・(ここに見出しが入ります) ・分けすぎずに細かく分ける ・「AI」と「人工知能」の違い ・「博士の異常な将棋」そして「名人のおやつ」 ・将棋と確率、そして「9の数」を数える日 ・非常に大きな数の「名付け親」は9歳! ・人に「還流」そして「環流」できる研究を ・「AI元年」「人工知能元年」はいつ? ・実務でも「計算結果は寝て待て」 ・みんなより先に、みんなを代表して「知る」「わかる」そして「伝える」 ・表1 業務の分類(仮)
(約26000字)
何の話かよくわからなくありますが、一応は研究の話、そしてモデル化の話だと思います、たぶん。
・読売新聞「人工知能で東大合格をめざす 新井紀子さん(52)」(2015年8月13日)
http://www.yomiuri.co.jp/life/special/tatsujin/20150810-OYT8T50010.html?page_no=1
http://www.yomiuri.co.jp/life/special/tatsujin/20150810-OYT8T50010.html?page_no=2
http://www.yomiuri.co.jp/life/special/tatsujin/20150810-OYT8T50010.html?page_no=3
http://www.yomiuri.co.jp/life/special/tatsujin/20150810-OYT8T50010.html?page_no=4
「(52)」…いえ、業績でも科研費でも年齢は(オオヤケには)載せずとも通るのではなかったかと思いますが、「年齢非公表」(あるいは「17歳などと称する『設定』」など)を許される芸能人や作家などの扱いでなく、あくまで「普通の人」扱いですね、わかります。▼新しい小惑星を発見したアマチュア天文家や▼「最長片道切符」で全国のJR線(一部の3セクを含む)を「完乗」した鉄道ファン、それに▼おもちゃメーカーを定年退職後におもちゃの修理をてがける「おもちゃドクター」などと同じ扱い(あくまで紙面の上で)というわけです。研究の話で社会的な話なのに「人もの記事」に仕立て上げてしまう(その限りにおいては新聞としての所定のフォーマット=いわゆる「テンプレート」=に従って、なかば自動的に「(52)」と記される)のは、とりあえずそこにしか「受け入れ枠」のようなものがなかったということの裏返しですね、わかります。既存の「枠」をフル活用して受け入れよう(難しい話だけれども、なんとか紙面に載せよう)と奮闘されたということで、スバラシク見受けられます。本当でしょうか。
●(ここに見出しが入ります) この連載は8月10日から始まっていたものでした。
・読売新聞「人工知能で東大合格をめざす 新井紀子さん(52)(5)」(2015年8月14日)
・読売新聞「人工知能で東大合格をめざす 新井紀子さん(52)(4)」(2015年8月13日)
・読売新聞「人工知能で東大合格をめざす 新井紀子さん(52)(3)」(2015年8月12日)
・読売新聞「人工知能で東大合格をめざす 新井紀子さん(52)(2)」(2015年8月11日)
・読売新聞「人工知能で東大合格をめざす 新井紀子さん(52)(1)」(2015年8月10日)
(URLは省略)
「副題(サブタイトル)がなくて内容がわかりにくい」([3094])ですねぇ。そして、このコーナー「達人の本棚」では、「(前編)」「(後編)」の2回でまとめられる人と、さらに「(中編)」も入れて3回の人、そして「新井紀子さん(52)」のように52回、いえ、5回にも及ぶ人まで、いろいろだとわかります。無理に所定の枚数(ただし原稿用紙でいう)で打ち切ろうとしてモーレツに無理なまとめ方をするでなく、きちんとテーマや人に応じて枠が伸び縮みするというのは、合理的ですね。
※そして、「全4回」(月〜木の18時台「首都圏」[3086])とか「全7回」といった回数では半端だと、素朴にも感じられましょう。「全10回」にもなると、あとちょっと(「全13回」)で授業になってしまいます。ウンザリです。「全5回」までが限度ですよねぇ。注意の持続できる時間や、受容できる情報(内容)の量や複雑さには、限度があります。それを超えて「流し込み」がなされても、文字通り、どこかに流れて行ってしまって、受け止めてもらえません。
※例え興味があって、意欲満々で授業に臨んだとしても、それでも無情にも限度というものは自動的に発動するもので、端的には「うーん、もう食べられないよ」と、「情報の満腹感」のようなものが知覚されるわけです。振り替えなどで2コマ連続だなんて、とんでもない! 授業で聞いた話は、きちんと一週間かけて「反すう」そして「定着」されることが(大学設置基準など法令の上で)期待されています。授業中でなく、授業が終わってから次週の同じ授業までに7回、睡眠をとらなければならないのです。
・「もう食べられないよ」のタイムライン(2015年5月22日)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13145836493;_ylt=A2RAjLRGnc5VQ3IAfYmg_PN7?pos=1&ccode=ofv
・「I can't eat anymore?」(2006年2月16日〜)
http://www.animenewsnetwork.com/bbs/phpBB2/viewtopic.php?t=21670&highlight=eat
「達人の本棚」の命名ルール、いえ、見出しの付けかたとしては、ここまで複雑な人をご紹介することまでは想定されておらず、副題をつけることが(連載の開始前に)考えられていなかった、ということなのでしょう。
いま、(連載の途中で方針を変えられず=端的には「ホームページ屋さん」に追加の仕事=長い見出しに対応するようレイアウトなどを修正させる=は、させられず)しかたなく単一の見出しで全5回をまかなうとして、しかし、言葉足らずに感じます。「新井紀子さん(52)」が、いわゆる「『50の手習い』」で東大を目指す(本人が合格を目指す)ように読めてしまいます。「東大合格レベルの人工知能の実現を目指す」が最も正確で、端折るとしても「『東大に受かる』人工知能目指す」(「受かる」が通俗的な表現ですから「当事者はそう称している」とする引用の形で)くらいではないでしょうか。=記号は含まず13字。あくまで「人もの記事」としてのやわらかさがほしいといえば「『東大に受かるAI』を研究する 新井紀子さん(52)」(同じく13字)でしょうか。こうすれば「AI」を知らなくても、何か「受かる」ために使う道具で、それを研究しているんだな、と、一種「予約語」のようなものだけをつかって平易に理解することができます。
・個人のブログ「予約語」(2014年2月21日)
http://tht.sblo.jp/article/87999049.html
●分けすぎずに細かく分ける そもそも、「愛読書」「『座右の一冊』」などと称して、狭く深くという形で専門性を持つ人と、全5回にもわたって、しかも多数の本を挙げる人とでは、一口に「達人」といっても、専門性のありようが異なります。
広く浅いというのも専門性であって、専門性がないということではないんだということですが、このことはまだ、広く認められているとまではいえません。それが専門だなんて、わかりにくいんです。もっとも、字面の上では「ある一つの『門』を「専ら」とする」のではない以上、「専門性のようなもの」とはいっても「専門性」といいきることは、これまたハバカラレルことです。
これまたおかしな意味まで付いてくる「一般職」(古い意味で「書類を作成」したり「お茶」をくんだりする、の意)が過去の言葉として一度、すっかり忘れられた後に、ようやく「一般性」(職業人のありようを客観的に述べるための用語として「スペシャリスト」と対等に対置される「ゼネラリスト」が持つ特性として)という言葉に新しい意味やニュアンスを持たせていく(「もてる『一般性』をいかんなく発揮いただく」「職務の遂行に特化された能力は「専門性」と『一般性』に大別される」など)といった形で「決着」していくのではないかなぁ、と(仮に)見ることができましょう。本当でしょうか。
・スペシャリストとゼネラリスト
http://logmi.jp/4553
※職種が自分と違う人を卑下してはいけませんし、人と違うからといって自分を卑下してもいけません。違うのはあたりまえで、お互いに、自分の得意なことを活かし、自分ではできないことは他人に任せて、世の中「回って」いるのです。
