・理想の「普通の説明会」 ・いま問う「10億円!」のココロ ・「芝浜」を読み解く(仮) ・個人あたり便益の算定はそもそもできない
(約21000字)
・[3174]
> 「レストランのスクリプト」については…あれ、まだ書いていませんでしたっけ(代わりに「注文の多い料理店」[3113]と「ポライトネス」[3045]を参照)。この流れで説明回…いえ、「説明会のスクリプト」([3087],[3114])について別途まとめたく思います。
※掲載の順序が前後しまして[3174]より後になりましたが、本稿は[3174]より前にまとめ始めていたものです。
・[3181]
> フツーがいちばんだよ☆
・[3087]
> 普通の説明会
ということで、藤沢市の説明会の議事録を参照してみます。
・藤沢市(2011年2月26日)
https://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/tosei/machizukuri/toshi/shisaku/muraoka/documents/news02.pdf
あまり整えられすぎず、ほどよく「ライブ感」のある議事録になっています。いま、話者の顔や顔、それに表情などを一種「生々しくリアルに」想像しながら読んでみましょう。
・談話分析、schemaとフレーム
http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/38217/1/8_p97-102.pdf
> 元来は神経学の領域で用いられていた「スキーマ」という用語を心理学の世界に取り入れた、Frederic Bartlett の研究に行き着く。 Bartlett (1932) によると、スキーマとは「過去の経験や外部環境についての構造化された知識」を指すものであり、そのような人間の知識環境は外部からの刺激に関連づけて刻々と組み替えられ、変化するものであるとされた。
> このBartlett のイメージは、後にMarvin Minsky に代表される人工知能学者により踏襲された。言語システムのコンピューター化を目指す人工知能の分野では、Bartlett のスキーマの概念が「フレーム」という用語の下で再定式化されたが、彼らの解釈するフレームとは、ステレオタイプ化した情報の積み重ねによる知識データの総体であり (Minsky, 1975, p. 212) 、概して静的なイメージを与えるものである。その一方で、出来事の理解に動的な時間軸を加えた概念は「シナリオ」と称され、こちらは Schank & Abelson (1977) による拡張を受けて「スクリプト」という概念がもたらされることとなった。Schank & Abelsonが描いた有名なレストランのスクリプト(客が店に入ってから飲食を終えて出てくるまでの連続的な出来事のイメージ)は、過去の経験から構築される知識の典型例を示したものである。
> 社会学的アプローチによるフレームとは、平易な言い方をすれば、「今、この状況下で、自分たちが何を行っているか」を特定する際の、参加者の認識の枠組みである。この定義は、Bateson (1972) に端を発するとされる。Batesonは、自身が訪れた動物園で子ザルがじゃれ合っているのを目撃し、2匹の間でそのような行為が成立する背景には、それが戦いではなく遊びであるという認識を相互に可能にするような、シグナルの交換があると考えた。人間のコミュニケーションについても同様の印象を抱いた彼は、上記のフレームの概念を打ち立てるとともに、フレーミングを可能にする言外のメッセージを「メタ・メッセージ」と称した。
> 語用論学者のJacob Meyなどは、相互行為を規定するのは社会的状況であり、参加者個々人の取り組みが会話の展開に寄与するところは全くないと論じた (Mey, 2001, p. 14)。このような純粋に社会学的な視点は、一定の真理を含むものの、しばしば相互行為の担い手である参加者の裁量を過小視する傾向があり、慎重な議論を要するところである。
> 例えば、ある企業に顧客からの苦情が寄せられた場面を仮定しよう。上に倣い、「今、苦情の申し立てが行われている」というラベルが適用されたところで、進行中の相互行為に対する当事者の認識が十分に説明されたことにはならない。なぜならば、そのような場における「状況」とは、ある種の帰結(問題の解決等)に向けた相互行為のプロセス全体を想定しない限り、実質的な意義を持たないためである。このような事例は決して例外的ではなく、むしろコミュニケーションに携わる人々がその会話に関して何らかの展望を持ち、相互行為のプロセスにおける自らの立ち位置を見積もりながらやりとりを進めることは、ごくありふれた行為である。
> そのような場合、相互行為における状況理解とは、出来事に対するアドホックな意味づけというよりも、むしろ「現行の出来事はどのように方向づけられたもので、いかなる展開が見込まれるか」という相互行為のプロセスを包含して行われるべきである。つまり、フレームは単なるラベルやタグのように平面的なものではなく、会話の方向性を展望するための時間軸を含む概念として再解釈されることが望ましい。
「生々しくリアルに」想像といって、その実、勝手な想像でしょ、と思われましょうが、いえいえいえ、いかにして現実の対話の場面が形成(構築)されるのかという根っこの部分(原理)をとらえれば、これはもう、個々の現実の場面なんて一種「自どう的に発どう!」するインスタンスでしかなく、かなり高い確率で「スクリプト通り」の対話が展開されるんでしょと決めつけて差し支えないだろうということです(仮)。本当でしょうか。
理想的な状態では、住民にも市職員にもそれぞれ「説明会とはこういうもの」という一種「構造化された知識」があると仮定されましょう。
