは当然で、そこはぜひ楽しんでもらいたい。楽しみはするけれど、楽しいから議論するというだけじゃない、というところが大事。(※恐縮です。)
・[4620]
> 「偉人たちの健康診断」なのに、ぜんぜん「偉人」じゃないではないか。な・・・なんだってー!!(※顔面蒼白)とってつけたように、江戸時代に偉業を成した人たちがこぞって「ご長寿」であったと説明する。…ちょいとおぬしどこへゆく?
> 江戸時代に偉業を成した人たちがこぞって「ご長寿」であったという説明は「軽症患者の多くは自然に回復するので、薬に効果があったかどうかは診療現場で確かめることはできない」と同じこと。本当でしょうか。みなさんで推理してみてください。(棒読み)いいえ、好き勝手に「自分の言葉で」でディスカッションするのでなく『疫学用語!』を導入してまとめていってください。
心身の健康(あるいは症状)は連動するから、例えば食事の内容が極端に変わったという記述があるとか、手紙のやりとりが急に減ったとかいった事実が確認できれば、何か推測はできるのではありませんか。紫式部がこじらせたのは五月病。本当でしょうか。(※考えかた)
・(2020年6月16日放送)
https://www.nhk.jp/p/chieizu/ts/R6Z2J4WP1Z/episode/te/K8ZKPQPNV2/
https://www.tvu.co.jp/program/201907_chieizu/
> 職場で生きづらい日々を送る人は多い。それは1000年前の平安時代から変わらぬ悩み。
> 宮廷になじめず出仕1日で引きこもりに。
・[3959]
> 「ビッグファイブ」とは何か
・[4381]
> > 「関係ない」と断言するのは「悪魔の証明」の類である。
・[4614]
> 「光秀のスマホ」じゃあるまいし。
・(9月28日)
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210928/k10013280261000.html
> アメリカの有力紙、ウォール・ストリート・ジャーナルは9月中旬、フェイスブックがみずから実施した調査で、インスタグラムが子どもの心に悪影響を及ぼすという結果がまとまっていたと報じました。
> これを受けて、悪影響がわかっていながら子ども向けのアプリを開発しているとして批判が高まりました。
・[4119]
> > KDDIなどが、去年12月にスマートフォンの利用者およそ9万人を対象にインターネットを通じて行ったアンケート調査では、およそ25%の人がスマートフォンの長時間利用などに問題を感じていて、このうちのおよそ83%が利用を改善したいと回答したということです。
> いかにして「依存」に陥らせるかという“悪い研究開発”のほうが達成がたやすい(陥らせないほうは「すべて」を防ぎきらないといけないが、陥らせるほうは陥らせさえすればいい)という悪夢の悪循環よ…じゃなくて、悪魔の証明よ。
・(9月25日)
https://digital.asahi.com/articles/ASP9S721GP9HULZU015.html
> 一方でいいことをしていても、他方でよくないことをしていれば、偽りだという話になります。
・(9月25日)
https://www.asahi.com/articles/ASP9H5SW1P9GPLBJ007.html
> 野生動物は体内に多くのウイルスを保有しています。ウイルスは宿主の動物の体内で進化を繰り返しています。その中で、たまたま人間に感染できるように変異するものがあります。たまたま人間がそのウイルスに近づくことがあれば、人間に感染してその体内で一気に増えるのです。
> ブラジルではアマゾンの森林を切り開いて肉牛の牧場にしており、いずれこれらの地域からも新たな感染症が生まれる可能性が指摘されています。
・[4424]
> > 「蘇」は今日の発酵クリームまたはクリームに近いもので、牛乳を熱濃縮したものであることから長距離の輸送にも適していた。
> > 吉宗は安房嶺岡牧場を開き、白牛を飼育させバターを造らせている。
「秀吉のワイン」に「吉宗のバター」と覚えて帰ってください。まだ帰らないでください。(※表現は演出です。)