・「ホワイトカラー」
http://kotobank.jp/word/%E3%83%9B%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%BC-134901
> 産業構造の変化によりサービス産業の比重が大きくなってきたために、製造業を中心とした概念による区分(ホワイトカラー・ブルーカラー)で捉えきれない様々な業務に携わる機会が多くなってきており、一般にホワイトカラーの範囲も曖昧になってきている。
■表1 業務の分類(仮) | ←ノンホワイト(C) | 中間的(N) | ホワイト(W)→ | ↑ゼネラリスト(G) | CG | NG | WG | 中間的(N) | CN | NN | WN | ↓スペシャリスト(S) | CS | NS | WS |
もともとの定義(ミルズ:C.W.Mills)では、狭くは「高等教育を受けているか」で分けられる(が、それに限らない、一種「ファジー」な分類を意図して=ミルズが意図したということですよねぇ)▼「カラー(collar:襟の色)」を横軸に、▼技能の指向性のようなもの(狭いか広いか)を縦軸にとり、それぞれ3値(中立を考える)で扱うと、9種類に分類されます。
・{C, N, W}{S, N, G} → CS, CN, CG, NS, NN, NG, WS, WN, WG
さらに、平面では表現できませんが、▼「マニュアルに従う度合い(責任の重さ)」(従うだけ:M、自律的:A)、▼「業務の公共性・公益性のようなもの」(娯楽的・嗜好的:E、公共的:P)など、いろいろな軸を導入できましょう。(ただし、賃金や社会的地位など、労働の「結果」であるものは含めません。)4軸3値であれば、34=81で、81通りに分類されます。
・{C, N, W}{S, N, G}{M, N, A}{E, N, P} → CSME, CSMN, ..., WGAP
こうした考え方で大事なのは、「**(4軸にあっては****)に分類される職業なんてないだろうから、分類自体、しなくていいや」とは考えず、機械的に「マス目」だけは用意するということです。確かに「いま」はなくても、将来、大きな変化があれば、「変な分類」に分類される「変な職業」が出てこないとも限りませんし、いかなる職業が出てくれば「変な分類」のマスが埋まるか本気で考えるというのも、研究の一つになりえます。
・個人のブログ「電子マネーをいかに定義すれば通貨偽造罪に問えるか」(2007年1月25日)
http://tht.sblo.jp/article/3168263.html
また、分類が難しいものがあるというのは自然なことで、最初から「どちらともいえない」にあたる中立の値を選べるようにしておく、一種「ファジー」そして「ファジー(笑)」([2995],[2996])な扱いをすることも大事です…が、忘れて2値でウンウンと…そして分類結果や学習結果が惨憺たるものとなり(特に連鎖的に=前段の結果を後段で使うようなもので大幅におかしくなり)、しかも、そうなったことにすら気づかれない、ということもありましょう。(想像ですが実感です。)
※「カラー」といっても、その実、「くすんだブルー(優れた熟練工)」もいれば「くすんだホワイト(判で押したような簡単なお仕事…いえ、本当に判を押すだけのような管理職)」もいるわけです。明らかに「ホワイト」である場合だけ「W」とし、よくわからないものは「N」とする、そうした、適切に「にげる」(後述)判断も入れておかないと、例えば「くすんだホワイト」を「W」に入れたために、「Wらしさ」を決める基準のようなものが下へ引っ張られる(いえいえ、「足を引っ張る」とまでは申しません、メッソウもございません)ようなことも生じえます。
●「AI」と「人工知能」の違い 余談ですが、「50,000回のサンプリング」と「m=50000」が同じことであっても受け止められ方がまるで違う([3097])というのと似ていて、いま、「AI」と「人工知能」が同じものであるとは、必ずしも受け止められていないかと思います。
…何のことやらわからん説明を尽くせケシカラン、といわれます。いいでしょう、「丁寧に説明」しようではありませんか(※)。前者は「AI将棋」や、古くは「ガンガンいこうぜ」のソレ、そして、後者だけが「この前、社長が言ってたヤツ」「日経によく出てくるアレ」などと…本当でしょうか。あるいは「来年のAI」といって「(来年の)人工知能学会の全国大会」を指すんですね、わかります。
※…などと、「丁寧に説明」って、ムダにエラそうですよねぇ。
・東洋経済オンライン「丁寧に説明すればわかってくれる、という誤解」(2013年10月7日)
http://toyokeizai.net/articles/-/20533
・人工知能学会「大会終了のお知らせ」
http://www.ai-gakkai.or.jp/jsai2015/archives/768
※「人工知能学会終了のお知らせ」ではありません、念のため([3071])。そして「1200名!」は、いかにも「みんなで人工知能を囲む会」(そして「みんなでプロ棋士を囲む会」?)に成り果てた観(人数ばかりが膨れ上がり、そして研究テーマやアプローチの多様性が損なわれていく※※=そうでないと人数は増えない)があり、端的に多すぎると感じます。そのうち、自然と分割のプロセスが発動していく(物理法則に従うという意味で=大きくなりすぎてもろくなったものは自然に崩れ、あるいはエネルギーが高まりすぎたなら飛び散ります=どちらにしても細かく分かれます)んではないでしょうか。(感想は個人です。)あるいは、先進的な人たちはこっそり「卒業」していて、別のところで最先端のコミュニティ(ただし国内に限る)をつくっているんではないでしょうか。(あくまで憶測です。)こうしたことは「活況の証」ともいえますから、それ自体は「いいこと」とも「わるいこと」ともいえません。
※※これから参加しよう投稿しよう発表しようという立場(主に学生)にあって、同じ会議の過去数年分の予稿集はぜんぶ目を通してあたりまえ、と(指導教員が)するのが標準的だろうと思います。(それを課されないなら、それでもご自身でなさってください。)この時、あまりにも発表件数が多くては、頭に入りきらず、あるいは最初から「ぜんぶ」はあきらめて、自分の興味のあるものほんの数件だけを見て「(これまでの流れが)わかった」と(主に学生が)してしまう恐れが高まります。すると、誰でも思いつくようなものを「自分が初めてだ」と思って取り組んでしまい、教員のチェックや指導も甘いと、そのまま発表されてしまい、結果として、似通った発表ばかり件数が多い、ということになってくるわけです。
※さらには「みんなで人工知能を囲む会」(めぼしい研究成果は全然ちっとも発表されない:一種「スルー」されて国際会議へ、直行便で飛んで行かれる=「第1種スルー」などと…略)になってもなお、教育的な意味で存在意義があるというもので、他方、そうなったらなったで運営する側も、何かに「浴する」側としても、そのことに自覚的でなければなりません。もはや、「人工知能学会で表彰されました!」などと、「トップページ」で「お知らせ」しては、ミットモナイかもしれない、ということです。(あくまで見解は個人です。)あるいは、「ブレークスルー」などと称して旗を振っているつもりが、その実、「第1種スルー」で飛び立つ飛行機を見送っていただけだった、ということに、既になっているかもしれません。(これを指して「第2種スルー」などと…略。)
・「終了のお知らせ」
http://dic.pixiv.net/a/%E7%B5%82%E4%BA%86%E3%81%AE%E3%81%8A%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%9B
・「ガンガンいこうぜ」(1990年2月11日)
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AC%A5%F3%A5%AC%A5%F3%A4%A4%A4%B3%A4%A6%A4%BC
・個人のブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/t_h_mackys179/60811618.html
> これが、AIと呼ばれる人工知能だ!!