・Wikipedia「Script theory」
https://en.wikipedia.org/wiki/Script_theory
※script:(もとは演劇で)配役ごとのセリフや所作をすべて記述したもの。台本。
「レストランのスクリプト(客が店に入ってから飲食を終えて出てくるまでの連続的な出来事のイメージ)」とほとんど同じで、「説明会のスクリプト(住民が会場に入ってから質疑応答を終えて出てくるまでの連続的な出来事のイメージ)」というものを、大人であれば何となくは知っているということは、みなさま異存ないだろうと確信されます(誰もが確信するはずだと思いこみます、の意)。
レストランといって、通常、室内が階段状になっていたり、座席が跳ね上げ式であったり、シートベルトの着用が求められたり…などということはないと、いえ、そもそも、そんなことはまったく考えることなく、「レストラン」という看板を見て、あるいは、看板に「レストラン」とすら書いていなくても、外観を総合的に判断して「レストラン」だと断じて入る限りにおいて、全然ちっともまったく完全に疑うことなく「(自分の思う)レストラン」だと思って入るわけです。
仮に、いきなり「体にジャムを塗ってください」だのと、妙な『注文』があったとなれば、その時点でただちに疑うことができるかといえば、これが疑えないんだなぁ、というのが、宮沢賢治の作における絶妙なところで、そもそも多少なりとも空腹であるのでレストランに向かうのだという生理的な面を除いたとしても、なお「(自分の思う)レストラン」を自分で否定するのはたいへんむずかしく(550ページの「論文!」[3092]、何のこれしきといって『鉄識』[3107]なども参照)、かなりの段階まで、もっともらしい理屈を想像して、理解しがたい『注文』を『理解』しようと(「レストランのスクリプト」に定められる「お客さま」らしく振舞う、すなわち「ものわかりのよいお客さま」を忠実に演じようと)努めてしまうわけです。「レストランのスクリプト」という一種の「先入観」がいかに支配的であるか、よくわかります。
説明回…いえ、説明会についても、会場の机や椅子の配置には一定の様式があり、これを極端に崩すことは通常ありません。説明会に出席するには、まず服装を決め(男性はネクタイが要るかなぁ、女性はむずかしいですが授業参観くらいの華美すぎずだらしなさすぎずの装いをあれこれ考えることでしょう)、開始時刻にあわせて会場を訪れ(前日から徹夜で行列したり開場前から座り込むなどもってのほか)、会場内で飲食も喫煙もせず、進行役がしゃべり始めるのをいまかいまかと待つわけです。
※もともと連続のソレにおいて、特に説明だけを行なう回を指して「説明回」などと、いえいえ、講義の初回を「イントロダクション(導入)」と称してハサミを持参させるセンセイもいれば、「教科書は買わなくてよいですから」とハバカラズにおっしゃるセンセイもいますよねぇ。
・自分では読めない教科書を買わなければならないはなし(日本障害者リハビリテーション協会)
http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/resource/ld/071121_workshop/copyright.html
…という「見た目が8割」的なアレで恐縮ですが、仮にMeyの論が支配的に正しい(相互行為や会話の展開において、社会的状況が支配的である)としますと、まさに、進行役が会場を見渡した時点で、その後の展開はもう読めている(進行役としても状況に支配されるので、いかんともしがたい)といえましょう。本当でしょうか。その答えは、ぜひ、お近くの心理学の先生と社会学の先生に直接、お尋ねになって、その答えをご自身で総合して確かめてください…などと、そんな難しいこと、なかなかできませんよね、わかります。
※ここではあくまで素朴に、「半可通」としてしか読みませんが、仮にも「業務に活かそうと思います!」というレヴェルであれば、「半可通」ではいけません、の意。きわめて「あん易」に「『色彩心理ライン』を導入!(キリッ」などと、たいへんミットモナイのだと自覚いただけたらいいなぁ、と思ったりするとかしないとか。(青色の照明も含め)外形的には「みらくる☆おまじない!」であると断じられましょう。心理学そして社会学のセンセイを迎えて、きちんと共同研究して、しかるべき実験を重ね、そしてきちんとジャーナルや国際会議に通さなくては、外形的には「エビデンスをともなった施策である」とはみなすことができません。
・「ミラクルかなう! キセキのおまじない」
http://www.seitosha.co.jp/245_3384.html
あのね(略)どっかーん☆([3089],[3099])。ご家庭で、ご家庭の方針で、子どもとの『対話の中で対話的に』、いろいろな決まりごとやおまじないを一種「援よう」しながら子どもの成長を見守る『やさしいウソ』…いえ、「レーダーにサンタクロースの機影がっ!!」「窓の外の上空にサンタクロース!」([3132],[3147])のようなソレにはとっても意味があると思っているんです。でも、それを一種「外注!」してはいけないんではないかと心配されるという話でありましょう…たぶん。「おまじないの本」などなくても、自分でおまじないをつくりだせるのが子どもではないでしょうか。
※この本さえ置いておけば手がかからない(一人でおまじない遊びをしていてくれる!)、そういう面で(忙しい大人にとって)『実用書』であるのは確かです。さすが「実用書の西東社!(昭和7年創業!)」ですね、わかります。
・Google ストリートビュー 「西東社本社ビル」前
https://goo.gl/maps/AAM84heFhFS2
※なんということでしょう! 屋外とも屋内ともいいきれないところに受付っぽいブースのようなものが設えてあるではありませんか!!
