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[3115],[3114]の続きです。
・[3115]
> 何らかの信号・線路の改良に、いずれは取り組まれるのではないかと待たれます。
> 極力、資料の参照のみで興味が満たされるよう努めなければならないと自覚されます。
・[3114]
> 川崎から千葉まで、りんかい線や京葉線を経由しての「直行」(大きく迂回せず最短の経路で到達できること)が期待されることがわかります。
> 安善発着の列車が一種「残って」いるのは外部の要因によるもので、JRグループとしてはいかんともしがたい、そして川崎市としてもいかんともしがたい話でありましょう。
浜川崎駅周辺の鉄道網が現状に至るまで、どのような経緯があったのでしょうか。くもじい…いえ、国土地理院のサイトで航空写真を検索してみましょう。
・BSジャパン「空から日本を見てみようplus」
http://www.bs-j.co.jp/sorakara/
> もしもし、そこのあなた
> 地面を歩く生活に疲れていませんか?
※らじゃー!
・国土地理院「USA-M316-4」(1956年3月8日)
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=28583
整理番号からもわかるように米軍撮影の航空写真ですが、首都高の着工前で、「鋼管通り交差点」がロータリー型交差点(ラウンドアバウト)であったような痕跡がはっきりと見えます。
・「鋼管通り交差点」
http://www.sonpo.or.jp/protection/kousaten/kousatenmap19/14/1404.html
> 首都高速道路下にある変則な6差路交差点で、交通量が多く、右折車と直進車の事故(主に産業道路から市電通りへの右折車と直進車の事故)や信号待ち車両への追突事故が約8割を占めている。
道路については傍題ですが、首都高(首都高速神奈川1号横羽線)の着工前から「産業道路」(東京都道・神奈川県道6号東京大師横浜線)は浜川崎駅付近の南武支線の線路を跨線橋でまたいでいた(立体交差化されていた)ことがわかります。そして、現在のGoogleマップと見比べますと、まるで「産業道路」を(鉄道でいう)「複々線化」するかのように、ぴったりと首都高が「線増」されていることがわかります。
・川崎国道事務所
http://www.ktr.mlit.go.jp/kawakoku/road/
> 1950(昭和25)年の神奈川県内の道路の長さは、国道が合わせて189キロメートル(舗装率76%)しかなく、 県道にいたっては1375キロメートル(舗装率16%)に過ぎませんでした。
> 終戦から50年代までの道路整備は、財源不足により道路の舗装などが中心でした。 「バスがすれちがえる道路」「ほこりや、ぬかるみのない道路」というのが目標だったのです。
> 1923年(大正12年) 関東大震災
> 1926年 自動車交通に対応するため9年がかりで進められてきた京浜国道(東海道)改良工事が完成
とのことで、ロータリー型交差点や立体交差は1926年までにできたものとみられます。このうち、ロータリー型交差点は市電の延伸(1945年=後述)に際して撤去されたとみられ(その際、円形の部分は線路以外は舗装されなかった?)、立体交差は現存しているとみられます。立体交差については念のため、現在の地上のようすも見ておきましょう。
・Googleストリートビュー 浜川崎駅南西側の跨線道のガードおよび首都高の高架
https://goo.gl/maps/3Fijspmbcuk
いかにもな石積みの法面で、後年、コンクリートで補強され、その際にガード下の寸法が狭くなりました、という雰囲気をしています。
※その後の時期には、社会情勢からして、こんな「ゆとり」ある施策が講じられるはずがありません:近年の「現代的ラウンドアバウト」を待たなければなりません。
ロータリー型だった(1926年)とみられる「鋼管通り交差点」では、川崎市電の延伸(1945年=後述)に際して「普通の交差点」になった(ただし平面)、さらに首都高横羽線(1968年)で立体(ただし道路と道路において)になった、という流れのようです。大正ロマン…いえ、「ゆとりロータリー」とでもいうべきものは、20年も経たないうちに姿を消したというわけです。はかないですね。