> たのしいしかけがたくさんまってるぞ!
とはいえ「AI」の話でございます。
単にルールベースで、ごく簡単な条件しか設定しないものでも、確かに「AI」とは呼べましょう。あらゆる「人工知能」はその実、「ガンガンいこうぜ」で猪突猛進する(そして「全滅」しても責任を取らない)「コンピュータ プログラム」([3097])であって、人に代わって人のような柔軟な判断(「ランダムな鉛筆」…いえ、「気まぐれ」とも言います:それでも結果的に満足が得られることがあるなら、いくら「気まぐれ」といってもきちんとモデルに組み込まなければ、「気まぐれ」ができないという点、ただ一点で人に劣るとみなせます)をしたり、そもそも「さくせん」を切り替える判断をしたり、ましてや「にげる」コマンドを適切にハンドリングしたりというところには到達していない(当時)ということが、よくわかります。そこをも担えるようにしていこうというのが、昨今の研究動向でありましょう。これはウカウカしていると、RPGも「全自動」になりかねません…それってRPGなんでしょうか?
・あたらしい「気まぐれロボット」(2014年3月15日)
http://www.tsubasabunko.jp/bookdetails/?pcd=321307000250
※ワー! 表紙が「あらゐけいいち」センセイの絵になっていてびっくりです。はかせー! …そして「(小学中級から)」とのこと。もはや赤べこやしゃけ、それにたけのこなどが意味もなく散りばめられていたとしても驚かれません。
・あらゐけいいちセンセイのホームページ
http://www.kumomadori.com/
●「博士の異常な将棋」そして「名人のおやつ」 「博士の異常な将棋」…いえ、「ぷろきしっ!(プログラム棋士)」とでも呼ぶべき「コンピュータ プログラム」同士の「対局」を考えていきますと、もはや「対局」といっても大した時間はかからず、むしろ、相手の出方を観察しながら何通りも試してみるという一種「探り合い」を、人間の棋士同士であればめったにできないところ(できないので過去の棋譜を参考に、シミュレーション対局を重ねているのでしょう)、「50000回」でも、もっとたくさんでも行なうことができ、そうした「探り合い」を通して「試合の中で成長」するところをも含めて採点していくような、コンピューターにはコンピューターならではの「目標」を設定できてこそ研究といえましょう。そうでない限りは、どこまで行っても「みんなでプロ棋士を囲む会」(本当は対局して楽しみたいがこちらは弱いので代役=プロキシを立てる的な)に留まってしまいます。
・「試合の中で成長」(2015年4月29日)
http://www.hochi.co.jp/dosports/boys/20150429-OHT1T50073.html
人の「成長」とプログラムの「成長」が異なるのは、後者では「いつ、何が、どのように、どのくらい」「成長」したのか(いかなる入力に基づき、何をどう変えたことで、出力の精度がいかほど高まったか等)を、すべて自動で「追跡可能でトレーサブル」だということです。「頭痛が痛い」…いえ、人には耳が痛い、あるいは「積極的に」と力を込めて言いながら目を大きく見開いて…いえ、目を皿にしてもなお見逃してしまう、たいへん『ささいで重要』なことをすべて「記録に残してアーカイブ」できるんです。もう、それだけで(それだけといえばそれだけのことでもあるわけですが、それでもなお)スゴイですよね。
それに加えて、24時間稼働で膨大な回数の「対局」をこなす(人が相手でなければ、「持ち時間」などといってわざわざもったいぶって待たずともよい)ことも、コンピューター同士なら可能です…いえ、それでこそコンピューターだといえましょう。シミュレーションといいますか一種の「ジョブ」を投入して(「山田入りまーす」…いえ、「ジョブ入りまーす」的な)、「1巡目のセカイ」くらいは付きっきりで見るでしょうが、あとの49998回(例えです※※)は寝ながら(研究室の片隅に「常設」された「仮眠用ベッド」でぐごーぐごーすぴーと豪快に『仮眠』をとりながら「もう食べられないよ」などと)、あるいはコーヒー(※)を飲みながら待っていればよいのです。
※ビールはだめですよ。コンピューターを含む『機械類』の操作ができなくなります。あと、ついでに名産の「おやつ」もほしいですねぇ。そしてビール…はだめなので、テレビに漫画、そしてなぜかダンベルやWii…と、こうして研究室はガラクタ(と呼ぶとオコラレルがしかし厳に私物と断じられるモノ)だらけになっていくんですね、わかります。もっと進行すると、デスクにメロンパンやあんパン(おやつというよりは「願掛け」的な意味で)、それに「食玩」らしきもの(仮にも研究室なので…とはいえ「食玩」ともいいきれない何か的なもの)が「オソナエ」されるようになっていき、あるいは「メロンパンの人」や「あんパンの人」そしてユカイな仲間たちが勢ぞろいしていく(まさに勢ぞろいすべく増えていく)…ここまでくると、いろいろな意味で「黄色信号」っぽくあります。(感想は個人です。)それでもなお、工事現場の方が「エンギ」を気にして起工式や神棚を所望されるならそれをきちんと用意し、外国の鉱山で落盤事故あらばタバコも聖書も「プチプチ」も差し入れるというのと似た何かで、研究がはかどるためなら、たいていのものは許しましょう、というわけです。
・高津カリノ「WORKING!!」
http://www.square-enix.co.jp/magazine/yg/introduction/working/
・「二巡目」から「15,527回」まで
http://www.starchild.co.jp/special/asura/glossary.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97%E3%82%82%E3%81%AE
・「メロンパンの人」
http://dic.pixiv.net/a/%E3%83%A1%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%91%E3%83%B3
・「あんパンの人」
http://dic.pixiv.net/a/%E3%81%82%E3%82%93%E3%83%91%E3%83%B3
・Wikipedia「コピアポ鉱山落盤事故」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%94%E3%82%A2%E3%83%9D%E9%89%B1%E5%B1%B1%E8%90%BD%E7%9B%A4%E4%BA%8B%E6%95%85
※コンピューターの性能は飛躍的に進歩していっているわけですが、それと同じか上回る速さで研究上の計算の複雑さも増しているので、「研究室でコンピューターに待たされてヒマしている人」という構図は、1970年代からずっと変わらないのです。あまりにもヒマなので、数々のジョークや、鉛筆でフロッピー(笑)を回すような何か、あるいは「マーフィーの法則」のようなものを「わが研究室」としても自作してみようなどといって、その実、ヒマを楽しんでいたりもするわけです。
※※そして一番おもしろそうなところ…いえ、「最終回」は見逃すまいと、飛び起きて見入るわけですね、わかります。そして、エラーで止まっていたとなればがく然と、そしてぼう然としつつもモウ然と、デバッグし直すわけです。「寝ていた自分を叱ってあげたい」そして「『1巡目』に戻りたい」などと…はい、デバッグさえできたらちゃんと「元のセカイ」に戻れますからご安心を。
