・塩浜駅の歴史をひも解く ・「補強コンクリートブロック造」の普及と衰退
(約11000字)
貨物線の話題ですが、信号扱い所の建方の話題です。それに、「いま」と題しながら、時代をさかのぼります。恐縮です。
[3126]で、「年代推定法のひそみにならう」「脱『宝探し』」と題してまとめましたように、資料が入手しにくいが現物は目の前にある、ということが多い鉄道にあって、どんなことをすれば、▼資料を補完する推定ができたり、▼どんな資料を探せばよいかの見当をつけたり、できるでしょうか。ちょっと考えてみましょう。
●塩浜駅の歴史をひも解く
・塩浜駅(三重県四日市市)の「信号扱い所」
http://livedoor.blogimg.jp/koukendaisuki/imgs/2/b/2bb35a28.jpg
http://blog.livedoor.jp/koukendaisuki/archives/52081383.html
関西本線の貨物支線に属すると説明されるJR貨物の塩浜駅です。
※あ゛ー、だから京葉線の駅名は「市川塩浜」になるんですね、と初めて気づきます。いえ、どこかに「塩浜」があるから「市川塩浜」になるんだろうとは漠然とは知っていても、では「塩浜」がどんな駅なのか、なかなか調べようとも思いませんよねぇ、の意。(地元のかたには)恐縮です。また、川崎貨物駅([3116])も地名としては塩浜だということです。全国各地、まるっと「塩浜」なんですから、しかたないですね。
信号扱い所の1階部分や付随の小さな建屋(「小屋」とも呼ばれそうな)がコンクリートブロックで造られ、ひたすら大きな窓に囲まれる2階部分が後から増築されたかのような体裁の建物となっています。いえ、1階建ての小さなほうがもとからある建屋で、屋根の勾配が線路でない方向に向かって下っていますから、もとは踏切警手あるいは転轍手の詰所であったのではないか(それも、もともとは木造であったものが、ある時期にコンクリートブロックで建て直されたのではないか、その後、配線の複雑化で「信号扱い所」に移っていったのではないか)などと、写真だけからもいろいろ、推測することができます。(推測が正しいかどうかは問いません。)
・ウィキペディア「塩浜駅」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%A9%E6%B5%9C%E9%A7%85
> 2013年3月改正時点では上り列車(四日市方面)は高速貨物列車(タキ1000形貨車のみで編成)が1日1本のみ稲沢駅を経由して南松本駅まで運行、専用貨物列車が1日5本(2本は稲沢駅経由で南松本駅まで、1本は臨時で稲沢駅まで運転)運行されている。下り列車(当駅終着)は高速貨物列車(タキ1000形のみで編成)が1日1本、専用貨物列車が1日3本運行されている。
・ウィキペディア「関西本線」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E8%A5%BF%E6%9C%AC%E7%B7%9A
> 1944年(昭和19年)
> 6月1日:貨物支線 四日市駅 - 塩浜駅間 (3.3km) が開業。貨物駅として塩浜駅が開業。
> 11月1日:奈良駅 - 王寺駅間が資材供出のため単線化。
塩浜駅は1944年6月開業とのことで、この時点ではかたや「資材供出のため単線化」という事案があるほど情勢が切迫しており、貨物駅とはいえきわめて最低限の配線(=使うレールの量)だけで開業したはずです。開業時点では木造などの簡易な小屋に、何らかの人が詰めていたのでしょう(それで足りるような簡易な配線だったとみられるということです)。空襲で焼けたかどうかはわかりませんが、焼けるたびに木造で復旧していたとみられます。(このことが事実であるかどうかは、資料によって裏付けなければなりません。)
また、踏切(警報機や遮断機などでなく「踏切道」の意)は開業時からあったとみられますが、1944年6月にあって、新設の踏切道にもれなく警報機や遮断機を設けたり、踏切警手をきちんと配置したりといったことが「完徹」できたとは信じられません。開業時には小屋はなく、戦後、踏切の安全のために取り急ぎ踏切警手が置かれた、といった流れだったと、仮には見ておけばよいのではないでしょうか。
