・(ここに見出しが入ります) ・分けすぎずに細かく分ける ・「AI」と「人工知能」の違い ・「博士の異常な将棋」そして「名人のおやつ」 ・将棋と確率、そして「9の数」を数える日 ・非常に大きな数の「名付け親」は9歳! ・人に「還流」そして「環流」できる研究を ・「AI元年」「人工知能元年」はいつ? ・実務でも「計算結果は寝て待て」 ・みんなより先に、みんなを代表して「知る」「わかる」そして「伝える」 ・表1 業務の分類(仮)
(約26000字)
何の話かよくわからなくありますが、一応は研究の話、そしてモデル化の話だと思います、たぶん。
・読売新聞「人工知能で東大合格をめざす 新井紀子さん(52)」(2015年8月13日)
http://www.yomiuri.co.jp/life/special/tatsujin/20150810-OYT8T50010.html?page_no=1
http://www.yomiuri.co.jp/life/special/tatsujin/20150810-OYT8T50010.html?page_no=2
http://www.yomiuri.co.jp/life/special/tatsujin/20150810-OYT8T50010.html?page_no=3
http://www.yomiuri.co.jp/life/special/tatsujin/20150810-OYT8T50010.html?page_no=4
「(52)」…いえ、業績でも科研費でも年齢は(オオヤケには)載せずとも通るのではなかったかと思いますが、「年齢非公表」(あるいは「17歳などと称する『設定』」など)を許される芸能人や作家などの扱いでなく、あくまで「普通の人」扱いですね、わかります。▼新しい小惑星を発見したアマチュア天文家や▼「最長片道切符」で全国のJR線(一部の3セクを含む)を「完乗」した鉄道ファン、それに▼おもちゃメーカーを定年退職後におもちゃの修理をてがける「おもちゃドクター」などと同じ扱い(あくまで紙面の上で)というわけです。研究の話で社会的な話なのに「人もの記事」に仕立て上げてしまう(その限りにおいては新聞としての所定のフォーマット=いわゆる「テンプレート」=に従って、なかば自動的に「(52)」と記される)のは、とりあえずそこにしか「受け入れ枠」のようなものがなかったということの裏返しですね、わかります。既存の「枠」をフル活用して受け入れよう(難しい話だけれども、なんとか紙面に載せよう)と奮闘されたということで、スバラシク見受けられます。本当でしょうか。
●(ここに見出しが入ります) この連載は8月10日から始まっていたものでした。
・読売新聞「人工知能で東大合格をめざす 新井紀子さん(52)(5)」(2015年8月14日)
・読売新聞「人工知能で東大合格をめざす 新井紀子さん(52)(4)」(2015年8月13日)
・読売新聞「人工知能で東大合格をめざす 新井紀子さん(52)(3)」(2015年8月12日)
・読売新聞「人工知能で東大合格をめざす 新井紀子さん(52)(2)」(2015年8月11日)
・読売新聞「人工知能で東大合格をめざす 新井紀子さん(52)(1)」(2015年8月10日)
(URLは省略)
「副題(サブタイトル)がなくて内容がわかりにくい」([3094])ですねぇ。そして、このコーナー「達人の本棚」では、「(前編)」「(後編)」の2回でまとめられる人と、さらに「(中編)」も入れて3回の人、そして「新井紀子さん(52)」のように52回、いえ、5回にも及ぶ人まで、いろいろだとわかります。無理に所定の枚数(ただし原稿用紙でいう)で打ち切ろうとしてモーレツに無理なまとめ方をするでなく、きちんとテーマや人に応じて枠が伸び縮みするというのは、合理的ですね。
※そして、「全4回」(月〜木の18時台「首都圏」[3086])とか「全7回」といった回数では半端だと、素朴にも感じられましょう。「全10回」にもなると、あとちょっと(「全13回」)で授業になってしまいます。ウンザリです。「全5回」までが限度ですよねぇ。注意の持続できる時間や、受容できる情報(内容)の量や複雑さには、限度があります。それを超えて「流し込み」がなされても、文字通り、どこかに流れて行ってしまって、受け止めてもらえません。
※例え興味があって、意欲満々で授業に臨んだとしても、それでも無情にも限度というものは自動的に発動するもので、端的には「うーん、もう食べられないよ」と、「情報の満腹感」のようなものが知覚されるわけです。振り替えなどで2コマ連続だなんて、とんでもない! 授業で聞いた話は、きちんと一週間かけて「反すう」そして「定着」されることが(大学設置基準など法令の上で)期待されています。授業中でなく、授業が終わってから次週の同じ授業までに7回、睡眠をとらなければならないのです。
・「もう食べられないよ」のタイムライン(2015年5月22日)