・ツイッター「山田が起きましたよ みなさんおはようございます」
https://twitter.com/bot_yamada
・朝日新聞「名人が愛した食事とおやつ(将棋編)」(2014年12月)
http://www.asahi.com/and_M/gallery/141204_meijinoyatsu_shogi/
・朝日新聞「TRON開発者と見た将棋電王戦 機械と生きる未来とは」(2015年3月30日)
http://digital.asahi.com/articles/ASH3T62W5H3TPTFC014.html
> 「機械は人間を超えるのか」という点が注目され、将棋ファンのみならず広く関心を集めている。コンピューターの国産基本ソフト「TRON(トロン)」の開発者として知られる、坂村健・東京大学大学院教授(63)と、勝負の現場を訪ねた。
> 坂村さんは「想像以上に盛り上がっていて驚きました。伝統文化である将棋が、こうしてオープンに中継されるのはいいことですね」と目を見張った。
> 「人間が担ってきた分野に機械が入ってきた時、どんなルールを作るのか。最近、欧米ではそうした議論が盛ん。日本でその思考実験をするのに、将棋はいい題材です」
> 平岡さんは就職してからプログラミングを本格的に学び、4年ほど前に将棋ソフトを作り始めた。自身の腕前はアマ三段ぐらいという。
> それを聞いた坂村さんは「普通に対戦すれば勝てない相手でも、プログラムを作ることで互角に戦える。面白い」。
> 「いずれ人間はコンピューターに勝てなくなると思います。しかし、目の前で戦う姿を見ていると、斎藤五段に勝って欲しくなりますね」
「Computer-aided activities」と総称できそうなソレ([3094])、そのものです。すべからく道具というものは、身体的な能力や社会的な固定観念を超えて活躍するために作られ使われてこそ「道具」(とある「道」を進むために/「具」するもの=仕事などのために/常に手元に置くもの=そして人を助けるもの)といえます。
オリンピックとパラリンピックをごちゃまぜにはできません。オリンピックの中でも、体重などでクラス分けをする競技もありますし、パラリンピックでも、障がいの内容や程度に応じてクラス分けをするでしょう。しないと、競技として成り立ちません。それと似たような話が、人とコンピューター(プログラムを用いた対戦)の別においても取り組まれていくことになるのではないでしょうか。そこには違いがあるんだと認めるところから始めなくてはなりません。
> コンピューター将棋は人工知能研究の一分野として発展してきた。チェスの世界では1997年に世界王者が敗れたが、取った駒を使える将棋は手の選択肢が多く、なかなかプロのレベルに達しなかった。コンピューターは1秒間に何万手と読むが、駒を無駄に捨てる手も深掘りするため、有力な手だけを効率的に読む人間に勝てなかった。
> 今回の電王戦は、コンピューター側が汎用(はんよう)パソコン1台しか使えないというルールがある。だが、これはスッキリしない。互いに「この条件なら勝つはず」という「たられば」が残るからだ。
> 第2局では、「成れる角が成らない手を考慮しない」というプログラムの欠陥が出て、コンピューターが投了した。だが、事前に貸し出したソフトの欠陥を本番まで直せないというルールはどうか。双方に制限がない環境で、コンピューターとトップ棋士が戦って欲しい。その日を迎えることで、将棋界も先に行ける。
> コンピューターに敗れたチェスの元世界王者カスパロフは、人間と機械がタッグを組んで戦う対局を提案した。私は、斎藤五段とエイプリーのタッグと、エイプリーとの対局を見たい。人間にあって、コンピューターにないものが見えてくるはずだ。(寄稿)
実験をするときに「条件を変えて試す」のを1つずつに限る([3094])というのと同じ、研究のキホンです。いくつもの「制約」を同時に課して、結果として「よくわからないハンデ」をどちらもが負わされるということでは、実験になりません。また、ベストを尽くす(明らかなミスを残したままではいけない)ことは当然のことです。実験を始めてからミスに気が付けば、実験をやり直すことが求められます。
さらに、いわば「見世物」として「おかしな制約(たられば)」を設けて対局するというのは、人間の営みとしての対局に対しても、研究のための実験としても、どちらのためにもならず、ためにならないのになぜするのか、と突き詰めると、相手にムダな労力を強いている、つまりは「互いに、相手に失礼だ」ということになってきましょう。(いえ、ただちに「失礼だ」とまではいえませんけれども。誰もが「そのほうがおもしろそうだから!」と言っているうちはよいですが、「実はおもしろくない」と感じる人が相当数、出るようになっては「しおどき」なのかもしれません。)
プログラム(「ぷろきしっ!」としてのパッケージというよりは局面ごとの思考ルーチンなど細かいレベルでの、の意)そのものの性能を確かめるには、単に人(プロ棋士)とプログラムが「対局」するのではだめで、▼基準となる「リファレンス」のプログラムを、評価の観点別に数種類用意して、これらと各々のプログラムとを競わせるか(=ブラックボックスではあるが詳細なテストとして)、▼坂村氏が指摘しているように、プログラムと、同じプログラムに人が加勢した一種の「合議体」とを競わせて(人が疲れたら、いくらでも休んでよい、あるいは対戦中に「ロールバック」すらしてもよい=勝ち負けの判定が目的でなく、弱点の把握が目的であれば=いわばホワイトボックスなテストとして)、プログラム単体での性能や特性を調べる(人と比べる、そして人の特性も明らかにできる)、あるいは▼(まったくブラックボックスで簡易なテストとしては)プログラム同士の総当たり戦(勝ち抜き戦ではだめ)、ということになり…いえ、そうしかできないという話です。
※コンピューターでも将棋、あくまで将棋だと思われている方からすれば「そんなの将棋じゃない!!」といわれるでしょうが、そうですとも。もはや将棋では勝負のつかない競争を、将棋というフォーマット(ルールと盤面そして駒)だけを借りて繰り広げているわけです。まさに「博士の異常な将棋」と呼べましょう。
※坂村氏のおっしゃりたいことのもう一つの要点としては、プログラムの作者本人が思い入れやこだわり、いえ、先入観を持ってテストしているのではだめで、第三者にテストしてもらったり、互いにテストし合ったりしましょうよ(それが研究でしょ)、ということでもありましょう。
その結果、プログラムにおける「1位」は、確かにダントツの1位なんだろうと思いますが、2位から7位くらいまではストレートに順位が定まるとも限らず、「3すくみ」から「7すくみ」まで、あるいは「3すくみ」の一部に別の「3すくみ」が絡まったような、「あのね、とにかく『ぐるぐる!』ってしてループに…☆(略)」([3089])なっていそうでもあります。(あくまで想像です。)性能のテストや特性の評価としては、よくわからないまま順位をつけることよりも、仮にそうした「nすくみ」構造(プログラム間での得手不得手)があるのなら、それをきちんと検出できなくてはいけません。