> > さらに青木昆陽に命じて長崎でオランダ語を学ばせ、昆陽は「和蘭文字略考」や「和蘭話訳」などのオランダ語の手引書を著しつつ洋学(蘭学)の道を拓き、後に前野良沢、杉田玄白、大槻玄沢といった傑出した洋学者が生まれる素地をつくった。
> きょうは多田屋でオランダ語を学習するのであーる。…多田屋どこから出てきたし!(※真っ赤)
順天堂もあるよ!(※恐縮です。)
http://www.city.sakura.lg.jp/0000001196.html
> *千葉県の史跡指定名称は、「旧佐倉順天堂」です。
> 現在、安政5年(1858)に建てられた建物の一部が残っています。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%B3%B0%E7%84%B6
> 天保14年(1843年)、佐倉藩主堀田正睦の招きで江戸から佐倉に移住。病院兼蘭医学塾「佐倉順天堂」を開設。
> 佐倉順天堂の治療は当時の最高水準を極めていた。高弟であった関寛斎の「順天堂外科実験」にその手術例が詳しい。安政年間院内に掲示された「療治定」によると卵巣水腫開腹術、割腹出胎術とある(いずれも麻酔薬を使わない手術)。嘉永4年(1851年)、日本初の「膀胱穿刺」手術に成功。他にも乳癌手術、種痘など蘭学の先進医療を行うとともに医学界を担う人材を育成し、順天堂は大阪の緒方洪庵の適塾とならぶ有名蘭学塾となった。
・(9月21日)
https://www.asahi.com/articles/ASP9P3SQ4P9KULBJ010.html
> なぜ、日本にはこれだけ病院にベッドがあるのに、新型コロナウイルス対応に苦労しているのだろうか。
> そもそも病院の建築・構造に問題はないのか。
> 戦前の主流はナイチンゲール病棟
> 「病院での感染症対策については、ナイチンゲールが最初に提唱しました。ナイチンゲールはクリミア戦争のとき、戦争による傷ではなく、野戦病院の衛生環境の悪さのために、どんどん兵士がなくなることに気付きました」
> 「戦後になり、さらに大きく変わったのは感染症に治療法が出てきたことです。不治の病であった結核に対しても抗生物質が出て、感染症が治るようになりました。すると、病院も感染症対策から、がんや生活習慣病対策が目的になってきました」
「医師の見地」という表現を持ち出したときに外科しか連想されないという限界が、まだあるのです。(※恐縮です。)もっとも、疫学(≒統計)や薬学(≒薬の歴史)を含めたいなら「医師の見地」という表現では窮屈でもある。(※もっと恐縮です。)
・[4616]
> 「浮世絵ミステリー」などと称する魅惑的だが窮屈な番組フォーマットの限界を見る気がするというよ。
> 浮世絵に描かれないから「浮世絵ミステリー」と称する番組にも出て来ようがない。○か×か。
・[4618]
> 先に「浮世絵ミステリー」という枠を決めてしまうことで見えなくなるものがある。
もちろん、浮世絵の存在意義や資料的価値といったものを全否定しようというわけではないのは当然だ。浮世絵がいかにポピュラーな存在であるかということである。江戸の風俗だけがあって浮世絵(の普及)がなければ、いわば『自画像』が強化されない。それによって、江戸の風俗も「これぞ江戸」という定着や熟成を見ることはなかった恐れすらある。定まった『自画像』がなければ、そのときそのとき、いくらでも変化してしまう。浮世絵が描かれることによってフィックスしていったのだ。○か×か。(※考えかた)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E5%80%89%E6%98%8C%E7%94%B7
> 肺結核を患い4年間の入院生活を送るが、大和運輸がGHQ関連の輸送業務を担当していた為、日本国内ではほとんど入手困難だったストレプトマイシンを米軍ルートで入手できた事もあり、当時としては奇跡的に回復。
それはアメリカで承認されている薬を日本でも使用するための日本人での治験だったのではないですか。治験の説明を理解して同意する能力が本人になければいけない、そういうところが当時からちゃんとしていたのではありませんか。まだ「戦後」と言い続けていた時代に述懐された内容の“吟味”が必要な時期。「コロナ禍」を迎えたからこそ、いまのわたしたちにはリアリティのある話として見えてくる。本当でしょうか。