・Amazonにおけるレビューの例
http://www.amazon.co.jp/dp/4791617193
> 小2の娘用に買いまして・・・
> 小2の娘は大満足です。が、小2にはやや漢字が難しいようです。
> それと、なぜか小6の娘が喜んで読んでたりします。
> 結果的に2人とも楽しめたので、大満足です。
> プレゼント
> 小学校中〜高学年向けな感じのカワイイ絵とおまじないで、喜んでもらえました。
媚びた感じのない絵がナチュラルっぽくて、一種「誰からも嫌われない絵柄」になっていると感じられます。そして…おおー、見える! 見えるぞっ! 配当された漢字すら習わないうちに、なぜか風水や魔術っぽい漢字ばかり知っている『ちょっとやっかいな子ども!』にキミはなるっ!! ぬおー…ゲフンゲフン。そして、「プレゼントのスクリプト!(苦笑)」には、「わあぃプレゼント! ***プレゼントだーいすき!」といって喜んで見せるところまでが含まれるのです、たぶん。
・(参考)「いまなぜ〈対話的保育〉か」和光大学現代人間学部紀要 第2号(2009年3月)
https://www.wako.ac.jp/_static/page/university/images/_kiyo2-17.02df5f1aa5955f29eab57d4a779e36d4.pdf
> (全略)
> 時間がきていますので、一応ここで終わることにします。以上です(拍手)。
※え゛ーっ!! …と思いながらも拍手するのが「講演会のスクリプト!」ですね、わかります。
★理想の「普通の説明会」
さて、説明会がきちんと機能する(※)ためには、どんな前提を考えればよいのでしょうか。
※住民が事業を正確に理解できる、事業に不備があれば正されたり補われたりする(住民の視点の反映など)といった直接的な機能だけでなく、そもそも事業の周知を図る、完成時に効果を実感いただけるよう、事業前の現状(不便さなど)を記憶に焼き付けてもらう、といった間接的な機能もありましょう。
・(住民が)自分はわからないという前提で、わからないことをきちんと、わかるまで質問する:(自分が)わからないということを(相手に)伝えずには、(相手から)教えてもらえることはないのです(市職員としては、住民に失礼にならないよう、デフォルトでは住民を「わかる人」扱いするのです:住民が自ら「わからない(ので教えてください)」と申し出るまでは「わかっている」とみなすのです):しかし、そうしたこと自体を知っていないと、わからない人はわからないまま、わからないとも言わないのです
・(市職員が)住民には、わかっていない人だけでなく、わかっている人も混じっているという前提で、しかし、その割合は実際に確かめない限りわからないため、ワーストとして、わかっていない人にわかってもらうことを目指す:一種「マーカー」([3096],[3116])いえ、テスト(人の知識や技能を測定するソレ[3061],[3099])だと思って説明会を「設計」しなければなりません(聞き手の理解度を判定するため専門用語なり難しい話なり問いかけなりを適宜混ぜて反応を見ながら、必要に応じて詳細な説明を混ぜる)
※わかったようなわからないような、わかりませーん、といって何かを投げたくなる、そんなお気持ちもわかりますが、わかってくださーい、と「小さな声」でつぶやいてみたくあります。
・行政が主催する説明会のことが、住民の間で「(住民が)役所に説得される会」だと捉えられていないでしょうか。住民が「説得されたら負けだと思って」参加しているのでは、行政が何をどう説明しても、説明すればするほど(若い人の場合)「必死の説得(笑)」「だが断る!」(古い人の場合)「行政はやっぱり行政だと思った(断固反対する!)」という反応しか起きなくなる恐れがあります。
・こみいった話は個別に(居合わせる人数を少なくして)行なわないと、正しく意思疎通できないことが知られていますが(『要出典』!)、このことを知らない人から、「かげでこそこそ話をして済ませている(自分のところには来なかったケシカラン!)」と受け取られていないでしょうか。
・説明会で質問する人が、特定の属性(職業、年齢、性別、あるいはそれらすべて)に偏っていないでしょうか。そのことを明示的に示して、その場で、質問する人のバランスを調整することを試みているでしょうか。
・事業に対して特に意見のない人から敬遠される説明会になっていないでしょうか。初公開の図面だとか、設計者や大学のセンセイが(基礎知識コーナーも設けながら)熱く語ります(自治体としては冷たくなければならないところ、住民の次に当事者ともいえる設計者や委員などに語っていただく、の意)とか、(説明会の少し後に公表予定の)ナイショの話もありますよ的なものなど、自称『意見』を「大きな声」で一種「訴える」べく参加しようとする人だけに留まらず参加者を集められるよう工夫しているでしょうか。参加費を徴収して、快適な座席と飲み物を提供しても、なお「お釣りがくる説明会」にできるのではないでしょうか。
・公民館や町内会の集会所など、住民にとっての「ホーム」に乗り込んでの(行政からすると「アウェー」の)説明会では、住民が日常生活の延長でしか思考や発言ができない恐れがあります。中立的に、両者ともに「アウェー」となる会場を選ぶことが望まれます。だからといって、民間の会場を有償で借りるのは別の問題を起こしかねず、こうした公共の催事に無償で会場を貸すようなことを、(ちょうどよい大きさのセミナールームや催事場を持つ)銀行や百貨店、それに駅ビルなどが社会貢献として行なっていくようなことも、あってもよいのかもしれません。(その際、「ムダ遣いだ」「ぜいたくだ」といわれないよう、会場が無償提供された旨、きちんと表示することが必要です。)
・(参考)「たぬき親分のためのトラノマキ」
http://www.jmac.co.jp/wisdom/marketing/803.html
※センセイっ! いつも「聞き役」の『たぬき親分』([3174])が感情に訴えてきますっ!! これは『説得』ですねっ、わかりますわかります!!