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13145836493;_ylt=A2RAjLRGnc5VQ3IAfYmg_PN7?pos=1&ccode=ofv
・「I can't eat anymore?」(2006年2月16日〜)
http://www.animenewsnetwork.com/bbs/phpBB2/viewtopic.php?t=21670&highlight=eat
「達人の本棚」の命名ルール、いえ、見出しの付けかたとしては、ここまで複雑な人をご紹介することまでは想定されておらず、副題をつけることが(連載の開始前に)考えられていなかった、ということなのでしょう。
いま、(連載の途中で方針を変えられず=端的には「ホームページ屋さん」に追加の仕事=長い見出しに対応するようレイアウトなどを修正させる=は、させられず)しかたなく単一の見出しで全5回をまかなうとして、しかし、言葉足らずに感じます。「新井紀子さん(52)」が、いわゆる「『50の手習い』」で東大を目指す(本人が合格を目指す)ように読めてしまいます。「東大合格レベルの人工知能の実現を目指す」が最も正確で、端折るとしても「『東大に受かる』人工知能目指す」(「受かる」が通俗的な表現ですから「当事者はそう称している」とする引用の形で)くらいではないでしょうか。=記号は含まず13字。あくまで「人もの記事」としてのやわらかさがほしいといえば「『東大に受かるAI』を研究する 新井紀子さん(52)」(同じく13字)でしょうか。こうすれば「AI」を知らなくても、何か「受かる」ために使う道具で、それを研究しているんだな、と、一種「予約語」のようなものだけをつかって平易に理解することができます。
・個人のブログ「予約語」(2014年2月21日)
http://tht.sblo.jp/article/87999049.html
●分けすぎずに細かく分ける そもそも、「愛読書」「『座右の一冊』」などと称して、狭く深くという形で専門性を持つ人と、全5回にもわたって、しかも多数の本を挙げる人とでは、一口に「達人」といっても、専門性のありようが異なります。
広く浅いというのも専門性であって、専門性がないということではないんだということですが、このことはまだ、広く認められているとまではいえません。それが専門だなんて、わかりにくいんです。もっとも、字面の上では「ある一つの『門』を「専ら」とする」のではない以上、「専門性のようなもの」とはいっても「専門性」といいきることは、これまたハバカラレルことです。
これまたおかしな意味まで付いてくる「一般職」(古い意味で「書類を作成」したり「お茶」をくんだりする、の意)が過去の言葉として一度、すっかり忘れられた後に、ようやく「一般性」(職業人のありようを客観的に述べるための用語として「スペシャリスト」と対等に対置される「ゼネラリスト」が持つ特性として)という言葉に新しい意味やニュアンスを持たせていく(「もてる『一般性』をいかんなく発揮いただく」「職務の遂行に特化された能力は「専門性」と『一般性』に大別される」など)といった形で「決着」していくのではないかなぁ、と(仮に)見ることができましょう。本当でしょうか。
・スペシャリストとゼネラリスト
http://logmi.jp/4553
※職種が自分と違う人を卑下してはいけませんし、人と違うからといって自分を卑下してもいけません。違うのはあたりまえで、お互いに、自分の得意なことを活かし、自分ではできないことは他人に任せて、世の中「回って」いるのです。
・「ホワイトカラー」
http://kotobank.jp/word/%E3%83%9B%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%88%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%BC-134901
> 産業構造の変化によりサービス産業の比重が大きくなってきたために、製造業を中心とした概念による区分(ホワイトカラー・ブルーカラー)で捉えきれない様々な業務に携わる機会が多くなってきており、一般にホワイトカラーの範囲も曖昧になってきている。
■表1 業務の分類(仮) | ←ノンホワイト(C) | 中間的(N) | ホワイト(W)→ | ↑ゼネラリスト(G) | CG | NG | WG | 中間的(N) | CN | NN | WN | ↓スペシャリスト(S) | CS | NS | WS |
もともとの定義(ミルズ:C.W.Mills)では、狭くは「高等教育を受けているか」で分けられる(が、それに限らない、一種「ファジー」な分類を意図して=ミルズが意図したということですよねぇ)▼「カラー(collar:襟の色)」を横軸に、▼技能の指向性のようなもの(狭いか広いか)を縦軸にとり、それぞれ3値(中立を考える)で扱うと、9種類に分類されます。