・「大仏に学ぶコロナ禍の暮らし」(2020年6月30日)
https://www.asahi.com/articles/ASN6V4Q7JN6CPTFC00X.html
> 芥川賞作家で僧侶の玄侑宗久さん(64)に聞いた。
> 11年の東日本大震災後、政府の復興構想会議委員を務めた。
> ウイルスに対するあり方を考えるうえで注目するのは、奈良時代だという。
> ウイルスにとって最も困った状況とは
ウイルスの気持ちになってウイルスを困らせてやろうじゃないか。(※言いかた)
https://eee.tokyo-gas.co.jp/case/medicalcare/04.html
「東京ガス」の説明でした。結核は治らないという時代にできたのが療養所です。
http://www.hatano-church.sakura.ne.jp/profile.html
> 昭和22年(1947年)春
> 結核療養所であった国立神奈川療養所(現国立神奈川病院)にて病床伝道が開始される。
https://www.bizcompass.jp/interview/155-1.html
> 亀田家は鴨川で11代続くとされる医師の家系である。亀田家が本格的に西洋医学の道に進んだのは、6代目の亀田自證(じしょう)の時。僧侶でもあった自證は、医学に専念するため僧籍を捨てて長崎まで蘭学を学びに行き、その後、鴨川に戻り「鉄蕉館」(てっしょうかん)という寺子屋と診療所を開設した。
> **の父親の**は、第二次大戦後に復員すると、当時国民病とも言われた結核の療養所(現在の亀田総合病院)を開設。経営と看護教育も行っていた母とともに、二人三脚で療養所を大きくしていった。
https://kotobank.jp/word/%E3%82%B5%E3%83%8A%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%83%A0-69416
> 療養所のほとんどは国立療養所で,第2次大戦後の1945年に傷痍(しようい)軍人療養所(結核36,精神3,脊髄1,温泉10)が,さらに47年に日本医療団所属の95の結核療養所が厚生省に移管されて,現在の体系の基礎がつくられた。
> 長期入院結核患者のためアフターケアを主とする
そのために僧侶も招かれ牧師も招かれる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%AA%E3%83%88%E3%83%AB%E5%85%88%E7%94%9F%E3%81%AE%E9%83%B5%E4%BE%BF%E5%B1%80
> 先生が医師になったばかりの頃、友人のフィップスと共同でサナトリウムを開設する。ところが、フィップスが患者を手放したくない為に治療を遅らせていることを知って憤慨し、要人の入院患者・クィズビー卿に思わず八つ当たりしてしまったことが原因で患者達は一斉にストライキを始めてしまう。
フィクションを通して、いわば「ワンクッション」はさんで理解するという学習機会も大切にしたい。(※意見です。)
https://jata.or.jp/terminology/s_11.html
> 1944年米国のワックスマン(Waksman)らが放線菌Streptomyces griseusから抽出した最初の抗結核性抗生物質。1951年社会保険適用,同年10月より結核予防法による公費負担の対象となった。1日1g週2日または0.75g毎日筋注。
0.75g毎日筋注。(ぐぇ)あれを毎日やるんですかといったところにまでリアリティを持つ、いまのわたしたち。そして1952年になっても「日本国内ではほとんど入手困難だった」ということになるけれど…(てんてんてん)。そういうところまでぜんぶ生々しい。(※個人の感想です。)もっとも、回復しなかった人が多かったことへの気持ちが大きい。「米軍ルートで入手できた」「奇跡的に回復」といった説明をわざとしたとすれば、それは回復した人を社会生活に戻すためのカウンセリング的な要素が強めではなかろうか。
・[3238]
> 『○○が必要な時期』といって、充電だの貯金だの息抜きとしての海外旅行でパスポートサイズのハンディカムだの