★いま問う「10億円!」のココロ
あらためて藤沢市の説明会の議事録を参照してみます。
・(再掲)藤沢市(2011年2月26日)
https://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/tosei/machizukuri/toshi/shisaku/muraoka/documents/news02.pdf
> シンボル軸(アクセス道路)沿道にお住まいの***町内会1組、2組、3組、5組の方を対象に「***地区まちづくり計画」や今後の進め方についての説明会を開催いたしました。この説明会には、約80名の方々にご出席をいただき、多くのご意見、ご質問をいただきました。
説明会に参加する住民が多ければ多いほど、あたかも参加している住民全員が自分の『味方』であるかのような錯覚とともに一種『エキサイト!』なさってまくしたてる質問者というものは出てくるものだと覚悟されましょう。
> 再開発、新駅設置等により、多数の市民が恩恵を受けることに異論はないが、そのために立ち退きを余儀なくされるなどの被害を受ける住民への配慮を欠くのであれば、絶対に反対である。買収の対象となる住民への配慮については、極端に言えば「焼け太り」となる位の手厚い補償をすべきである。また、計画については、買収の対象となる可能性のある住民に対しては、特別扱いで早目に知らせてもらいたい。市の担当者は計画が完了するまで人事異動の対象から外してもらいたい。買収交渉等における信頼関係維持のためには絶対に必要である。
> 仮に私が買収の対象になった場合には、もう70歳を過ぎて立ち退きを余儀なくされたら、知らないところで認知症の引き金にもなる。40年も住んでいたところを追い出され、土地の値段、家の値段、引越費用がこれだけだといって、それで出ていけとなるのではとても納得することはできない。市としてはなんらかの形で誠意、補償するとすれば金額で示すしかないと思う。それから、シンボル軸のルート検討にあったては、***の操業がうまくいくかいかないとか、***をよけるとか、***市との連携とかという話が先にきて、一番最後に我々地権者の影響を少なくするという説明があった。これは私からすると本末転倒であり、市の説明からは、何も住民の痛みが通じていないように感じた。
※この2つの発言は別のかたかなぁと思いますが、2番目のかたはだいぶ、1番目のかたに同調の上、補強(『えん護しゃ撃っ!』)しているという印象を受けましょう。2番目のかたの意識としては(無意識だとしても)「(1番目のかたと)2人がかりで市職員1人を説得!」しようとしているのかなぁ、と想像されます。質問者が市の業務(行政)を、『きわめて属人的なレヴェル!』で捉えていることがうかがえます。具体的に説明を行なう市職員1人の背後に、いったい何人の人が働いているかと…そこまではまったく意識されていないのでしょう。
※※『鉄識』でも似たことがあって、「きょう運転再開の『新車』!」といって、「担当者1人が徹夜で『修理』したっ!!」という漠然としたイメージで(⇔それより詳細なイメージを持つことができず)語られることが多々ありましょう。
> (大幅に略)
> 一つはルートが、それほど選択の余地があるとは思えませんよね。ということは、市の中ではもう計画の線が引かれているわけですよ。それだったら早く対応策をとって欲しいという気持ちです。もう、個々にやってもらいたい。たぶん私の家はかかります。計画は藤沢市の立派な計画である。私は反対しない。だから反対しないで犠牲になるのだから藤沢市の全住民が私に対して補償してくれるべきです。藤沢市の予算で私に対して補償してくれるべきです。私はここで10億円もらったらいつでもハンコを押します。そういう話です。焼け太りといったのはそういう意味です。早くやってもらいたければ、私みたいに物わかりが悪い人は10億円つんでもらえればすぐに理解ができるのです。えげつない言い方しましたが、ここまできたらそういう話です。それをやらない限りは、何回説明会を開いても同じことの繰り返しです。蛇の生殺し状態はやめて欲しい。以上です。
※1番目のかたですね。
> 家を建てられるだけの補償をするのではないのか。それでは全然駄目です。もうここで話を詰めましょう。理屈で不動産屋的な手法で経年劣化と土地の時価を合算してあなたの補償はこれだけですというのは絶対に駄目です。10億円だったらOKですがそれができなかったら駄目です。藤沢市がこの計画を達成しようとするには安いものですよ。
※別のかたとは思えません。
この一連の質問(と称しての何か的なもの:ただし2番目のかたを含まない)が行政にとって参考にならないかといえば、いえいえ、そんなことはまったくなく、むしろ、市役所で長年働くうちに忘れていく、あるいは最初から考えてもいなかったので市役所を志望されたのではないかという、『きわめて属人的なレヴェル!』での住民の気持ちというものを、たいへん生々しくうかがうことができた場面であると評すこともできましょう。
事業の遂行(広く末代までアトグサレのない「かん遂」!)には、▼(一般に問われる)合理性だけでなく、▼「素人合理性(仮)」([3081]ほか)も必要だと感じられます。この点で、上掲の質問者はたいへん鋭い指摘をなさっているといえましょう。
「鉄算用」([2965])のひそみにならって、いま「10億円!」発言の真意を読み解いてみましょう。
・日本スポーツ振興センター「10億円!」(2015年5月1日)
http://www.jpnsport.go.jp/sinko/Portals/0/sinko/sinko/pdf/happyou270501.pdf
> 10億円BIGは、一昨年(平成25年)11月、昨年(平成26年)2月及び8月、今年1月に引き続き、今回が5回目となり、今年1月と同じく、日本くじ史上最高となる1等最高当せん金額10億2,015円で販売します。
> 購入単価や当せん確率は変わることなく、1等当せん金額だけが最高10億円とパワーアップし、期間限定販売いたします。
> 【日本くじ史上最高!(公営競技を除く)】
> 当せん金は、売上金額や当せん口数によって変動します。
むかし「600万円!」、やがて「3億円!」になったのが、いまは「10億円!」とのことで、順調にインフレが進んでいると読み解かれます。(感想は個人です。)
・個人のブログ「600万円!」(2009年8月29日)
http://blog.livedoor.jp/zatumaga/archives/50900186.html
> RCサクセション / 宝くじは買わない 1970年3月
> > 400万円があたっても 今より幸せになれるはずがない
> ドラえもん / 宝くじ大当たり 1971年8月
> 「ろ、ろ、ろっぴゃくまんえん。」
> 「ロッピャクマンエン!?」
> 藤子・F・不二雄大全集より 大こうふんする野比家の人びと
> 現在は前後賞合わせて3億円でしたか。40年ちかくの歳月を経て数百万円という数字はリアリティを失ってしまいましたが、それでもこれらの作品の素晴らしさがまったく色褪せていないのはすごいことだと思います。