※翻って、「ゆとり」とは意図して不断の努力を払わなければ勝ち取ることができないものだ、とも実感されるような気がしてきます。
・ウィキペディア「都市計画法」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E5%B8%82%E8%A8%88%E7%94%BB%E6%B3%95
> 1919年(大正8年)に市街地建築物法(現在の建築基準法の前身)と都市計画法(旧法)が定められ、翌年施行された。
> 1968年(昭和43年)に旧法が廃止され、同じ名称の法律が新たに定められた。
「鋼管通り交差点」は、立地(ほぼ都心)からも位置づけ(基幹的な道路や工業地域)からも、法律の改正を真っ先に反映する、一種「マーカー」(俗には「リトマス試験紙」とも)のような地点(施策の変遷を追うのに好適な「定点」)でもあることがわかります。(多くの新しい施策は都心部で先行されつつ、本当の東京都心ですとかえってゴミゴミしていて後回しになるところ、「鋼管通り交差点」あたりであれば、制約は少なく迅速に取り組まれる、の意。)
・個人のページ
http://dododrive.web.fc2.com/expwy/shutoko/K1/report_22.htm
> 「瑞穂ふ頭」について
> 外国貿易のための埠頭として1925年着工、1945年完成したこの埠頭は、終戦に伴い連合国駐留軍により接収、1952年より提供敷地として米軍に利用されている。
> 現在までに敷地は部分的返還を経るも約7割が在日米軍の港湾輸送施設として利用され、残り3割は資材置場や倉庫として利用されている。横浜市には将来的にこの埠頭の完全返還を目指すビジョンがあるそうだ。
・横浜市港湾局
http://www.city.yokohama.lg.jp/kowan/m-learn/history0.html
・「首都高速神奈川1号横羽線」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%96%E9%83%BD%E9%AB%98%E9%80%9F%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D1%E5%8F%B7%E6%A8%AA%E7%BE%BD%E7%B7%9A
・「東京都道・神奈川県道6号東京大師横浜線」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E9%81%93%E3%83%BB%E7%A5%9E%E5%A5%88%E5%B7%9D%E7%9C%8C%E9%81%936%E5%8F%B7%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%B8%AB%E6%A8%AA%E6%B5%9C%E7%B7%9A
貨物の線路は埋め立て地の全域をくまなく、じゅるる〜、いえ、モジャ…いえ、ウジャウジャと配線されていたことがわかります。そして、浜川崎駅東側のヤードは、このとき(1956年)からほとんど姿を変えていないことがわかります。後年、末端の使用されなくなった線路が廃止されていっても、浜川崎駅構内とみられるヤードの線路は(浜川崎駅の連動装置を改修しない限り線路の配線は変更できず)そのまま置かれたとみられます。
・「MKT667-C3-16」(1966年)
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=446568
「鋼管通り交差点」の中心部の緑地が撤去され、ただの交差点になっていることがわかります。また、浜川崎駅から北東にのびる線路と、別の線路とが、この交差点のすぐ東側で合流しているようすが見えます。
・ウィキペディア「川崎市電」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%9D%E5%B4%8E%E5%B8%82%E9%9B%BB
> 1945年(昭和20年)
> 4月11日 渡田五丁目 - 浜町三丁目間0.66km延長。
> 4月15日 川崎大空襲の被害により全線運休。
> 5月1日 運転再開、運行可能車両は1両のみ。6月30日に箱根登山鉄道小田原市内線より3両が入線。
> 8月13日 空襲の被害により全線運休。
> 8月22日 運転再開、運行可能車両は2両のみ。
