フォーラム - neorail.jp R16
発行:2016/9/10
更新:2022/4/26

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どうなる千葉駅(∞) どうなる千葉駅


パックン氏かくZ会の広告記事で語りき
「酵素パワーのトップ」を「オーケーゴルフ立川」で読み解く(謀)
小湊鉄道(1917年)で川島屋(1916年)を読み解く(チャービル)

(約20000字)

 第8回はずっと終わらないんだとか、実は既に15497回([3174])ほど…ゲフンゲフン。

 いま、実務(※1)でも趣味でも(※2)、ましてや特段の関心を持たない場合はなおさら、▼『発車ベルといったら発車ベルしか見えなくなるキミ!』問題のようなもの(※3)があると認識いたしております。

※1 ただし実務に関する趣味としての××談義のようなものを含む=責任は負わないがたいへん興味がある(なるべく詳しく勉強したいと思っている…だけ)、の意。

※2 ただし趣味に関する実務としてのライターさんや編集者さんを含む。

※3 「ATOSといったらATOSしか見えなくなるキミ!」「LEDマトリックスといったらLEDマトリックスしか見えなくなるキミ!」、そして、キミと呼ぶのはメッソウではありますが「保線こそがATOSだととらえるキミ(ATOS禁止日)」「遅延モニタこそがATOSだととらえるキミ(ATOSを見る)」「ATOSなんてそんなの新形PRCのローカルな呼称でしょというキミ」等々、「全体をポヤンと」眺めるのがたいへんむずかしくなってきていることが再認識されましょう。

・「××談義」の1例です
 https://kotobank.jp/word/%E4%B8%8B%E6%89%8B%E3%81%AE%E9%95%B7%E8%AB%87%E7%BE%A9-624881

・「談義」の0例です
 https://kotobank.jp/word/%E8%AB%87%E7%BE%A9-563768

・およそ3例としての『××談義に花が咲く』のイメージです
 https://kotobank.jp/word/%E8%A9%B1%E3%81%AB%E8%8A%B1%E3%81%8C%E5%92%B2%E3%81%8F-603478

 いまや、ほとんどのもの(要素)は、上位の大きなもの(システム)の一部となっていて、単独で完結していることのほうがまれだと思いこんでおいて、およそ3くらい、間違いではないのではないかとすら錯覚できそうです。(あくまで錯覚です。)

 このあたりを楽しく勉強(※勉強とも思わないうちにうっかり勉強してしまったよ!、の意)しましょうというのが、このフォーラムの趣旨でございます。

・「このフォーラムについて」
 https://neorail.jp/forum/forum_about.html

 > このフォーラムの設置目的
 > ・情報の交換を通して、鉄道事業や鉄道関連システムに関する理解を深める
 > ・一定の知識を前提とした上で、身近な体験から旅客案内や運行管理が抱える課題を探る
 > ・最新の動向に注目しながら、未来の鉄道のあり方を探る

 目的さえ果たされるならば、そこにフォーラムが役立っていようがいまいが関係ない、などと、運営者にあるまじきソレなど明るいところでのうのうと述べます。ええ、述べますとも。

・(技術的または実務的に)むずかしい内容や領域に立ち入るほど、「交換」が成り立たなくなって一方通行になりがちであるが、それはそういうものだという『第1種諦かん』を持とうではありませんか。

・「理解を深める」プロセスには、▼断片的に「トリビア」をつつきまわすフェーズと、▼つつきまわしたものを俯瞰して関係性を見つけて体系化(「系統化」[3046],[3158])するフェーズとがあるのですよ。

※国立科学博物館「貨車の技術発達系統化調査」([3158])は、このことがよくわかる好例だと思います。内容そのものではなく、調べ方とまとめ方の参考にしたいですね、の意。稚拙ながらこれをまねてみたのが[3108]でございます。

・十分な予備知識がないと、つつきまわすことすらままならないことが知られています。▼まったくとっかかりがないので興味すら持たない(調べようと思わない)、▼調べてみたらむずかしすぎたので興味を失う(見なかったことにして忘れる)、▼「知った」(習った)だけのことを「わかった」と誤解し、いろいろなことを個別に調べて(または受身で習って)「知って」は悦に入り、まとめようとしてつまずく(「わかって」=詳細に理解できていないので、まとめられない)など、いろいろな段階で一種「はじかれる」のです。

※他人があらかじめ系統化してくれたソレ、ソレが教科書というものです。教科書がない(≒答えのない)セカイへようこそ、といって、その実、いやいやいや、教科書そのものはあるのだけれど、高度に細分化されているのであってですね(略)。


★パックン氏かくZ会の広告記事で語りき


・【広告記事】「子どもの「思考力」を伸ばすために、親ができること 〜パトリック・ハーランさん」(2016年9月5日)
 http://www.asahi.com/and_w/information/SDI2016082657651.html