もともとモノクロなのに何が色あせていないかといって、その実、子どもとしてはひらがなで震え、大人としてはカタカナで絶叫し、という、金額というよりも一種「記号」としての「600万円!(ロッピャクマンエン!?)」というものが、金額は変動しこそすれ、いつの世にもあるものだということです。
・「3億円!」(1968年12月10日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%84%84%E5%86%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6
> 1968年当時の3億円は現在の貨幣価値に直すと約10億円にあたり、貨幣価値においては現金強奪事件としては最高クラスである。
だからといって、いま「10億円!」とおっしゃるかたが、3億円事件(当時)のインパクトをともなって「10億円!」とおっしゃっているのではなく、もっと軽い意味合いで「宝くじの1等より高い金額は考えられない(それより上の金額に関するスケールを持っていない)」ことの裏返しとして、(むずかしいことや大きなことは専門家に任せますという)一種「謙そん」のニュアンスも込めて「10億円!」とおっしゃっているのだと読み解かれます。
つまり、このかたとしては、仮に「10億円!」の補償がなされれば、「じゅ、じゅ、じゅうおくえん。」とひらがなで震える子どもの脇で「ジュウオクエン!?」とカタカナで絶叫して「○○買ってぇ。」といって廊下を飛び跳ねていきますよ(それでいっさいの不満も不安も吹き飛びますよ)、という例え話であるわけです。(ご自身でも「えげつない」と断っていて、例え話であるということがきちんと示されています。)
※このかたの発言に対して、ネット上で一種「大まじめ」に「金額の妥当性を検証」などしようとするのは、たいへん、発言者の真意を踏まえない、失礼なことだとわかります。
・R25「キャリーオーバーで史上最高額!「ロト7」当せん8億で何が買える?」(2013年3月21日)
http://r25.yahoo.co.jp/fushigi/wxr_detail/?id=20130321-00028910-r25
> 8億円…(ゴクリ)。
> 東京駅から新大阪駅までのタクシー料金
> 仮に365日、東京-大阪間を毎日タクシーで通勤しても6年間は通勤可能だ。
> 「iPhone 4 Supreme Diamond Rose」だ。車やヨット、家具など超高級仕様の商品をプロデュースするイギリスのメーカーが販売するこの一台、お値段はなんと500万ポンド(日本円で約7億1500円)。
> 日本一地価が高いことで有名な銀座・鳩居堂前で調べてみると、2012年の路線価は2152万円/平米。8億円なら約37平米の土地をゲットできる! 8億あってもしょせんは1K程度の広さ…
たった6年ですし、わずか37平方メートルですし、たいへんリアルな皮算用だといって納得されましょう。いま「10億円!」といっても、やっぱり「600万円!」の時代に「しんじゅのネックレス買ってぇ。」で終わってしまうのと同じくらい、絶妙に「当せん金」の額が一種「コントロール」(当せん者の『人生』を破壊しないよう:ワーストのケースにおいて一過性の消費で使い切れる額を超えないよう)されていることが思い知らされます。
※「しんじゅのネックレス」のほうもまたインフレして「iPhone 4 Supreme Diamond Rose」になるんだということです。いま「しんじゅのネックレスを10億円分!」といってしまうと、ちょっと話がずれるかと思われます。
※ずれた話としては、(作中で)「2億円」という設定の「1等はさすがに目立ちすぎる」といって震えながら「2300万円」の「2等」をスキップし「3等」(同「70万円」)を「チョイスする選択」にも受け継がれていると読み解かれます。「2300万円!」ときちんと高額だと認識できる金銭感覚は、きちんと持っていたいですね、わかります! (「800万円!」の「低予算リフォーム!」を「低予算」だといいきるのは語弊があります、の意。)
・「チョイスする選択」
https://lib-arts.hc.keio.ac.jp/publication/uploadimages/pdf/1358166052.pdf
・「チョイスを選択」
http://www.seitoku.jp/tk/chois/apply/index.php
・「【その日】から読む本」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%80%90%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%97%A5%E3%80%91%E3%81%8B%E3%82%89%E8%AA%AD%E3%82%80%E6%9C%AC
> 全国自治宝くじの発売元である全国の都道府県と指定都市では、ジャンボ宝くじの当せん金が大幅に引き上げられるのに伴い、弁護士や臨床心理士、ファイナンシャル・プランナーなど、専門家の意見も参考にしてこの本を作成し、2001年(平成13年)から配布を開始した。
> 当せん金の使い道について、ローンや借金の返済を優先すること、当せんについて知らせる人をリストアップすること、仕事は辞めないようにすること、冷静になって落ち着くことなどの基本的なことから、当せん金の分与にかかる贈与税などの税金問題や資産運用、遺言書の作成についてなど、応用的な内容も説明されている。
こうした一種「臨時収入」は、(適切な助言や、分割払いなどを含む強制的な管理などがない限り)ほぼ必ず「臨時支出」となって消えていく(計画的な支出の補てんには使われにくい=そこに使うと計画が後々狂うから、あるいは、ありがたく受け取ったのでありがたく使おうと志向される、使いみちを考えることが楽しまれる、などにより)、という強力な経験則のようなものを、みなさまお持ちのことと思います。これは、金額が少ないほうでは「一律500円!」([3130])、「とりあえず商品券1000円!」から「ン万円の給付金!」まで、金額が多いほうは最大「10億円!」まで、しかし金額によらず起きるとみられます。
※ずれた話としては、(作中で)仮に「70万円!」のくじが「当せん」したなら、まずは大家さんに家賃を払いに行くことを優先されたし、となるわけですね! わかります! そして、▼研究室の内装工事…いえいえいえ、理系といって、その実「電気」な人たちとしては▼実験装置外一式をば…といって、足りるんでしょうか。これまた絶妙に「使い切る」金額として(作中で)リアルに描かれていることがうかがえます。現実には、▼実験装置の維持費を翌年度以降、ねん出できない、▼実験装置の搬入のために床を補強したり建屋に開口部を設ける付帯工事外一式…などと、際限なく費用がかかることがわかります(「年間の研究費が約286万円くらいの研究室で、約40万円の測定器を買う」[2965]、「測定器を買いさえすれば測り放題?」[3076]も参照)。
・『すまい給付金』
http://sumai-kyufu.jp/
http://sumai-kyufu.jp/outline/sumaikyufu/index.html