・[3694]
> かつて京成には『BMKが必要な時期!』があったんですよ。たぶんですけどね。
・[4618]
> …薬園台! 唐突に新京成線。
自動的に「東邦大学」も紹介しないといけない気がして…(てんてんてん)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E9%82%A6%E5%A4%A7%E5%AD%A6
> 1945年 - 太平洋戦争による空襲により帝国女子医学薬学専門学校の本館以外の校舎が焼失する。
> 1946年 - 帝国女子医学薬学専門学校薬学科、帝国女子理学専門学校が現千葉県習志野市にあった旧日本陸軍の近衛師団所属等含め騎兵連隊が使っていた駐屯地の兵舎を含む建物を再利用として習志野キャンパスとして移転
> 習志野キャンパスは習志野市と船橋市の境目付近にあるものの、所在地は船橋市である。
どこからどこまで「習志野」なのか。それ自体が“秘密”なのだ。(※表現は演出です。)
https://img.kojodan.com/photo/177707.jpg
https://cdn.4travel.jp/img/tcs/t/pict/src/44/20/89/src_44208922.jpg
※画像はイメージです。
・(2021年9月8日放送)
https://www.nhk.jp/p/heroes/ts/2QVXZQV7NM/episode/te/P39ZXN7QW3/
> 賄賂政治家として名高い江戸中期の老中田沼意次。近年は財政危機の幕府を立て直すべく、先進的な経済政策を打ち出した政治家として評価が高い。東西で分かれていた金銀通貨の統合、印旛沼の干拓等々。実はその政策の多くが、「山師」と呼ばれたベンチャー起業家たちのアイデアを採用したもの。
それって「名高い」のか?(※ジト目)
・「奄美市、滝の名称公募を打ち切り 「昔からの呼び名あり」と地元指摘」(9月21日)
https://www.asahi.com/articles/ASP9P7GZLP9PTLTB00K.html
> 古くから「クルキチ(黒い岩)の滝」と呼ばれ、かつて滝の上に「フツブル」と呼ばれた集落があったことから「フーチブルの滝」の名称でも親しまれていた。
> 滝は東海岸の山中から海へと注ぎ、漁師らには知られていたが、全容が分かっていなかった。市内在住の写真家がドローンで全体を撮影。
地図に載っていないというだけで「自分が発見した&名前はまだない!(※白目)」と思いこむ愚かしさよ。奄美大島の歴史の長さより自分の見聞きしたことを優先する態度の源泉が最近の学習指導要領に由来するのなら深刻な“副作用”である。▼「リスペクト」については[4263]などを参照。
・[4566]
> > 実物(本物の建築物や列車およびそれらの権利者、地域の歴史やひとびとの暮らし)に対してリスペクトを持つ態度を養わなければなりません。
・(2020年2月29日)
https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20200229/1000044821.html
> 冬の鑑賞用の切り花として人気の高いアネモネの出荷が長野県原村で最盛期を迎えています。
> アネモネは冬の観賞用の切り花として人気があることから、いまが出荷の最盛期で、原村にある「JA信州諏訪」の集荷所には、29日も、朝から生産者が次々と花を運び込んでいました。
・[3931]
> …アネモネは切り札! 卒業式と入学式と歓送迎会が中止になっても同じことが言えますか。
2020年2月29日には、これから卒業式も入学式も歓送迎会もあってアネモネがたくさん売れる、それをまったく疑わない文脈でニュースになっていたのです。(棒読み)
・[3777]
> 先生は絶望しました。(違)
・[3549]
> 「我孫子=イコール=景勝地=イコール=白樺派」などという漠然としたイメージ
・[3777]
> なるほど我孫子だったのか。鉄道が通ったから別荘地(や保養地)が成立するんです。あくまで鉄道に視点を置きませう。
・(再掲)千葉県教育委員会「芥川荘」
https://www.pref.chiba.lg.jp/kyouiku/bunkazai/bunkazai/q111-053.html
