フォーラム - neorail.jp R16
発行:2015/11/25
更新:2017/8/19

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【実例に見る日英対訳】

実例に見る日英対訳(5) 失われたニュアンスを求めてC2


日本トイザらスの「English-to-English miscommunication」
話題の粒度にあわせて職制を正確に訳す
外資は日本の「Xマス」を正確に読み解けているか?

(約15000字)

 再び英語の話です。

・「インターネットと翻訳業」
 http://www.d-lights.jp/essays2/sub7

 > インターネット以前と以後では、翻訳業そのものが大きく変化しました。

 > 世間一般の英語力からいっても、インターネット以前と以後では格段のちがいがあると感じます。かつてはエリートにのみ必要とされた英語力が、ふつうの社会人にも要求されるようになりました。社会全体の能力の底上げに伴って、翻訳者の能力もそれだけ高まってきたはずです。

 > もちろん、こういった急激な変動期には多くの混乱が発生します。まるで英語を理解していない翻訳者とか、理解不能な日本語を書く翻訳者とか、そういう人々をよく見かけたのもこの変化の時期でした。けれど、混乱がおさまるにつれ、そういった極端な事例はあまり見かけなくなりました。翻訳者のレベルは、以前よりも確実にアップしました。

 > 翻訳者の側から見れば、インターネットによって以前には入手が困難だった情報や時間がかかった作業が効率良くできるようになったため、品質が上がるようになったのです。たとえば、インターネット以前には辞書を5〜6冊、参考書を10〜20冊ぐらい机の周りに積みあげなければ仕事にはなりませんでした。いまならそれが不要なばかりでなく、引用されている論文や参考文献に直接あたることもできますし、風景や地形、地理などは視覚情報として画像を参照することも可能です。質のいい翻訳には、特に専門的な文書の場合には、十分なバックグラウンドの調査が欠かせませんが、以前なら図書館に半月もかかって通い続けなければできなかったような調査がデスクから一歩も動かずにできるのです(おかげで運動不足になります)。

 プロでなく、翻訳だけをしているわけでもないですが、インターネット上で辞書を3〜4種類、英語の参考書代わりに機械翻訳を2種類くらい、分野ごとの用語集や対訳集も参照でき、「引用されている論文や参考文献に直接あたること」もできますし、「風景や地形、地理などは視覚情報として画像を参照する」ことも、本当に可能ですねぇ。いま、交通費をかけずにいきなり、「浜川崎駅南西側の跨線道のガードおよび首都高の高架」の石積みを画像で参照できるのです([3116])。航空写真も、目録やら請求記号やらでなく、いきなり写真そのものを見ることができます([3116])。すばらしい時代になったと、素人としても実感しています。

 英語力といって多くの人がウインウインなビジネス英会話(電子メールを含む)や同時通訳をイメージする一方で、その実、(会話や通訳に比べれば)たいへん時間をかけてウンウンと「丁寧に翻訳」するのも、時代を問わず必要な能力です。地図に残る仕事、いえ、縮刷版に残る仕事やマイクロフィルムに残る仕事という観点では、質の高い翻訳をばといって発注されたり、あるいは自力で取り組んだりというのは、たいへん、未来の歴史の重圧が一点に荷重されて背筋が凍る…いえ、伸びる話だと感じます。

 さて、「理解不能な日本語」は淘汰されたとしても、ウン? とひっかかる「よくわからない日本語」はいまだに一種『量産』されているのではないでしょうか。こうしたケースでは、なぜ「よくわからない」と感じるかといえば、原語や、発話者の生の発言にあったニュアンスが、翻訳や記録において失われているからだと仮定できましょう。字面だけでは、文章や発話の真意がわかりかねる場合というのがあるのです。

 豊かなニュアンスというものは、音楽でいえば、▼しかるべき音響空間でプロの生演奏を聴いたことがなく、▼圧縮されていない音源を聴いたことがない、という状況下では、意識されないことでしょう。これもまた正常な耳の使い方であって(耳の使い方としてはよしあしがあるものでなく環境次第である、の意)、しかし、合成音声や低ビットレートな圧縮音声ばかりを聴いていたら、▼自分の発音もソレっぽくなっていくのではないか、▼「生々しい肉声」が気持ち悪く聞こえたり、▼そもそも聞き取れなくなったりするのではないかと素朴には心配されます([3034])。

・「失われたニュアンス」のイメージ(仮)
 http://www.itmedia.co.jp/products/0307/04/sj00_mp2.html

 翻訳の過程は、音声データの非可逆圧縮、あるいはアナログ信号のデジタルなサンプリングにも似ていて、翻訳者の能力を超える帯域はバッサリ、消えてしまうのです。このとき、語彙が豊富であるかという部分はよく理解されているので勉強もしっかりされましょうが、ニュアンスをくみとって、訳してなおニュアンスを再現できるという部分については、そもそも母国語でそれができていない人にあっては、外国語を学ぶにあたってそれができるわけがありません。

 ここではこれまで、ポライトネス([3045])、CEFRの「C2」([3061])などに言及してきました。その主眼としては、「日本語対日本語でのミスコミュニケーション」を防ぐべく([3101])、何を考えて(さらには鍛えて)いけばよいのか、というところにあるわけですが、もちろん、英語を勉強する際に注意することとしても、共通している部分がありましょう。


★日本トイザらスの「English-to-English miscommunication」


 とはいえ、楽しみながら英語を読んだり書いたりしていきたいですね。最初から日英対訳になっていて、無料で読めて、しかも鉄道にちょっとでも関係していたらいいなぁ、といって、ありました!

・TOEIC SQUARE「「コミュニケーションこそリーダーシップの要」日本トイザらス」(2012年9月6日)
 http://square.toeic.or.jp/globalbusiness/keyinterviews/monika_merz.html

 > Canada is a very multicultural society. I could be in Quebec and not understand the language perfectly. What I find here is that communication is very important, and even when people speak English, you need to make sure that they really understand. In meetings, I sometimes point out that English-to-English miscommunication can occur in order to emphasize that communication needs to be very clear.

 > 時には、英語対英語の会議であっても伝達不十分なことがあると私は言っています。ですから、コミュニケーションというのは、本当に明確でなくてはなりません。

 うーん、すばらしい和訳だなぁ、といって感たんされます。ただ、え゛ー、sometimesって、そこじゃないでしょ、とも指摘されましょう。仮に、英語の語順のまま、『日常日本語会話』([3103])の雰囲気を再現([2935]も参照)して訳すと以下のようになるのではないでしょうか。

・会議でね、うん、私、よく言うんですけれども、{▼英語対英語なのに通じてない、<ぜーんぜん、ちっともね※1>、そういうことが実際、起きる(※2)んですよ。でね、▼コミュニケーションはきっちりかっちり(※4)しないとだめ(※3)なんですよ}と。

※1 「miscommunication」とまで言っているので「伝達不十分」などという生やさしい程度ではなく、たいへん仕事に響くくらい困っている、とうかがえます。本当でしょうか。しかし、とはいえ「困ったものだねぇ(でも防ぐのはむずかしいのよ)」的な、やや傍観者じみたユルさのようなものも何となく感じられ、「ぜーんぜん、ちっともね」くらいかなぁ、と勝手