・「メタ目次」と学研式目次の対応 ・「高度知識創出型社会」の入口としての自由研究そして口頭試問 ・「盛りタイトル」のススメ!? ・「90歳ヒアリング」 ・ネットワーク(グラフ理論)
(約8000字)
・[3091]
> ※なお、学研のサイトにも自由研究のまとめかたのページがありますが、とりあえずは見ないまま本稿を(後編まで)書いた後、あとから照らし合わせて見ることとします。
というわけで、もう少し学研のページ([3091],[3093])を見てみます。そして、照らし合わせてみます。
★「メタ目次」と学研式目次の対応
・学研キッズネット「自由研究の進め方」
http://kids.gakken.co.jp/jiyuu/howto/
> 条件を変えて結果を比(くら)べる実験では、変える条件は1つだけにすること。
> 例えば、「氷のとけ方比べ」なら、「そのままの氷」と「紙でつつんだ氷」のように、変える条件を1つだけにして比べるとよい。氷の大きさや氷を置く器、室温など、ほかの条件が変わってしまうと、正しく比べることができない。いろいろな条件で実験したい場合でも、条件は1つずつ変えていこう。
実験の項目を1つに絞れということ…に近いことも、ちゃんと書いてありました。さすが学研ですね。ほかに、研究上の不正を防ぐべく、研究倫理の入門的なこともきちんと書いてあって、(学研というよりは時代や社会が)さすが、という印象を持ちました。
※欲をいえば、条件の変え方、その総量規制…いえ、自分の遂行能力を超えた計画を立てたり、計画から逸脱してひたすら「おもしろい実験」のみに「まい進」して「時間切れ」に陥るようなことは防ぐことが望まれ、上限を先に考えておくということも、あらかじめ言ってもいいのではないでしょうか。それとも、そこで苦労するのも体験のうちなんでしょうか。「ゆかた姿」…でなく、「割烹着姿」のソレの直接のはじまりは、そうしたところから偶発的に起きたものであったのかもしれません。
※動物(昆虫を含む)の標本作成や、人を相手にアンケートやインタビューをするにも、これからは倫理審査を、自由研究でも義務化しましょう、ということになったりもするのでしょうか。なったほうが勉強になると思いますが、「倫理委員会」はどこに設置すれば波風が立たないで済むんでしょうかねぇ。
全体的にたいへん詳しく、具体的なことがすべてきちんと書いてあり、自由研究に(一種お行儀よく:こんなものだと思って)取り組む限りにおいては特に困ることはないと思うのですが、しかし、子どもが自分で読むと、ただの「ハウツー」としてしか受け取れず、適切な指導が実地で必要なように思えます。
つまり、書いてあることを書いてある通りになぞる限りは手助けが不要でありながら、ちょっとでも書いてあることと違うことが必要になると、いきなり「お手上げ」ということが、子どもには(子どもに限らず「ハウツー」を頼りにする初歩的な段階での活動では大人でも)よくあることでしょう。
「まとめ方」については、以下のように項目が立てられています。
> 1.研究のきっかけ どうして調べようと思ったのかを書く。
> 2.調べたいこと 実験で何を調べたいのかを書く。
> 3.予想 どんな結果になるか先に考えてみる。
> 4.用意したもの 実験に使った道具や材料を書く。
> 5.実験の方法 どのように調べたかを書く。
> 6.実験の結果 どのような結果が出たのかを書く。
> 7.わかったこと・反省したこと 結果からわかったことや考えを書く。
> 8.参考にしたもの 参考にした本などがあれば、題名と出版社名(しゅっぱんしゃめい)を書く。
著者名と出版年は書かなくていいんですね、わかります。そして、ちょっと細かいですね。前述の「メタ目次」([3093])との対応は以下の通りです。
・1. 背景:学研の1(論文であれば学研の2,3もここに)
・2. 先行研究:学研の8(ただし先行研究を調べるという意識づけが明示的でない)
・3. 実験:学研の2,3,4,5,6
・4. 考察:学研の7
・5. まとめ:論文であれば学研の2,3,5,6,7を繰り返すがポスターなので省略
学研の説明でも一応は過不足なく、必要なことがすべて挙げられてはいますが、なぜそれを書くのか、という最もキホンの部分が、ちょっと(かなり)弱いようにも見受けられます。また、項目が細分化されつつ、並び順も論文での構成をあまり意識していないように見受けられ、全体の構成が把握しづらくなっています。
さらに、最も困る(ただちに困らなくても、将来、困ると見込まれる)のは、「まとめ方」までが律儀に4つのジャンルに分けられていることです。
