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発行:2016/3/7
更新:2018/5/20

[3185]

いま問う「10億円!」のココロ / ほか


理想の「普通の説明会」
いま問う「10億円!」のココロ
「芝浜」を読み解く(仮)
個人あたり便益の算定はそもそもできない

(約21000字)

[3174]
 > 「レストランのスクリプト」については…あれ、まだ書いていませんでしたっけ(代わりに「注文の多い料理店」[3113]と「ポライトネス」[3045]を参照)。この流れで説明回…いえ、「説明会のスクリプト」([3087],[3114])について別途まとめたく思います。

※掲載の順序が前後しまして[3174]より後になりましたが、本稿は[3174]より前にまとめ始めていたものです。

[3181]
 > フツーがいちばんだよ☆

[3087]
 > 普通の説明会

 ということで、藤沢市の説明会の議事録を参照してみます。

・藤沢市(2011年2月26日)
 https://www.city.fujisawa.kanagawa.jp/tosei/machizukuri/toshi/shisaku/muraoka/documents/news02.pdf

 あまり整えられすぎず、ほどよく「ライブ感」のある議事録になっています。いま、話者の顔や顔、それに表情などを一種「生々しくリアルに」想像しながら読んでみましょう。

・談話分析、schemaとフレーム
 http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/38217/1/8_p97-102.pdf

 > 元来は神経学の領域で用いられていた「スキーマ」という用語を心理学の世界に取り入れた、Frederic Bartlett の研究に行き着く。 Bartlett (1932) によると、スキーマとは「過去の経験や外部環境についての構造化された知識」を指すものであり、そのような人間の知識環境は外部からの刺激に関連づけて刻々と組み替えられ、変化するものであるとされた。
 > このBartlett のイメージは、後にMarvin Minsky に代表される人工知能学者により踏襲された。言語システムのコンピューター化を目指す人工知能の分野では、Bartlett のスキーマの概念が「フレーム」という用語の下で再定式化されたが、彼らの解釈するフレームとは、ステレオタイプ化した情報の積み重ねによる知識データの総体であり (Minsky, 1975, p. 212) 、概して静的なイメージを与えるものである。その一方で、出来事の理解に動的な時間軸を加えた概念は「シナリオ」と称され、こちらは Schank & Abelson (1977) による拡張を受けて「スクリプト」という概念がもたらされることとなった。Schank & Abelsonが描いた有名なレストランのスクリプト(客が店に入ってから飲食を終えて出てくるまでの連続的な出来事のイメージ)は、過去の経験から構築される知識の典型例を示したものである。

 > 社会学的アプローチによるフレームとは、平易な言い方をすれば、「今、この状況下で、自分たちが何を行っているか」を特定する際の、参加者の認識の枠組みである。この定義は、Bateson (1972) に端を発するとされる。Batesonは、自身が訪れた動物園で子ザルがじゃれ合っているのを目撃し、2匹の間でそのような行為が成立する背景には、それが戦いではなく遊びであるという認識を相互に可能にするような、シグナルの交換があると考えた。人間のコミュニケーションについても同様の印象を抱いた彼は、上記のフレームの概念を打ち立てるとともに、フレーミングを可能にする言外のメッセージを「メタ・メッセージ」と称した。

 > 語用論学者のJacob Meyなどは、相互行為を規定するのは社会的状況であり、参加者個々人の取り組みが会話の展開に寄与するところは全くないと論じた (Mey, 2001, p. 14)。このような純粋に社会学的な視点は、一定の真理を含むものの、しばしば相互行為の担い手である参加者の裁量を過小視する傾向があり、慎重な議論を要するところである。

 > 例えば、ある企業に顧客からの苦情が寄せられた場面を仮定しよう。上に倣い、「今、苦情の申し立てが行われている」というラベルが適用されたところで、進行中の相互行為に対する当事者の認識が十分に説明されたことにはならない。なぜならば、そのような場における「状況」とは、ある種の帰結(問題の解決等)に向けた相互行為のプロセス全体を想定しない限り、実質的な意義を持たないためである。このような事例は決して例外的ではなく、むしろコミュニケーションに携わる人々がその会話に関して何らかの展望を持ち、相互行為のプロセスにおける自らの立ち位置を見積もりながらやりとりを進めることは、ごくありふれた行為である。
 > そのような場合、相互行為における状況理解とは、出来事に対するアドホックな意味づけというよりも、むしろ「現行の出来事はどのように方向づけられたもので、いかなる展開が見込まれるか」という相互行為のプロセスを包含して行われるべきである。つまり、フレームは単なるラベルやタグのように平面的なものではなく、会話の方向性を展望するための時間軸を含む概念として再解釈されることが望ましい。

 「生々しくリアルに」想像といって、その実、勝手な想像でしょ、と思われましょうが、いえいえいえ、いかにして現実の対話の場面が形成(構築)されるのかという根っこの部分(原理)をとらえれば、これはもう、個々の現実の場面なんて一種「自どう的に発どう!」するインスタンスでしかなく、かなり高い確率で「スクリプト通り」の対話が展開されるんでしょと決めつけて差し支えないだろうということです(仮)。本当でしょうか。