なお、私自身は将棋のルールや楽しみ方についてはまったく知らず、講演などで聞いた話や、ウィキペディアを引いたりしながら「そういうものなのかなぁ」と想像してみることとしています。どんなに初心者でも、仮にも「将棋が指せる!」という人を、無条件にソンケイしております。あんな複雑なゲーム、よくできるなぁ、と驚嘆されます。
・Wikipedia「詰将棋」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A9%B0%E5%B0%86%E6%A3%8B
> 通常の指し将棋と目的が同じであるため、実戦的な詰将棋は指し将棋の終盤力の養成に大いに役立つ。詰将棋として独立した作品になると、升田幸三が「詰将棋の妙味はハッとする鮮やかさに尽きる」と述べているように、一般的な常識や価値観と異なる、捨て駒や、不利に思われる不成、利きの少ない限定打、などの意表をついた手筋や構想があり、それらを解く、もしくは創作することが楽しみとなる。
・同「ミクロコスモス(将棋)」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%B3%E3%82%B9%E3%83%A2%E3%82%B9_%28%E5%B0%86%E6%A3%8B%29
> 1525手詰であり、2015年現在、最長手数の詰将棋である。
> 1986年に発表され、同年の看寿賞長編部門を受賞した。
> 脊尾詰(せおづめ)はシェアウェアとして開発されているコンピュータ詰将棋解答ソフトである。1997年、脊尾詰でミクロコスモスを解き、同作が余詰が存在しない完全作であるという結論が導かれた。超長編詰将棋はコンピュータの処理能力を超えるとされていたが、最も長い手数の作品である「ミクロコスモス」を解いたことで、脊尾詰の評価が一気に高まった。
時代的に、1985年や1986年に「最長手数」を考えるにあたっては「マイコン」(現在のパソコン)を活用されたことと思います。その時代に、そうした「電脳っぽい」何かを楽しまれた世代にあっては、きっと、いま若い世代が「電王戦」をめぐって熱く語るというのを、ちょっとナマアタタカク見ているのではないでしょうか。(あくまで想像です。)
そして、ネット上で妙に「評価関数!」「評価関数!」と「連呼」されている感(その内容には全然ちっともまったく言及されないまま、いわばマジックワードとして使われている感)があって不思議だったのですが、なるほど、教科書に「評価関数」って書いてあるんですね(比ゆ的な意味で)。
・Wikipedia「評価関数」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E5%B0%86%E6%A3%8B#.E8.A9.95.E4.BE.A1.E9.96.A2.E6.95.B0
> かつては、手作業で評価関数が作られていたが、Bonanzaの開発者保木邦仁は将棋の初心者であり自分で設定できなかったため、機械学習によって評価関数を作成した。これによりこれまでの他のソフトが見落としていた(あるいは開発者が軽視していた)指し手に高い評価を与えることが可能となった。この「評価関数のパラメータの自動生成」は「ボナンザ・メソッド」と呼ばれ、コンピュータ将棋史上最大のブレイクスルーの一つと見なされている。
…うーん、史上最大の偏見ですが(恐縮です)、「視聴率100%男」などと呼んだ人たち(しかし大切な人たち)がかつていた([3046])のと同じように、これしきのこと(研究の上ではキホンです)を「ボナンザ・メソッド」などと称してしまう人たち(しかし大切な人たち)がいる(いた=2005年当時)ということ、なんでしょうか。そうだとすると、それまでのプログラマーが、いかに「将棋しか見ず」「将棋のことしか考えず」プログラムしていたかの裏返しといえましょう。
※将棋を鉄道と置き換えると…視野は常に広く持ちたいですね。
●将棋と確率、そして「9の数」を数える日 なかなか「元のセカイ」…いえ、「達人の本棚」に戻れなくて恐縮ですが、もう少し将棋の話です。
・「AI将棋」
http://game.e-frontier.co.jp/ai/shogi18/
> 思考ルーチンの優劣を競う大会
・Wikipedia「世界コンピュータ将棋選手権」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E5%B0%86%E6%A3%8B%E9%81%B8%E6%89%8B%E6%A8%A9
> 大会は1次予選、2次予選、決勝を3日間で行う。予選はスイス式トーナメントの手法で決められた組み合わせで各ソフトが一定の局数(1次予選は7局、2次予選は9局)をこなす形式、決勝は全ソフトによる総当り形式で行われる。
人と同じ方式で行なっているということですね。楽しむためのイベントとしては十分、楽しいでしょうが、これだけで「思考ルーチンの優劣を競う」とまでは到底、いえません(※)。勝っても負けても、それは偶然としかいえず、主に負ける方に何か弱点がある(絶対に勝てるという決め手があるわけではない=より弱点のあるほうが負けていく、とみなせます)と見れば、なぜ負けたのかが明らかになるような、一種エゲツナイ方法(ただし人ではできない)で競わせなければ、プログラムにとっては何かを試されたうちには入らないでしょう。
※商品の宣伝文句として使って大丈夫かどうかまでは判断いたしかねますが、かなり「くすんだグレー」なのではないかなぁ、と心配されます。もっとも、将棋ソフトのこうした部分(思考ルーチンの優劣)を気にするような「お客さま」としては、お客さまのほうが(雑誌なども通じて)詳しいかもしれないという背景もあって、ただちに何か不都合があるということはなく、いままでこのように宣伝されてきたのでしょう。
・「えげつない」
http://www.weblio.jp/content/%E3%81%88%E3%81%92%E3%81%A4%E3%81%AA%E3%81%84
> (1)度を過ごして露骨に表現するさま。露骨で,いやらしい。 「 − ・いことを言う」
> (2)やり方に思いやりや人情味がない。情け容赦もない。 「商売のやり方が−・い」 〔もと関西方言。昭和期にはいり,次第に一般に用いられるようになった〕
いま神妙に、(3)の語義をつくるとしますと、「いっさいの私情や先入観を挟まず,十分な回数の試行によって機械やプログラムの性能を詳細に明らかにすること。「−・い実験」」とでもなりましょうか。(1)と(2)の語義から明らかなように、これこそ人同士の対局や人とプログラムの「対局」ではできないことです。「あ、いま◎☆×しましたね? 何を考えてそうしたんです? あ、次は▽×○するんでしょ? え? 違うの? じゃあ、何?」などと、1手ごとに事細かに聞くなんて、人ではできません。それができる、というよりは、それをしないと「成長」できないコンピューター(のプログラム)は、ある意味(=1や2の意味で)、たいへんエゲツナクあります。
勝つほうにしても、どんなに弱そうな相手でも50000局、そして負けが5局までなら「0.9999」(99.99%)の確率で勝てるという形で「(確率的な)勝ち」とする、「フォーナイン」だのといって小数点以下の9の数を誇るような、そういう本当にエゲツナイ世界にしていかなければ、プログラム(や、その作者)のためになりません。本当でしょうか。
・角川つばさ文庫「1%」(2015年8月15日)