「科学実験」の「まとめ方」は上掲の通りで、まさに理系のポスター発表そのまま、このままSSHを目指せるレベル(※、[3071]も参照)だといえます。それなのに、ほかのジャンルのまとめ方になったとたん、スケッチブックや日記、クリアファイルなどを使うべしとなってしまい、子どもにとって、研究のキホンとなる内容の構成(前述の「メタ目次」)よりも、表面的な見栄え(ブック形式にあってはページ数=見た目の厚み、そして貫禄のようなもの)にばかり関心が向いてしまいかねません。(=「見て見て! これだけがんばったよ!」状態、ともいえましょう。そのまま大人になったとしたら「550ページ」の「論文」を書いてしまうかもしれません。それでは研究ではないんです。)
※SSHって、何歳・何年生から「目指す」ことを決めるものなんでしょうか。実感はなく恐縮ですが、早すぎず遅すぎず「目指す」と決めないと目指せない、そして目指したからといって叶うとも限らない難しさがあるように見受けられるとともに、(学校として)SSHでなくても(先進的な生徒が個別に)SSHに準じた教育が受けられるような救済策のようなものがほしいと願われます。SSHな学校に合格できるかどうかと、SSHな教育への適性があるかは、必ずしも両立しないことがままあるのではないかと思います。学校は学校、SSH(な教育)はSSHで、それぞれ試験があるというのが理想ではないでしょうか。学校単位で「輪切り」にされるなんて、まっぴらです。(主観的で恐縮ですが主観は個人です。)
その昔にあったHTMLとCSSの使い分けの議論のような、そんな話がいま、自由研究の上でも繰り返されるのかと思うと、ちょっと不びんに思えます。内容によらず研究のまとめ方は同じ、というところを、もはや形式的に貫徹しないと、いつまでも「文系」(スケッチブック→あわよくば本として出版、という流れ、あるいは文書化された知識よりも「暗黙知」に重きを置く→論文より講演でひっぱりだこ)と「理系」、あるいは「産業論文」(最も低くは、日記や標本をまとめただけ、工夫した点を述べただけ=あくまで極端な例ですが、そもそもきちんと書けるなら「産業論文」などという一種「格下の投稿枠」は必要ないはずです=いつかは「卒業」したいカリソメの何か、ということですね、わかります)のようなところでのミゾは、埋まっていかないと感じます。
※傍題ですが、こうした点で、大学では主に文系において「改善」が迫られるのは当然です。文系の学部や研究科がなくていいということでは決してなく、本当に「改善」をしなければ、そもそも続けていけない(交付金云々とは関係なく、研究の質が下がるところまで下がった挙げ句、閾値を下回れば自然消滅しかねない)ということだと感じます。(私が実感できる範囲に限っては、カナシイことに本当です、たぶん。)
★「高度知識創出型社会」の入口としての自由研究そして口頭試問
一方、昔はなかった「発表」の部分がきちんと触れられており、現場のようすまでは知りませんが、いまどきは自由研究でも発表会をするのがあたりまえなのかな、と、頼もしくそしてうらやましく、苦手な子どもは(本人としては)たいへん苦労しそうだなぁ、とも思います。
事実上、一種の口頭試問でもあり、代作であれば見破られます。(仮に代作であっても、口頭試問を突破できるほどに読み込んでいるとなれば、それはそれで、がんばったということでもあるのかもしれません。人の代理で発表することは、場合によってはあるでしょう。一概には何とも言えません。)
※仮に発表が苦手でも、質疑応答を通して「確かに本人が取り組んだ」ということは容易に確認できるものですから、そこは安心してよく、発表が苦手だということはまったく苦にする必要はないでしょう。
研究のキホンは、「これがキホンです」と、いわば書き下された状態で示されてもよくわからないもので、これは大学でも大学院でも同じことです。やはり、論文の現物、同じ研究室の先輩や、指導教員の過去の論文、最近の会議で発表された最新の論文(口頭発表の予稿)などをなるべく多く見て、できれば研究の着手から発表までの流れを(学部のうちから院生のようす=いわゆる「研究生活」を見ておくなどして)知るように努めないと、なかなかわからないものです。
そうしたことが、まねごとであってよいですから、小学校のうちから取り組めれば、「上の世代」が届きえなかったところ(80年越しに自由研究を再び「教科」にするような、あるいは大学院への進学率をきわめて高く引き上げるような:おかたくは「高度知識創出型社会」のような)まで上がっていく原動力になるのではないかと、まことに勝手ながら、勝手に期待しています。(あくまで勝手な期待ですので、お気になさらぬよう。)
★「盛りタイトル」のススメ!?