 理想的な状態では、住民にも市職員にもそれぞれ「説明会とはこういうもの」という一種「構造化された知識」があると仮定されましょう。

・Wikipedia「Script theory」
 https://en.wikipedia.org/wiki/Script_theory

※script:(もとは演劇で)配役ごとのセリフや所作をすべて記述したもの。台本。

 「レストランのスクリプト(客が店に入ってから飲食を終えて出てくるまでの連続的な出来事のイメージ)」とほとんど同じで、「説明会のスクリプト(住民が会場に入ってから質疑応答を終えて出てくるまでの連続的な出来事のイメージ)」というものを、大人であれば何となくは知っているということは、みなさま異存ないだろうと確信されます(誰もが確信するはずだと思いこみます、の意)。

 レストランといって、通常、室内が階段状になっていたり、座席が跳ね上げ式であったり、シートベルトの着用が求められたり…などということはないと、いえ、そもそも、そんなことはまったく考えることなく、「レストラン」という看板を見て、あるいは、看板に「レストラン」とすら書いていなくても、外観を総合的に判断して「レストラン」だと断じて入る限りにおいて、全然ちっともまったく完全に疑うことなく「(自分の思う)レストラン」だと思って入るわけです。

 仮に、いきなり「体にジャムを塗ってください」だのと、妙な『注文』があったとなれば、その時点でただちに疑うことができるかといえば、これが疑えないんだなぁ、というのが、宮沢賢治の作における絶妙なところで、そもそも多少なりとも空腹であるのでレストランに向かうのだという生理的な面を除いたとしても、なお「(自分の思う)レストラン」を自分で否定するのはたいへんむずかしく(550ページの「論文!」[3092]、何のこれしきといって『鉄識』[3107]なども参照)、かなりの段階まで、もっともらしい理屈を想像して、理解しがたい『注文』を『理解』しようと(「レストランのスクリプト」に定められる「お客さま」らしく振舞う、すなわち「ものわかりのよいお客さま」を忠実に演じようと)努めてしまうわけです。「レストランのスクリプト」という一種の「先入観」がいかに支配的であるか、よくわかります。

 説明回…いえ、説明会についても、会場の机や椅子の配置には一定の様式があり、これを極端に崩すことは通常ありません。説明会に出席するには、まず服装を決め(男性はネクタイが要るかなぁ、女性はむずかしいですが授業参観くらいの華美すぎずだらしなさすぎずの装いをあれこれ考えることでしょう)、開始時刻にあわせて会場を訪れ(前日から徹夜で行列したり開場前から座り込むなどもってのほか)、会場内で飲食も喫煙もせず、進行役がしゃべり始めるのをいまかいまかと待つわけです。

※もともと連続のソレにおいて、特に説明だけを行なう回を指して「説明回」などと、いえいえ、講義の初回を「イントロダクション(導入)」と称してハサミを持参させるセンセイもいれば、「教科書は買わなくてよいですから」とハバカラズにおっしゃるセンセイもいますよねぇ。

・自分では読めない教科書を買わなければならないはなし(日本障害者リハビリテーション協会)
 http://www.dinf.ne.jp/doc/japanese/resource/ld/071121_workshop/copyright.html

 …という「見た目が8割」的なアレで恐縮ですが、仮にMeyの論が支配的に正しい(相互行為や会話の展開において、社会的状況が支配的である)としますと、まさに、進行役が会場を見渡した時点で、その後の展開はもう読めている(進行役としても状況に支配されるので、いかんともしがたい)といえましょう。本当でしょうか。その答えは、ぜひ、お近くの心理学の先生と社会学の先生に直接、お尋ねになって、その答えをご自身で総合して確かめてください…などと、そんな難しいこと、なかなかできませんよね、わかります。

※ここではあくまで素朴に、「半可通」としてしか読みませんが、仮にも「業務に活かそうと思います!」というレヴェルであれば、「半可通」ではいけません、の意。きわめて「あん易」に「『色彩心理ライン』を導入!(キリッ」などと、たいへんミットモナイのだと自覚いただけたらいいなぁ、と思ったりするとかしないとか。(青色の照明も含め)外形的には「みらくる☆おまじない!」であると断じられましょう。心理学そして社会学のセンセイを迎えて、きちんと共同研究して、しかるべき実験を重ね、そしてきちんとジャーナルや国際会議に通さなくては、外形的には「エビデンスをともなった施策である」とはみなすことができません。

・「ミラクルかなう! キセキのおまじない」
 http://www.seitosha.co.jp/245_3384.html

 あのね(略)どっかーん☆([3089],[3099])。ご家庭で、ご家庭の方針で、子どもとの『対話の中で対話的に』、いろいろな決まりごとやおまじないを一種「援よう」しながら子どもの成長を見守る『やさしいウソ』…いえ、「レーダーにサンタクロースの機影がっ!!」「窓の外の上空にサンタクロース!」([3132],[3147])のようなソレにはとっても意味があると思っているんです。でも、それを一種「外注!」してはいけないんではないかと心配されるという話でありましょう…たぶん。「おまじないの本」などなくても、自分でおまじないをつくりだせるのが子どもではないでしょうか。

※この本さえ置いておけば手がかからない(一人でおまじない遊びをしていてくれる!)、そういう面で(忙しい大人にとって)『実用書』であるのは確かです。さすが「実用書の西東社!(昭和7年創業!)」ですね、わかります。

・Google ストリートビュー 「西東社本社ビル」前