http://www.tsubasabunko.jp/special/sp1508-a.php
> 1%以下
> 1%くらいだよ〜
> 99%かなわない
> (小学中級から)
※「1%以下」といって、その実、小数を習わないうちは「1%」と「0%」の2値しかとりえないわけですね、わかります。それでも実際には「0%」から「1%」まで、無限になめらかな連続値の空間が広がっているわけです。ちょっと(かなり)「先取り」して、このうち、「1%」や、少なくとも「0%」でない値をとる確率はいくらで、「0%」を(ドンピシャで)とる確率はいくらでしょうか。…もっとも、そんなことをネチネチと(小学中級から)考えるようであれば、「リケジョ」になれそうですね、わかります。
●非常に大きな数の「名付け親」は9歳! 大きな数について、もう少し見てみましょう。
・Wikipedia「無限の猿定理」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E9%99%90%E3%81%AE%E7%8C%BF%E5%AE%9A%E7%90%86
> この「定理」は、巨大だが有限な数を想像することで無限に関する理論を扱うことの危険性、および無限を想像することによって巨大な数を扱うことの危険性について示唆を与える。
> 文章が含む文字の数が増えれば増えるほど、その文章が打たれる確率は指数関数的に減少し、そのような文字列が現れるのに必要な時間の期待値はとてつもない速度で上昇していくことにも注意しなければならない(指数関数時間を参照)。例えば仮に1秒間に10万文字打てるとしても、たった100文字の文章を登場させるのに要する時間は太陽の寿命の1無量大数倍の1000京倍にもなる。まして、猿が『ハムレット』一冊を打つのにかかる時間は途方もない長さである。このように、理論上は有限の時間で猿はどんな文章でも打てるが、そのために要する時間は想像を絶するほど大きなものである。
※「確率が低くてもがんばり続ければいつかはかなう」を「ただし想像を絶する苦労を要する」といって、一種たしなめているんですね、わかります。えー、そうはいっても何とかならないですかねぇ、といって京都大学の門をたたいてみます(比ゆ的な意味で)。
・「自由確率論での無限分解可能性」数理解析研究所講究録(2013年)
http://www.kurims.kyoto-u.ac.jp/~kyodo/kokyuroku/contents/pdf/1855-25.pdf
> 素粒子理論では,粒子が消滅したり,粒子同士が相互作用して別の粒子に変化したりと激しい変化が起こるが,このような変化を記述するために作用素の積を用いる.なぜ物理量を非可換にするのかという問いに答えるのは難しいが,とにかく作用素環論は量子論のために発展した分野である.
※京都大学だからといって、紀要論文ですと、「とにかくそういうのがあるんですよぉ(「ツッコミ」はナシの方向でお願いします)」的な記述があって、それでも、まあ、京都大学なので、そういうものかなぁ、と煙に巻かれてみます。
・修士論文「有限試行の無限回反復を実現する確率空間について」(2007年)
http://www.sci.hyogo-u.ac.jp/maths/master/h19/2007kuwabara.pdf
※ワー! 参考文献が6点しかなくてびっくりです。ますたー! …いえ、指導教員がこれでいいんだといえば、いいんです。
・Wikipedia「主観確率」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%BB%E8%A6%B3%E7%A2%BA%E7%8E%87
> 頻度について語るのが難しい対象、たとえば殺人事件の捜査で「A氏が犯人である」という確率を考える場合、A氏は犯人であるかないかのいずれかであり、そこには頻度は存在しない。しかし、こういう場合に確率という言葉がしばしば使われるのも確かである。
> 頻度主義の考え方では、過去の原因を仮定した上で現在の結果が現れる条件付き確率を考え、これを尤度、あるいはいろいろな原因を変数とする関数とみて尤度関数という(これは原因に関する確率ではない)。そして尤度の最も高い原因を事実と推定するわけである。
※「1%以下」って、これに似た話ですよねぇ。そして、(実際には何もしないまま数字だけを)いろいろ云々してみても、何かが逆転することは(少なくとも数字の上では)ないということです。他方で、数字なんて、そんなもの、ちょっとしたことで大きく変わるんだと、スガスガシクいいきってみたいです。
ところで、大きな数を、普段使わない「京」(いえ、そのうち日常的に使われるようになるのかもしれませんけれども)や、ひいては「無量大数」のような「単位」(ただし日本語の)を「どうだ大きいだろスゴイだろ」的な雰囲気とともに使うところが、どうにも(日本の)素人っぽく感じられます。
「210118」(2の10乗の118乗)といった簡素な記法で「ワー! 大きい」と云々するのが、(グローバルに)本職の方々の日常であるようです。そして、これは、指数表記や指数関数の特徴(少し数字を大きくしただけでベラボウに大きな値となる、という視覚的なイメージ)さえ学べば、割と容易に誰でも「ワー! 大きい」と感じることができる上、それでもなお「飽和」してしまうことなく、例えば「210118」と「21096」あたりを比べるといった文脈も破綻しない(素人でも、値の比がどのくらいの「コントラストのようなもの」なのか、おぼろげに想像できる)という面で、たいへん実用的です。
新聞の科学面では、それなりに指数で書かれます(しかし指数表記はできないので「2の10乗のn乗」と平たく書くわけではありますが)。日本語版ウィキペディアとしても、そうしたところはひそみにならっていくとよいのかもしれません。
・Wikipedia「グーゴルプレックスプレックス」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%BC%E3%82%B4%E3%83%AB%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9
> グーゴルは1920年に誕生したもので、アメリカの数学者エドワード・カスナーの当時9歳の甥ミルトン・シロッタ (Milton Sirotta) による造語である。
単位の名前なんて、そんなもの、「ランダムな鉛筆」…いえ、9歳のお人に「ご託宣」いただいても何ら支障ないのです、ただの名前なんですから。
いま、語感そのままに和訳をココロミるとしますと「ガコッ! の、ノリっ! の、ノリィ!」(べき乗→ノリ)のようなもの(「plexplex」の発音を舌がヨロコブ感じを日本語にすれば「ののりーののりー」くらいではないかと思います)で、「ぐるぐる!」ってして「どっかーん☆」([3089])を笑えなくなってきますでしょ、といいながら楽しく笑ってみたくございます。
※小難しい顔をしていては、研究なんてできませんてば。
・Googleで「googol」を検索
http://www.google.co.jp/search?q=googol
いまから9歳には戻られません。それでも9歳だったら迷わず即決できたり、9歳だったら妥協せず追究できたり、9歳だったら…と、標準9歳(自分が9歳のとき、というよりは抽象的な、仮想の9歳)の発想や思考を一種シミュレートしてみることは、先入観(思い込み)を取り除くために役立つかもしれませんし、役立たないかもしれません。