 Z会でなくても、パックン氏でなくても、同じことをいいたいひとはたくさんいるはずです。英語と同じことが、「計算機使用活動」(Computer-aided activities)([3094])でも、音楽でも、理科の中で海洋生物だけ([3071])とか、いろいろな局面であるんです。

 > しゃべる場面が少ないから、しゃべる技術が身につかない。議論が生まれない。討論ができない。問題提起ができない。指摘されても反論ができない。それ以前にまず「質問すること」が苦手な人が多いですよね。コミュニケーションを仕事にしている僕らの業界でさえ、それが下手な人が山ほどいる。

 日本語でもできていないことが外国語でできるわけがない([3048])とは、このことです。仮に「CEFR」の枠組み([3061])で言語運用能力を評価する「セカイ観」が日本にも導入されたとしますと、日本語の母語話者がじぶんの言語運用能力を過大評価している(これまで合理的な方法で評価したことがなかった※)、もっともらしく日本語を並べてはいるが、まったく体系的な言語運用能力には至っていない人(議論できない、意見をいえないなど含む[3132])が、驚くほど多いかもしれない(「考えない人」[3125]が大多数である)ということが一種『再発見』されていくのだろうと予想します。(あくまで予想ですが見解です。)

※「むずかしい漢字や熟語を知ってるぞ★どうだスゴイだろ」を除いては、母語話者の言語運用能力を問う場面があまりないということです。言語運用能力が詳細に問われない限りは、「だいたいできてる」ということしか測れない一方、「だいたいできてる(測定上の上限)」に達したことをもって最上位だと誤認されるということを指して「過大評価」といいたくあります、の意。

 実質的には、国語以外の科目の試験(ただし資格試験や民間の検定などすべて含む)で試験問題が読解できて答案を作成できるかどうかということを通じて間接的に問われてきたわけでございます。義務教育を終えた時点でいかなるグレードに達したのかを認定するようなソレの導入が待たれます。そこで、国語のグレードが低いのに他の科目のグレードが高い人というのは、知識の検索や実験の操作に長けているだけでまとめや考察ができない人であるかもしれないと疑われていくはずです。(まったく予想です。)文系でいえば、前例や条文を「超高速検索!」して紋切型の判断を下すだけの××なお仕事([3155])、理系でいえば「実験が上手だね」([3102])という心配でございます。そこを乗り越えて「ビック(驚きの白さ)」になろうッ。そのための高校であり大学でなければならないと、こう、「逆算的に」(「consider backward from a {process|flow} of A, and found out that B is required」[3152])思えてくるではありませんか。なんということでしょう!

[3327]
 > このフォーラムの話題の中では、「規程の条項を表層的に読むばかり」([3155])という例などから、大人、とりわけ、曲がりなりにも法学部を出たでしょという経営層の者ですら読解力が不十分である恐れがあるということが想像されてきます。

・Wikipedia「Computer-supported collaborative learning」
 https://en.wikipedia.org/wiki/Computer-supported_collaborative_learning

 > Computer-supported collaborative learning (CSCL) is a pedagogical approach wherein learning takes place via social interaction using a computer or through the Internet. This kind of learning is characterized by the sharing and construction of knowledge among participants using technology as their primary means of communication or as a common resource. CSCL can be implemented in online and classroom learning environments and can take place synchronously or asynchronously.

 日本語版がないというのが驚きです。ワー。

※pedagogical:教育学の、教授法の⇒教育学の見地で合理的な(よく配慮された、検討が尽くされた)。the sharing and construction of knowledge among participants:⇒(固有名詞的に)「知識の社会的構成主義」([3168])。

・(参考)「新しい学びを求めて」
 http://www.nier.go.jp/05_kenkyu_seika/pdf_seika/h24/5_3_chapter2.pdf

 > 現地までの交通費は自己負担ですので、子どもたちはそれを負担してもらうために親を説得するということから始めるので、大変意欲の高い子たちが集まる傾向にあります。

※これはこれで別の問題であるような、の意。

 > 熟達化

 これまでの学びが、すべて「熟達化」のためであった、と、あきらめるともわりきるともなんともいいがたいソレによって、学部卒で何らかのエキスパートになってしまう(学びを終わりにしてしまう)というのは、これからは東ロボくんやワトソン君に任せて、わたしたちは東ロボくんやワトソン君をつくる側を目指しましょうよぉ([3327])。そこを阻害するような要因やフーチョー([3339],[3343])は、初等教育の段階からなるべく避けられたいなぁ、の意。たぶんゼッタイです。

 Wikipediaで「construction of knowledge」から「Learning」に行き、そこから日本語版へ…へ? 何がどうしてこうなったと叫びたくなること請け合いです。もっとワー。

・上掲「熟達化」の分担執筆者のフェイスブック