> すまい給付金は、消費税率引上げによる住宅取得者の負担をかなりの程度緩和するために創設した制度です。住宅ローン減税は、支払っている所得税等から控除する仕組みであるため、収入が低いほどその効果が小さくなります。すまい給付金制度は、住宅ローン減税の拡充による負担軽減効果が十分に及ばない収入層に対して、住宅ローン減税とあわせて消費税率引上げによる負担の軽減をはかるものです。このため、収入によって給付額が変わる仕組みとなっています。
給付金の「幅」がグラフで示されており一種「一目りょう然」ではありますが、さて、自分(自分の世帯)はどうなのか、と見た時に、見方がむずかしいと感じられるかもしれません。このグラフをまったく見ないまま、給付の条件(収入額の基準)と給付額だけを見たとすれば、「標準的な世帯の家賃込みの1か月分の生活費」相当額をくれるんですね、と早合点されそうです。(あくまで想像上の早合点です。)
翻って、「10億円!」といって、その実、額は2万円でも5000円でもよく、真意としては「まったくの臨時収入となる○○金!」が、できるだけ仰々しいカタチでありがた〜く手当てされたいという気持ちが述べられたのだと仮には理解できましょう。ここに応えることが本当に不可能であるかどうかは、(自治体にあって)よくよく検討が尽くされなければ(住民に)納得いただけないことと予想されます。
★「芝浜」を読み解く(仮)
閑話休題です。
・「芝浜」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%9D%E6%B5%9C
> 天秤棒一本で行商をしている、魚屋の勝
> (略)これじゃいけねえと一念発起
> 川戸貞吉は、八代目林家正蔵からの聞き書きとして、「昔の『芝浜』は、男が財布を拾った後、長屋の連中が財布を拾ってめでたいってんで、みんなで歌を歌って騒ぐだけの話で、軽い話だったよ」と述べているが、八代目正蔵が生まれる以前に口演速記された落語本ではすでに現在と同じ人情噺になっている。少なくとも19世紀中には「芝浜」として演じられた記録がある。
> 三田村鳶魚は1924年(大正14年)の著書の中で、魚市場の成立年から、享保時代の出来事を寛政以後に落語に仕立てたと見ている。松崎尭臣が享保9年に書いた「窓のすさみ」の中に、大金を届けた正直者の芝浦の魚売りの話があり、これを落語にする際に、当時中沢道二の道話が流行していたことから、心学の訓話を織り込み、妻と酔っぱらいを加えて高座に上げやすくしたのたろう、と述べている。
> 芝浜は現在の東京都港区東部の田町駅のJR線路沿い(浜松町側)である。(略)元々、新橋-横浜の鉄道は海岸線沿いに敷設されたことはよく知られている。つまり、線路がある場所が浜なのであった。実際には海岸線に堤防を作りその上を線路としたものである。
> 東京オリンピック以降に埋め立てが加速度的に進み、痕跡が完全に消えた。芝浜の近辺に限ると、海が食い込み、海が残っていた。つまり、線路の内陸側にも海が残り、その上を跨ぐように線路が橋のようにして作られていた。JR(国鉄)はこの橋を雑魚場架道橋と呼んだ。
※うーん、「よく知られている」と記すには根拠が必要で、「開業当時の錦絵が小学校の教科書に掲載されるなどして、一般に広く知られている」くらいには書いたほうがよいようにも思えます。ただし余談でした。
・朝日新聞「田町駅(2) 桁下の低いガードを訪ね、海沿いの町の記憶をたどる」(2014年9月5日)
http://www.asahi.com/and_M/interest/SDI2014090546351.html
・Google ストリートビュー 新浜町架道橋(新浜町ガード)付近
https://goo.gl/maps/PdTng1LuMm62
・「鉄道錦絵」交通科学博物館
http://www.mtm.or.jp/pavilion/collection/shiryo/page08.html
> 錦絵とは、江戸時代中期から盛んになった浮世絵のひとつで、幕末頃からは、ニュース性のある世相風俗を描写した作品が多くなりました。
> 機械印刷の実用化前であったこともあって、明治維新後も木版工作を手法とする錦絵の製造技法が、そのような報道画の多量生産に用いられました。明治初期の錦絵を特に開化錦絵ともいいます。
> 開化錦絵の主な題材は、新しい東京の名所や洋風建築、異人館、ホテル、銀行などの建築物と、ちょうどそのころ敷設計画が発表された鉄道などの乗物でした。とくに鉄道は、明治3年の敷設計画発表後、その開業後を予想した錦絵が次第に制作され始め、明治5年の開業後は人気の題材となり、数多く製作されました。
目の前に、いままで見たことのない鉄道が走るだけでは、そのありがたみが実感されず(ありがたがってよいのかもわからず)、以前からある錦絵というフォーマットを一種「援よう」して、ようやっと実感されるというのが「素人合理性(仮)」だとも、いえるのではないかなぁ、という気がいたしてまいります。みなさま、どうぞ!([3124],[3178])といって、仰々しい『セレモニー』を執り行なわないといけない(仮に行なわないとしたら、ありがたみが実感されない:実感がなければ周知や活用が阻害され事業の効果まで減ってしまう)、その理屈が(工事現場の神棚や「まじかる☆おまじない!」[3171]のレヴェルでなく)立体的に理解されるような気が…してきませんか? ここ、拍手するとこですっ! とばかりに「拍手をリード!」する人のようなソレが、いろいろな場面でそれぞれ、要るのではないかなぁ、ということです。(えげつなくならない程度に、の意。)ただいま「びゅう旅行商品『お座敷とびうおエクスプレス91号』」が発車いたしました…たぶん。
・「ときめく旅の中央線お座敷さくらんぼエクスプレス号」(本文とは無関係です)
http://www.jreast.co.jp/hachioji/info/20050506_2/
・(本文とは無関係です)
http://www.leadcreate.co.jp/column/column140930.html
> 娘の運動会を観に行って驚いたことがある。
> それは、私を含め、たくさんの“親”が観に来ているのにも関わらず、歓声や拍手が圧倒的に少ないのだ。
> 「どうか子供たちの頑張りに拍手を送ってあげてください」という先生の懇願とも取れるアナウンスが響き渡る。
> 運動会は“頑張っている人を応援する”という練習と、“応援をもらうことで自分の不安を前向きなパワーに変える”という子供たちにとって貴重な練習の場なのであったのだと改めて気づかされた。
おおー、ならば「公式映像!」を「各社に配信!」ですねっ! わかりますわかります!! ライブ映像と録画映像の切り替えには、「3DCG!」で「光沢でろんでろん!」の「校章!」がぐわらーんとまわりながら画面を横切っていくんですよ。なるほどなるほど、それで?(もしゃもしゃ)…あざっす。「運動会」で「IBCごっこ!」それに「MPCごっこ!」を本職ばりに運営なさって、そこに子どもも参加すれば、とっても「総合的な学習!」などと…(略)。英語、フランス語、中国語のネイティブ話者(ただし留学生を含む)も当日だけ呼んできたいですね、わかります!