> 一宮の海岸地区は、明治時代から鉄道が通り海水浴場が整備されたことから、明治末期から昭和初期頃まで「東の大磯」と称され、名士の別荘が100軒近く建ち並ぶ避暑地として栄えた。
・(9月21日)
https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20210921/1000070461.html
> 東京オリンピックでサーフィンの競技会場となった一宮町の地価が去年を3.5%上回り、県内トップの上昇率となりました。
> 一宮町は2016年、平成28年に東京オリンピックのサーフィンの競技会場に決まって以降、注目が高まり、週末を中心に多くのサーファーが訪れ、移住する人も増えています。
> 海岸沿いの地域では、サーファー向けの賃貸住宅や宿泊施設などの建設が相次いでいます。
> この結果、5年連続の上昇となりました。
おおー。
・(再掲)東北大学附属図書館「夏目漱石ライブラリ」
http://www.library.tohoku.ac.jp/collection/collection/soseki/intro-01.html
> 明治22年(1889)8月、知人たちとともに房総旅行に出かけ、その時の見聞をまとめたものである。明治22年9月15日の子規に宛てた書簡には、「帰京後は余り徒然のあまり一篇の紀行様な妙な書を製造仕候。貴兄の斧正を乞はんと楽み居候」とある。漱石の『木屑録』は、子規の『七艸集』に触発されて書かれたものであり、何よりも「正岡子規に見せる事を目的として書かれ」(小宮豊隆「『木屑録』解説」)たものであった。
・[4316]
> 房総半島は裸足で歩くのがイチバン。(違)
> > 漱石らの行程は、隅田川岸から船で浦賀に寄港、保田に滞在した後は、鋸山から房総半島の南部を通って小湊に出て、誕生寺と鯛の浦を訪れます。そして、東金、銚子から利根川を下って野田、関宿へと向かい、江戸川へ出て帰郷したと考えられています。
> わあぃ大回り乗車の青い春! 23歳だけど青い春!(※意訳)いえね、同じところを往復する、ましてや目的地に『直行直帰!』(違)するなんて、汽車だからできることなんですよ。運賃(船賃)がもったいない(=払った分の半分は新しい見聞がなくて無駄になる!)から“一筆書き”で旅をする。わあぃ旅するプロンチャラとはこのことかっ。(げふ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E6%97%9B%E6%B2%BC
> 明治以降も織田完之による印旛沼干拓計画や、昭和放水路計画など、印旛沼の開発計画は次々と立てられたが、当初の治水・干拓を目的とした開発は、京葉工業地帯の造成と人口の増加に伴って利水を目的としたものへと変貌していく。印旛放水路(新川・花見川)が完成するのは1960年代末である。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B0%E6%97%9B%E6%94%BE%E6%B0%B4%E8%B7%AF
> 八千代市村上に設置されたポンプ場で、1966年(昭和41年)に完成した。
> 放水路が完成する前は集中豪雨などで川が増水すると流れが変わり、それにちなんだ「逆水橋(さかさみずばし)」という橋が八千代市にある。
> 途中の大和田排水機場を境にして印旛沼側の掘割工事により開削された疏水路部分である「新川」と、東京湾側の自然河川である「花見川」とを合わせて「印旛放水路」と呼ぶ。
> 花見川の下流部は「検見川」とも呼ばれている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%9C%E8%A6%8B%E5%B7%9D%E7%94%BA
> 第二次世界大戦後の燃料事情の逼迫に応じて、1947年から東京大学の敷地(現:東京大学検見川総合運動場)および周辺では、泥炭の採掘が盛んに行われるようになった。検見川一帯の泥炭の埋蔵量は1000万トンとも推定されていた。
これが、言わずと知れた「検見川」である。(棒読み)
[4622]に続きます。
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