> 1949年(昭和24年)7月16日 (1948年(昭和23年)8月1日)の記録もあり)日本鋼管前以東の上り線を三線軌条として、夜間に国鉄の貨物列車を乗り入れて運行。
> 1954年(昭和29年)4月10日 日本鋼管前 - 池上新田間の上下線の三線軌条化、入江崎への交換設備の設置ほかの設備改良により国鉄貨物列車の昼間運転開始。
> 1964年(昭和39年)3月25日 国鉄塩浜操車場(現在の川崎貨物駅)の開業に伴い、池上新田 - 塩浜間2.12km休止。あわせて浜町三丁目 - 池上新田間を単線化して旧上り線を浜川崎駅 - 塩浜操車場間の東海道本線貨物支線の一部に転用、川崎市電の三線軌条を取り止め。 浜町三丁目 - 桜橋間に浜町四丁目開設。
とのことで、1956年の写真では不鮮明で判別できませんが、このときから線路自体は敷かれてあった(国鉄側でも線路や信号、それに連動装置を改修した箇所があったとみられる)ことがわかります。
その後、1964年に川崎貨物駅を含む「東海道本線貨物支線」が完成(市電の線路敷を転用)し、その状況が1966年の航空写真に記録されているということでした。
武蔵野線の開業が1973年ですが、その際、浜川崎駅周辺や川崎貨物駅などでも工事があったのかは不明です。仮になかったとしますと、浜川崎駅周辺の線路にかかる連動装置は、最長で1964年以来、そのままであると読み解かれます。本当でしょうか。
・ウィキペディア「東海道貨物線」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93%E8%B2%A8%E7%89%A9%E7%B7%9A
> 1966年(昭和41年) 国鉄が横浜駅を迂回する鶴見 - 戸塚間の貨物専用線建設を発表。以後、生活環境の悪化を危惧した沿線住民が強硬な反対運動を展開
> 1973年(昭和48年)10月1日 汐留 - 東京貨物ターミナル - 塩浜操間 (16.5km) が開業(東海道貨物線の始まり)。東京貨物ターミナル駅が開業。塩浜操 - 浜川崎間改キロ (-0.1km)。川崎 - 浜川崎間 (4.1km) 廃止
> 1976年(昭和51年)3月1日 浜川崎 - 鶴見間 (5.3km) が開業(途中駅なし)。塩浜操 - 浜川崎間改キロ (+0.5km)
> 1979年(昭和54年)10月1日 鶴見 - 横浜羽沢 - 戸塚間 (20.2km) が開業。戸塚 - 大船 - 小田原間複々線化完成。汐留 - 浜川崎間および浜川崎 - 鶴見間を区間統合し表示を汐留 - 鶴見間に変更
とのことで、1979年までに一連の建設が終わった…いえ、計画通りには実現しなかった部分もあったのでしょうか、とにかく一定の終息を見たわけです。
川崎貨物駅から浜川崎駅の上(頭の上、の意)を通り鶴見線に短絡する経路については、高架の路盤のみの建設で止まり、線路が敷かれるには至らなかったようです。高島貨物線との短絡が視野にあったのでしょうが、何らかの事情で実現には至らなかったと見受けられます(正確な資料をきちんと探せばもっと詳しくわかるでしょうが、航空写真とウィキペディアを参照するだけでもそれなりに想像ができ、そして、この話をもっと詳しく調べてみようかどうか、その判断をすることができましょう、の意)。
つまり、1976年の工事に際して、少なくとも川崎新町駅などの連動装置には改修が必要になったとみられ、しかし、浜川崎駅については新たな線路や分岐器が増えたということはなさそうで、そのままであったかもしれない…などと、たいへんややこしく読み解く必要がありそうです。難しいですね、わかります。
鶴見側(新鶴見(信))との連絡(運転上の意思疎通=文字通りの「連絡」)のためにも、尻手駅や川崎貨物駅、東京(タ)などの間で、当時「システム化」とは呼ばれずとも、何らかのホットライン的なものを整備するようなことは、当然のようになされたと信じたくあります。となると、時代としては「ピコピコ」([2477],[2975],[3103]など)には少し早く(仮に「設計3年」と見込めば、1973年開業に合わせる=1973年の時点で装置としては1979年の「完成形の線路配線」に合わせた設計とする=には1970年から設計が開始されていなければなりません)、当然のように「カチカチ」([2477],[2856])なんだろうと勝手に納得されます。(あくまで勝手な推測です。)
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