●人に「還流」そして「環流」できる研究を コンピューターを存分に使った「将棋の研究」とは、どういうものでしょうか。
・1. 局面や指し手の網羅的なモデル化
・2. 「アマ三段らしさ」「名人らしさ」といった、人(個人)に依存しない「強さ」の解明(強くなるステップ=「単元」の明確化や定量化)
・3. 「H王位らしさ」「W棋王らしさ」「N六段らしさ」「S女流名人らしさ」の解明
1.では、本当に「ぜんぶ」くまなく、勝負のためでなく、将棋そのもののため、将棋界のため、将棋を楽しむ人すべてのために、代理で「ぜんぶやってみた(完)」を目指すことが期待されます。どこまでを含めて「ぜんぶ」とするのか、広く合意されるところから、まずは目指されるのではないでしょうか。
2.では、翻って、人の将棋における段位認定の透明化や厳格化に資することができましょう。ここでは、トップクラスの棋士だけでなく、多くの「普通の人」の棋譜がモノを言います。いわゆる「ビッグデータ」ですね、わかります。既にオンライン対局のサービスを運営している会社に大量のログがありましょうし、万一、「ログなんて取ってないよ!」ということであれば、大急ぎで取り始めなくてはなりません。そして、研究を始めようとする人に対して、誰にでも一定の条件でログ(対局の時刻や利用者の属性に関するデータも含め)一式が貸し出されなければなりません。(ログを提供する側が、研究の「パートナー」を一種「選り好み」してはなりません:そんなことが適切にできるほどの高度な知見が御社にありますか? と問われます。)
3.では、コンピューターを使って仮想的に「H王位」と対局できる(した気になれる)、単に棋譜をなぞるのではないのに、そこに確かに「H王位」がいるかのように感じられる(…いえ、それを感じ取るには一種「高度な利用者」でなければなりませんけれども)、そういう「“新次元”の将棋ソフト」のようなものの開発に資することができましょう。また、性別による違いがどのくらいあるのか、それは指導法によるものなのか、生来的なものなのかといったことも解明されたくあります。プロの対局で性別が問われなくなることはないとしても、入門者ごとの最適な指導法が実は性別や年齢ではなく別の方法で簡易しかも正確に判定できるとか、オンラインでのブラインド(顔や性別を隠しての)対局に何か配慮が必要なのか、そんなものは要らないのか、といったことなどが、しっかりとしたエビデンスをともなって講じられるようにしていけると考えられます。
いわば、将棋というものを「まるっと」解き明かす(メカニズムをすべて解明する)ような研究といえます。その結果、人の将棋もさらに活況を呈し、あるいは「(差し)将棋」「詰将棋」とも異なる、何か新しい遊び方が「発明」されていくことにも資するかもしれません。
●「AI元年」「人工知能元年」はいつ? 将棋や確率、非常に大きな数についてはともかくとしまして、「AI」「人工知能」に戻りましょう。
・個人のブログ「グーグルの頭脳流出 →新時代の幕開け →AI元年」(2009年9月6日)
http://blog.goo.ne.jp/goopikachu/e/d401fa64d7684f960bcd85ee6f07b23f
> もしこれで優勝でもしようものなら、「AI元年」とかいうふうになって
残念! まだ「AI元年」と呼ばれたわけではありませんでした。
・はてな(2011年12月4日)
http://b.hatena.ne.jp/entry/70250393/comment/hitodie
> いよいよAI元年かもしれないSiri使って未来を体験したい。
うーん、いまさらSiriくらいでは「元年呼ばわり」されないような、それはそれでスバラシイ…いえ、空恐ろしくもある普及ぶりですね、わかります。
「人工知能元年」については、2015年をそう呼びたがっている、ちょっと気の早そうな人たちの私見は披露されていますが、確たるものはまだ出ていないようです。もっとも、自動運転車が市販されて公道をドカドカ走り回るまでは「元年」とは呼びがたく思います。(見解は個人です。)そして、その時のために言葉を温存しておかないと、その時にヨロコビやオドロキを発露するための言葉がなくなってしまいます。
・ギズモぎっず「グーグルの自動運転車に人間が運転する車がどんどん衝突しているようです」(2015年7月21日)
http://www.gizmodo.jp/2015/07/google_125.html
> グーグルの自動運転車はテスト走行を始めて以来、十数件の事故に巻き込まれています。しかしグーグルの車が原因であるケースは一つもないとのこと。グーグルのクリス・アームソンはこの事故をうけて、いかに一般人の運転する車がミスを犯しやすいか、そしてそれと比較していかにグーグルの車が信頼できるかを語っています。
> 誰がどう考えてもあと数十年は自動走行車は人間が運転する車と一緒に道路を走らないといけないですよね。なので人間の犯すミスをセールスポイントにするよりは、グーグルの車がそのミスにどう対応するのか、を説明してくれた方が有難いなーと思います。
「誰がどう考えても」というのが、とってもエレガントですね。ある時期に、期限を区切って公道での手動運転を全面的に禁じるくらいでなければ、自動運転車の普及の最終段階に近づくにつれ、残っているのは高齢者の「手動運転車」や、自分の運転能力を過信したドライバーばかり、となりかねません。そして、「無人運転車」(無人で「回送」できる)や「全自動運転車」(免許不要で子どもが一人でも乗れる)こそが待たれます。そして、蒸気機関車にATSを付けよう的な意味で、せっかくのレトロな愛車に自動運転装置をつけないといけないといって嘆かれるんですね、わかります。
・蒸気機関車にATS、旧型客車に自動ドア
http://www2e.biglobe.ne.jp/~alf/railway/report/el_retro_usui/index.htm
> しばらくして牽引機であるEF64 1001号機の汽笛が鳴ると、最後尾に連結されているC61 20号機も汽笛を鳴らして出発した。この後も、C61 20号機は随所でパフォーマンスとして(運行上必要が無い)汽笛を鳴らしていた。快速「ELレトロ碓氷」でもSL列車の雰囲気が味わえる。
※足元もそれなりにロングレールでしょうし、いまさら「雰囲気」を超えて、いったい何を味わおうというのでしょうか。顔が「真っ黒!」でしょうか…それって「味わう」ものなんでしょうか。翻って、これでいいんだと納得されましょう。
運転手が軒並み失業するかといえば、そうしないように制度設計をするのが、しかるべき人たちの仕事です。具体的には、「無人運転車」や「全自動運転車」が認められない期間(≒「手動運転車」と併存する期間)にあって、遠隔で運転を請け負う「コールセンター」的な業務で、これまでの有資格者が「延命」されましょう。他方で、運転免許の新規取得を終了していくようなことも求められます。「運転免許終了のお知らせ」ですね、わかります。未来がないのに未来を夢見させては、いけないのです。
※ほとんど同じことが鉄道についてもいえましょう。