> タイトル
> 人目を引くタイトルをつける。イラストをつけたり、文字の形を変えるなど、変化をつけるといい。
> サブタイトル
> サブタイトル(副題)をつけると、内容がわかりやすくなる。
…うーん、子どもに任せると、いきなり「幻のエビを追え!」のような(テレビ番組のような)タイトルにしてしまいかねず(身の周りの「お手本」としては、どうにもこうにもテレビの影響が大きく)、また、夏休みの間に何回も「(気に入らないので)タイトルを変える」と称してテーマごとコロコロと変えてしまうような子どももいるでしょう。そういう人は大学院でもテーマを毎年のように変えてしまい(院生にあるまじき、といっても「過言」ではないと思いますが)、指導教員を困らせます、たぶん。最初に、なるべく普遍的な、それ以上いじりようのないタイトルに(学校のセンセイや親も力添えして)決めつつ、決めたことは守ろうね(ただし目は笑わずに言う:むしろ「言い渡す」)と、強く言わないといけない、ということもあるのではないかと感じます。(あくまで感想は個人です。)
むしろ、「キャッチーな何か」的なものを入れたければ、サブタイトルのほうに入れるのが普通ではないでしょうか。実験結果が奇抜であったり、あるいはアプローチだけが奇抜であったり、さらには何の奇抜さもなく目立たないというケースで、サブタイトルだけが妙に華やかであるというのは、よくあるように感じます。提案手法の効果・「効能のようなもの」をサブタイトルで述べるということもありましょう。
★「90歳ヒアリング」
・学研キッズネット「90歳ヒアリング」
http://kids.gakken.co.jp/jiyuu/90hearing/
http://kids.gakken.co.jp/jiyuu/idea_db/853.html
> 90歳前後のお年よりに、昔のくらしについてお話を聞くのが「90歳ヒアリング」だ。
> 取材協力:東北大学大学院環境科学研究科 古川柳蔵
> あらかじめ質問(しつもん)を用意していくのも大事だけれど、その質問に答えてもらって終わりじゃもったいない。お年よりのペースで自由に話してもらうと、より深い貴重(きちょう)なお話が聞ける場合が多いよ。
> 福祉(ふくし)協議会や町内会にしょうかいしてもらおう。すぐに見つからなければ、もう少し年のわかい身近なおじいちゃん、おばあちゃんでもいいよ。
さすがです。ちゃんとできれば研究そのものであると同時に、「90歳ヒアリング事務局」としても事例の一つとして収集しておきたいと思われるのではないでしょうか、わかりますわかります。自由研究で「90歳ヒアリング」をした暁には、その成果を投稿できる「子どもジャーナル」のようなものを、事務局でつくってもいいのではないでしょうか。本当でしょうか。
・「90歳ヒアリング」
http://ec.nikkeibp.co.jp/item/books/P48980.html
https://www.facebook.com/90sai/posts/666166640090279
http://ssoptaitwwy.blogspot.jp/2012/02/90hp.html
うーん、ちょっと継続性が読めません。難しそうですね。
★ネットワーク(グラフ理論)
・学研キッズネット「道路の交通調べ」
http://kids.gakken.co.jp/jiyuu/idea_db/222.html
ありましたありました。しかし「やってみたい」が「5」で、うーん、暑いし排気ガスいし退屈だし、3K…いえ、子どもにも大人にも敬遠される3拍子がそろっています。同じく「電車の混雑調べ」も「10」で、ただし、こちらは電車自体になじみがないということも影響していましょう。まさに「車社会はつらいよ」([3050])…いえ、「キミには早いよ」状態(※)で、しかし、自由研究でも取り組める一種、素朴さのようなものが実務にも温存されている([3053])というのはむしろ、子どもが(子どものうちに)取り組むことがほとんどないために、大人になってから自由研究レベルの調査しかしていなくても、そんなものだと思われてしまう(拙さや素朴さがあるということ自体に気づかれない)面もあるのかもしれません。
※中学生の職場体験でようやく受け入れ可能、そして「時刻表のピンクのページを熟読してから来られたし」とのこと。自由研究で電車(鉄道)というのは、かなり「敷居が高そう」です。
道路も鉄道も、通信もそうですが、ネットワーク上の流動について直感的に理解できるかどうかは、かなり人によって向き不向きがあるのかな、と推測します。(他人のことはわからず恐縮です。)高校そして大学入試までの数学でよい点数がとれることと、さて大学の数学や専門科目でネットワーク(グラフ理論)がいきなり出てきて、すんなり理解できるかどうか、そこにいかなる相関があるのかないのか、気になります。
やってみれば(それなりに)簡単、という話でもあり(膨大な計算量ゆえ、必ず計算機を使用するということも相まって=紙の試験で知識を問うのは難しそうです)、いま、端的に新しい部類に入る単元である、ほかの単元との結びつきが希薄で「浮いている」、授業時間も限られているといったことから、高校までではグラフ理論が出てこないんだと理解していますが、いえいえ、浮いていようとも重要で基礎的な考え方の一つですから、もっと早い段階でサワリだけでも入れておくほうがよいのではないか、とも感じます。(あくまで見解は個人です。)
・花木良「算数・数学への離散グラフの活用」第43回数学教育論文発表会論文集(2010年10月6日)
http://mailsrv.nara-edu.ac.jp/~hanaki/research/pdf/10graph.pdf
なんと、2009年以降は高校の教科書に出てくるんですね、これはスバラシイ!