・NTT(持ち株)「IBC」「MPC」
http://www.ntt-review.jp/yougo/word.php?word_id=4096
ぬおー、「選手村ごっこ!」といって、「キャラ弁!」を中心とするクマの国…いえ、「おべんとう」をご家庭で用意するんではなくて「セントラルキッチンごっこ!!」などと(略)…そっちは***うどんですよぉ!
※似た話に「手作りCPUで地続き感を『かく得』」([2937])、「隣の大きな大学には計算機!」([3178])などもありましょう。メディア越しで、つまりはメディアによって代理で認知されないと認知できないということはいろいろあります。それ自体はそういうものだということでありつつも、できるだけ多くのことを、メディア(あるいはセンセイ)に頼りっきりでなしに自分の目や手(ただし計算機の持ちこみを許可する「Computer-aided activities」[3099])で一種「自力で認知」できたら楽しいですよねぇ。教科書がないから勉強できない([3129])だとか、メディアが取り上げない([2913])からどうたらとかなんとか、割とどうでもよくなってきます…たぶん。
★個人あたり便益の算定はそもそもできない
「失われた普通の説明会を求めて」に戻ります…えっ? そんなタイトルでしたっけ。(気にしない気にしない、の意。)
ここには、▼土地の価格は意識したことがない(ずっと住み続けているので売る気も買う気もないので相場を知らない)し、したくない(土地の価格の心配など迫られることなく安穏と住み続けたい)、▼建物の補償額の決まる仕組みがわかっても納得できない(住み続けたいのに引っ越しを迫られる部分の精神的な面での補償を、よくわからない「丁寧な説明」や「個別の相談」でなく、一律の、わかりやすい金額換算で払ってほしい=そうしたら「○○買ってぇ。」の状態で喜んで、引っ越しを迫られる苦痛を打ち消して上書きすべく楽しみます、の意)、といったことが(意識されてはいなくても無意識のうちに)あるのかなぁ、と想像されます。(あくまで勝手な想像です。)
この背景としては、▼引っ越しが不要で補償も受けられ、もともと隅々までフル活用していたわけでもない敷地の一部を買い取ってもらえ(通常、そんな半端な土地は売買できません)、塀や生け垣などの一部が新しくなって気分がよく、新しい道路や駅の恩恵をフルに享受できる住民と、▼引っ越しを迫られ、引っ越し後は新しい道路や駅の恩恵を受けられないにも関わらず、住み替えにかかる実質的な費用のみ補償される住民とで、一種「不公平感」が感じられているのだとうかがわれます。
この際、その差額となる、新しい道路や駅の便益を住宅1軒ごとに算定できれば、すっぱり「清算」して引っ越し、とできるのではないかと考えられましょうが、そんなことが可能なのでしょうか。
あくまで道路と土地の関係から算出される範囲に限定するなら、算定の単位は土地(建物など用途も考慮される)となるわけですが、新しい道路や駅の便益を享受する主体は個人です。
仮に「住宅1軒あたり」あるいは「1世帯あたり」を単位にするとしても、世帯人数の違い、世帯の年齢構成などによって、▼救急車の到着時間短縮のありがたみ(高齢者や持病のある人ほどありがたい)も、▼新しい駅で通勤や通学が便利になる度合い(通勤や通学をする世代ほどありがたい)も、変わってきます。そもそも一律の便益など算定しようがないことがわかります。この時、個々の世帯の状況を詳細に反映して補償額に差をつけるとなれば、▼算定時点で未就学の子どもについて、何年先まで考慮すればいいのかとか、▼単身者や、▼外出の少ない高齢者世帯などを適切に考慮することもきわめてむずかしそうだ、といって、さじが投げられそうです。本当でしょうか。
そもそも、このような間接的な便益をあげていけばキリがないことは自明であり、だからこそ公共のインフラとして、(間接的にはみんなで出しあったことになる)税金で造られるわけです。逆に、いま、目の前で造られる新しい道路や駅の恩恵を受けないまま引っ越すとしても、引っ越した先では、それまでに、その地域の税金で造られたインフラの恩恵を、引っ越した当日からただちに享受することが許されるわけです。ここに、「新しく住んでインフラの恩恵を受ける権利:600万円!」などといえるでしょうか。いえないことがわかります(※)。
※歴史的にはいっていたかもしれないですが、いまはいわないことになっています、の意。
もう、「新駅完成記念グッズ!」といって、錦絵…いえ、たいへんありがたみのある「非売品!(住民だけに配布!)」をつくって、(お金にしたければ)それをオークションにでも出してくださいな(止めません)、というようなことで決着なされば、それが案外、とっても気持ちの良い『ソリューション(笑)』であるのかも、しれませんね。あるいは、地域のお祭りといって、武田さんや野村さんが手厚く提灯を出して、一緒に酒を飲んでくれたらそれで満足なんだと、実はそういうこと(それだけのこと)であったのかも、しれませんね。(武田さんや野村さんのことをよく知りたいんだと、知らないから不気味なんだと、不気味だからきっと、向こうはとんでもないことを勝手に進めているにチガイナイ! …そういう『属人的なレヴェルのフェールセーフ機構のようなもの(無意識でワーストに備える)』が「はっ火」…いえ、一種「自どう的に発どう!」しているんだということです。)そこが叶わないからといって市の説明会にあたるのはスジ違いではないかなぁ、と思えてきそうです。