●実務でも「計算結果は寝て待て」 (大学や高専などの)研究室では、メロンパンでもあんパンでもいいんですけれども、そうはいっていられない実務の現場では、いま、どのくらいの時間をかけて、どのくらいの計算をしているのでしょうか。
・日経コンストラクション「鉄道500kmの地震被害を1度に予測」(2015年8月11日)
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO90402160R10C15A8000000/?uda=DGXZZO0630724025042010000000
> 鉄道総合技術研究所は、長大な鉄道構造物の巨大地震による被害を予測する「鉄道地震災害シミュレーター」を開発した。新幹線の路線といった数百キロメートルにわたる構造物や地盤を対象に、1度に震動解析することが可能になった。
> 開発したシミュレーターでは、三つの段階を踏んで予測する。
> 第1段階では、地震波が地中をどのように伝播するのかを予測。そのために、今後の想定地震と既往地震の断層位置や規模といった情報が必要になる。
> 第2段階では、予測した地震波を使い、地盤の厚さ、強度などの地盤情報を基に、地表面の揺れの程度を解析。
> そして最後に高架橋などの構造物の諸元と地表面の揺れから、構造物の被害を予測する。
> 各フェーズの解析時間は規模によって異なるものの、おおむね1日程度で完了する。例えば、地震動の予測では、スーパーコンピューターを使えば、M(マグニチュード)7級では約3時間、M9級では1日程度で、それぞれ伝播経路などを解析する。
> 鉄道延長500km、高架橋5000基程度を三次元FEMモデルで詳細に解析した場合、スーパーコンピューターを使用すれば構造物の被害状況予測は1日程度で完了する。
> シミュレーションの検証結果によると、地震動については震度階級で±1程度の誤差で、過去の地震動を表現できた。構造物の被害予測についてもおおむね再現できることを確認している。
鉄道総研(JR総研、RTRI)の方が「徹夜」するのかはわかりませんが、事実上、「寝て待つ」くらいには、やはり時間がかかるんですね。もっとも、もっと短い時間で終わるような計算なら、鉄道総研な案件にはならず、事業者が自分でできてしまうということもありましょう。鉄道総研としてもやはり、いつの時代にも同じくらいの難しさ(≒計算時間)の計算に取り組んでいる、それは当分、変わらないことだ、ということなのでしょうか。
傍題ですが、「開発」とはいっても、一つ一つのモデル化手法や計算方法は、過去(それなりに古い:2〜3年くらい以上)どこかで発表されているものではないかと見受けられます。そうしたものを集めてきて、実地に展開できるよう整えるというのが、この研究所としてのミッションだということですね。とっても大事です。
こうしたことが、きちんと説明するとちょっと恥ずかしい(よそより低く見られそう、と心配される?)という何かもあるのかもしれませんが、いえいえ、よほど最先端の業界でない限り、どこの業界でも同じようなものではないでしょうか、たぶん。
●みんなより先に、みんなを代表して「知る」「わかる」そして「伝える」 ここで初めて「達人の本棚」の本文を読んでみます。
※恐縮です。
> こういう話を聞いていると、インタビューの相手が数学者であることを一瞬忘れてしまう。社会学者や経済学者でもおかしくないではないか。しかも、数学者である新井は大学に入るまで算数・数学が大嫌いで、一橋大学法学部合格が決まった時、自宅の庭で数学の教科書を焼いてしまったというエピソードの持ち主なのだ。
> メディア局編集部 小川祐二朗
いま、新聞社の「メディア局」(※)というのは、ある意味で最前線とも矢面とも花形ともつかない何かになりつつありましょう。テクノロジーの話題も多く、新聞社の中では科学部に準じて研究の話に明るい、あるいは科学部との間で異動もあるだろうと期待されます。政治や外報ばかりでそのまま偉くなった人に、社説で人工知能を云々いただいたら、惨憺たる結果になりそうですし(いきなり「古代ギリシャ」が引用されかねません[3041])、そもそも人工知能を取り上げようという話にすら(枠が限られ、その中では相対的に重みが低くあるということも相まって)、なかなかならないだろうとみられます。
※「新聞」は「メディア」に含まれないんだということですね、わかります。
・文部科学省「我が国における学術研究の動向について(中間まとめ)(要旨) 9 総合・複合新領域分野の研究動向(要旨)」(2007年1月)
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/siryo/attach/1337420.htm
「総合・複合新領域」としかいわれようのないテーマで取り組まれる研究者の紹介として、なおあくまで「○○学者」と予めもって断じようというのは、ドダイ、無理のある話です。
はっきりとは分かれていないものを見極めて分けることに貢献していくのが科学(分ける、の意)で、それに取り組むのが研究者です。既に分かれきった(「わかりきった」とも)ものを掲げて「○○学者」と呼ぼうという発想自体が、実情に即しておらず(先入観なく観察しようという姿勢に欠け)、科学史や研究コミュニティの成り立ちも理解していないことを示すものです。
「総合・複合新領域」は分かれていないではないかと…いえいえ、「総合・複合新領域」としても(未来永劫)分けないということではなく、将来やがては分かれていく予感があるが、いまはまだ分かれていないものを、どうやって分けると「おいしい」かを寄り集まって云々する、という立場であります。ちょっとだけ「先取り」するということですね、わかります。
研究者としては、まず、自分が「普通の人」であるとする見かた、そして、確かに「普通の人」とはいいきれない、一種飛び出した部分で仕事をしているかもしれないけれども、それは自分がスゴイということではなく、あくまで「普通の人」としての「みんな」に代わって(代表して)、あるいは先に(率先して)、「みんな」ができない(やらない)ことをしよう、知らないことを知ろう、わからないことをわかろう(未知の問題を解こう)とがんばるのだということなのだという理解があれば、その成果(狭くは研究成果、ただしこれに限らず)を「みんな」と分かち合おう、そして「みんな」と一緒に喜ぼう(社会や生活がよくなるとか、楽しくなるといった面で)というのが、基本的な何かであります(といわれます)。…と、要は「アウトリーチ活動をせよ(しないと何かが削られる)」ということです。
・文部科学省「資料3‐5 アウトリーチの活動の推進について」(2005年6月7日)
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/008/siryo/attach/1342833.htm
※こんなところでしゃべっていないで研究すればいいじゃないか、という方もいらっしゃるでしょうが、いえいえいえ、あらゐセンセイ…いえ、新井センセイがたくさんしゃべってくださる、いわば「人工知能研究の『顔』」役を引き受けてくださることで、研究に専念できる人がたくさん出る(わずらわしい取材がやってこない)という「効果」があるわけです。これ、とっても大事なことだと思います。いえ、アウトリーチ活動としても大事というのはもちろんです。
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