・「グラフ理論の教育について−小学生を対象として−」大阪教育大学紀要(2002年)
http://ir.lib.osaka-kyoiku.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/1752/1/KJ511500089.pdf
できます。ほかの単元との結びつきが希薄というのは利点でもあって、小学生でもパズル感覚でいきなりできますし、ぜひやってほしくありますが、計算機が必須です。そこの兼ね合いだけでできないというのは、たいへんもったいない話で、電子教材や電子黒板よりも先に、まずはオフラインで使い放題のLinuxマシンが1〜2台あって、子どもがRを自由に使い倒せる環境をつくるほうが、いわゆる「費用対効果」(B/Cの値)が飛びぬけて高いと思われます(当社比)。いえいえ、クラス全員が均等にRを…などと高望みしてはイケマセン。Rを使えるのはクラスに2〜3人くらい、それを頼りにしつつ、3班くらいに分けて、いろいろな問題を解くのに「チャレンジ」してみる、といった展開で、とりあえず十分でしょう。
もっとも、リンク先では(2002年ということもあり)かなり伝統的な教材化を試みており、うーん、これでは魅力半減、あるいは7割減くらい(当社比)ではないかなぁ、などと心配してみます。算数の中に位置づけるのはかなり難しく、そして窮屈でもあり、もっとPBLっぽく(2002年にはほとんど知られていませんでした)、「計算機使用活動」(Computer-aided activity)のような何かとして、単独で取り組んだ方が楽しく、そして考え方が手(計算機)を通して体得されるという利点があるのではないかと感じます。そして成績は…つける必要、あるんですかねぇ。
> 情報社会の問題解決能力として重要視されてきたシステム思考
> パズルや遊び感覚で終わってしまう傾向
> 計算が速く正確にできる子どもが,必ずしもこのような考える問題ができるとは限らないことが分かった。学級担任によると,普段の算数の授業でよくできていた子ども6名のうち,5名はこの授業でも積極的に取り組み,よく考えていたようである。しかし,残り1名は,計算問題では学級の中で一番速く正確にできるので,この授業では,どのように考えたらよいのか検討がつかなかったようである。この点に関して,今回の授業のような問題と,計算問題との相違点を今後考察していきたい。
※「検討」は原文ママですが「見当」ですね。
頭の使い方がかなり違うと体感されます。両方とも体験する、そして、「普通の計算が速くて正確」と「複雑系(離散)が得意」が、なかなか両立しないことをも体感し、一種、ダイバーシティーのようなもの、といっては大げさですが、トレードオフでスーパーマンなどいない、ということを実感させ、「自分は何でもできる!」とも「がんばれば何でもできるようになる!(できないのはがんばりが足りないせいだ!)」とも思わせないように育てる、ということが、今後のために重要なことだと思います。
そして、「パズルで十分です!(キリッ」といいきってみます。理学部や理学研究科でグラフ理論の研究をするのでなければ、パズルでいいんです。数学教育を研究されるセンセイ方には物足りないくらいでよく、それでも世の中では、それすらないので、一種「のどが渇いている」状態といえます。つまり、渇望されているということですね、わかります。
※暑いので同じことを2回いいました的な何かになっていますが、気にしない気にしない…。
概念の全体を理解できて、計算機を使って所望の計算ができることが、実務でも、数学でない工学的な研究でも、文系の調査結果の分析などでも、必要とされる能力です。特異値の計算のなんたるかを正確には理解できずとも、PageRankアルゴリズムの挙動や、その意味(計算の目的)が説明できて、自分の仕事に使っていいのか判断できることまでが、求められているのです。それ以上のことは、今まで通り理学部から入門ということで、十分でしょう、たぶん。
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