※「幕府の***にチガイナイ!」([3178])も参照。
既に知っていることに強く影響されて、よく知らないものを決めつけてかかることは「先入観」「バイアス」と呼ばれます。いろいろ検索なさってください、ぜひ。
・(参考)日経コンピュータ「人間不信からAI推奨、機械が淘汰すべき経営者と管理職の面々」(2016年3月7日)
http://itpro.nikkeibp.co.jp/atcl/watcher/14/334361/030300498/?cx
> 人間は“自分の都合の良いように”情報を選択し、自分の感情に従って状況を判断してしまう愚かな存在だ。どんな優秀な人でも、どんなに誠実な人でも、それから逃れることはできない。しかも、無意識にやってしまうから始末に負えない。
> 例えば、シャープが台湾の鴻海(ホンハイ)精密工業の傘下に入ることになったことについて全く関心が無く、ホンハイに買収されようがどうでもよいと思っているのなら、この話題はとても良い教材になる。早速検索してみるとよい。「うーん、どうしてそんな情報だけで、そんなふうに決め付けられるのだろう」と困惑するしかない“識者”のつぶやきに、数多く出会うはずだ。
> 若手営業が企画を上げてきた際、上司が馴染みの顧客にちょっと聞いただけで、「そんな企画は無理、無理」とリジェクトするのは、よくある話だ。
> 既存事業が立ち行かないことが客観的に予想されているのに、安心できる情報だけを集めて「当分は大丈夫」と本当に安心してしまうケースだ。私はITproで「極言暴論」というコラムを持ち、日本のITベンダーの人月商売がもう立ち行かないことについて何度も警鐘を鳴らしているが、のれんに腕押し状態。デジタルビジネスの潮流など都合が悪い情報は、ひたすらスルーされてしまう。
※単に業界の外(一種『蚊帳の外!』)から見ただけで「客観的!」とはいえないと思いまーす。そして、過去の記事で客観的に示したとあらば、逐一、その記事への明示的な参照を設けなくてはイケマセン。
> 人間の情報収集や判断に関する愚かな傾向は大昔からあったわけだが、最近のインターネット普及を契機とした情報爆発により、その傾向が増幅されてしまった。身の回りに膨大な情報があふれ錯綜し、物事の本質を見極めるのが極めて困難になっている。一方で、都合の良い情報もあふれているから、それだけをつまんで、もっともらしい解釈を容易に導き出すことができる。
そこは、こう、「普通の人」(ただし記者を含む)はこれまで経験がないでしょうけれども、(文系の研究者や)図書館(公文書館を含む)や博物館では「あたりまえのこと」だったように、「ぜんぶ見る」ことが効いてきます。いえ、ぜんぶ見もせずに何ができますか、とすらいえましょう。
※「焼肉定食の傾斜配分!」([3180])も参照。公文書館で、秘密が解かれた公文書をあさり続ける人も、特定の事件について、裁判を「ぜんぶ傍聴!」するジャーナリストや作家も、「確かな仕事!」をなさっていると実感されましょう。
・個人のページ(やや不適切な表現を含みますが正直だと思いまーす)
https://mechaag.tumblr.com/post/121186728647/%E3%81%82%E3%81%84%E3%81%8B%E3%82%8F%E3%82%89%E3%81%9A%E6%9C%A8%E6%9D%91%E5%B2%B3%E5%8F%B2%E3%81%AF%E7%B5%84%E7%B9%94%E3%82%92%E5%88%86%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%AA%E3%81%84
> IT部門を叩くふりをして、実は経営陣の無能さを当て擦ってるのだろうか?それなら策士だね(笑)。
> *何某*の記事に納得しているような経営者は死滅する!(笑
※おぬしも策士よのぅ、と、「名状しがたいスクリプトのようなもの」のほうなどチラッ、チラッと見ながら一種「大根!」のソレで棒読みしてみようかと思いました…ちょっとだけ([3059])。そして著者名をフルネームで敬称なしで記すのは(俗にいう)『文系』の流儀ですね、とお見受けいたしました。それぞれの流儀を(俗なものもぜんぶ含めて)知らない人には、呼び捨てしていてアレだと思われるでしょうが、「金田1号2号」を「きょうの金田さん」とは呼ばないんですよぉ。なるほどなるほど、それで?(もしゃもしゃ)…あざっす。理系の目指すところは「誰がやっても同じ」という合理性(再現性[3044])であって、論文の著者その人に注目が集まるようなのはそもそもアレだと決めつけていいのかもしれません。(あくまで『ぼう論』ですっ!)そういう意味で、こう、もっと「理系の記者」による「理系の記事」が、「あん易な署名入り記事」ではなく、(法人としての)出版者や編集部で恒久的に責任を負い続ける格好(筆者だけの責にしない:問題あれば媒体自体の問題である、の意)で出されてほしいかなぁ、とも思えてきそうです。(あくまで素朴です。)
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