・{C, N, W}{S, N, G} → CS, CN, CG, NS, NN, NG, WS, WN, WG
さらに、平面では表現できませんが、▼「マニュアルに従う度合い(責任の重さ)」(従うだけ:M、自律的:A)、▼「業務の公共性・公益性のようなもの」(娯楽的・嗜好的:E、公共的:P)など、いろいろな軸を導入できましょう。(ただし、賃金や社会的地位など、労働の「結果」であるものは含めません。)4軸3値であれば、34=81で、81通りに分類されます。
・{C, N, W}{S, N, G}{M, N, A}{E, N, P} → CSME, CSMN, ..., WGAP
こうした考え方で大事なのは、「**(4軸にあっては****)に分類される職業なんてないだろうから、分類自体、しなくていいや」とは考えず、機械的に「マス目」だけは用意するということです。確かに「いま」はなくても、将来、大きな変化があれば、「変な分類」に分類される「変な職業」が出てこないとも限りませんし、いかなる職業が出てくれば「変な分類」のマスが埋まるか本気で考えるというのも、研究の一つになりえます。
・個人のブログ「電子マネーをいかに定義すれば通貨偽造罪に問えるか」(2007年1月25日)
http://tht.sblo.jp/article/3168263.html
また、分類が難しいものがあるというのは自然なことで、最初から「どちらともいえない」にあたる中立の値を選べるようにしておく、一種「ファジー」そして「ファジー(笑)」([2995],[2996])な扱いをすることも大事です…が、忘れて2値でウンウンと…そして分類結果や学習結果が惨憺たるものとなり(特に連鎖的に=前段の結果を後段で使うようなもので大幅におかしくなり)、しかも、そうなったことにすら気づかれない、ということもありましょう。(想像ですが実感です。)
※「カラー」といっても、その実、「くすんだブルー(優れた熟練工)」もいれば「くすんだホワイト(判で押したような簡単なお仕事…いえ、本当に判を押すだけのような管理職)」もいるわけです。明らかに「ホワイト」である場合だけ「W」とし、よくわからないものは「N」とする、そうした、適切に「にげる」(後述)判断も入れておかないと、例えば「くすんだホワイト」を「W」に入れたために、「Wらしさ」を決める基準のようなものが下へ引っ張られる(いえいえ、「足を引っ張る」とまでは申しません、メッソウもございません)ようなことも生じえます。
●「AI」と「人工知能」の違い 余談ですが、「50,000回のサンプリング」と「m=50000」が同じことであっても受け止められ方がまるで違う([3097])というのと似ていて、いま、「AI」と「人工知能」が同じものであるとは、必ずしも受け止められていないかと思います。
…何のことやらわからん説明を尽くせケシカラン、といわれます。いいでしょう、「丁寧に説明」しようではありませんか(※)。前者は「AI将棋」や、古くは「ガンガンいこうぜ」のソレ、そして、後者だけが「この前、社長が言ってたヤツ」「日経によく出てくるアレ」などと…本当でしょうか。あるいは「来年のAI」といって「(来年の)人工知能学会の全国大会」を指すんですね、わかります。
※…などと、「丁寧に説明」って、ムダにエラそうですよねぇ。
・東洋経済オンライン「丁寧に説明すればわかってくれる、という誤解」(2013年10月7日)
http://toyokeizai.net/articles/-/20533
・人工知能学会「大会終了のお知らせ」
http://www.ai-gakkai.or.jp/jsai2015/archives/768
※「人工知能学会終了のお知らせ」ではありません、念のため([3071])。そして「1200名!」は、いかにも「みんなで人工知能を囲む会」(そして「みんなでプロ棋士を囲む会」?)に成り果てた観(人数ばかりが膨れ上がり、そして研究テーマやアプローチの多様性が損なわれていく※※=そうでないと人数は増えない)があり、端的に多すぎると感じます。そのうち、自然と分割のプロセスが発動していく(物理法則に従うという意味で=大きくなりすぎてもろくなったものは自然に崩れ、あるいはエネルギーが高まりすぎたなら飛び散ります=どちらにしても細かく分かれます)んではないでしょうか。(感想は個人です。)あるいは、先進的な人たちはこっそり「卒業」していて、別のところで最先端のコミュニティ(ただし国内に限る)をつくっているんではないでしょうか。(あくまで憶測です。)こうしたことは「活況の証」ともいえますから、それ自体は「いいこと」とも「わるいこと」ともいえません。
※※これから参加しよう投稿しよう発表しようという立場(主に学生)にあって、同じ会議の過去数年分の予稿集はぜんぶ目を通してあたりまえ、と(指導教員が)するのが標準的だろうと思います。(それを課されないなら、それでもご自身でなさってください。)この時、あまりにも発表件数が多くては、頭に入りきらず、あるいは最初から「ぜんぶ」は |