1952年以降にコンクリートブロックで建て直した(もしくは新築した)のではないかとみられますが、その契機になりそうなのは、同じ関西本線で▼1952年に阪和貨物線、▼1956年に大阪東港駅、▼1963年に百済駅・南四日市駅、▼1964年に百済市場駅が開業するなど、貨物線の路線網が拡充されたこと、▼1959年9月に「伊勢湾台風」の被害を受けたとみられることなどが考えられます。
そして、CTCの導入は1983年(亀山−木津間)までありません。(名古屋−亀山間では2001年にCTCが導入されています。)塩浜駅の周辺で線路の配線が大きく変わったのはいつごろか、と見ていきますと、1963年、南四日市駅の新設(南四日市−河原田間の部分複線化)が最新と見られます(1961年にも、関西本線では各地で「再複線化」が進められています)。これにともなって四日市駅ともども連動装置を改修(もしくは「継電連動装置を導入」)したのではないかとみられ、遅くとも1963年までに「信号扱い所(2階部分を含む)」が完成していたと仮定できそうです。
逆に、1963年が近づくまでは、特段、新たに「小屋」を立てる必要はなさそうで、ならば、開業当時からずっとあったものを改築したか、1963年を控えて信号扱い所ともども建てられたか(ほぼ同時に建てられた、しかし別の独立した建屋としなければならない理由があった)、などと「謎」が深まります。
●「補強コンクリートブロック造」の普及と衰退
「補強コンクリートブロック造」(後述)は、国鉄では1959年以降に可能になったとみられます。開業当時から「小屋」があったとしますと、1959年、台風の被害からの復旧として「小屋」が「補強コンクリートブロック造」で改築されたのではないかとみられますが、しかし、1963年ごろに信号扱い所をきちんと建てることが計画されていながら、いますぐ、目の前の「小屋」を復旧させなければならない、そして、この時点で建てるからには、木造は許されない、などと、むずかしい話になったかもしれません。(あくまで想像です。)
・「転轍手の詰所」の例(ただし台湾)
http://blog.goo.ne.jp/onsen_shouyou/e/36ed89b510e9dca5283d122b5984c952
> 信号所を通過。古そうな転轍手詰所は日本時代の物ではないかしら。
※古そうかどうかよりも、かわらぶきの屋根が特徴的ですね。
「補強コンクリートブロック造」について知るために、コンクリートブロックについても資料を探してみましょう。
・全国建築コンクリートブロック工業会「よくわかるブロック建築工事」日本ヴォーグ社(2013年5月)
https://books.google.co.jp/books?id=EKVUvtRQUPQC&lpg=PA11&ots=a5rciJcsBv&dq=%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E9%80%A0%20%E9%89%84%E9%81%93&hl=ja&pg=PA11#v=onepage&q=%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%96%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E9%80%A0%20%E9%89%84%E9%81%93&f=false
> 1951(昭和26)年6月に施行された公営住宅法において準耐火構造として位置づけられた集合住宅の建設、国庫補助による不燃住宅の建設、危険品庫や電気機器室などの鉄道施設等々、補強コンクリートブロック造の建物が全国的に普及した時代である。
> 縦横両方向を鉄筋で補強した壁体からなる補強コンクリートブロック造は、鉄筋コンクリート造の一種という概念の新たな構造形式として確立された。このような補強コンクリートブロック造の急速な展開は、補強コンクリートブロック造として建築基準法施行令における法的な基準化、ブロックの工業材料としての標準化、日本建築学会等における技術的基準の整備など、鉄筋で補強されたブロック建築の有用性が社会で認知されることとなった。
> 写真2-7 群馬県ブロック会館
> また、昭和20年代には基準等の制定を待たずして建てられた事例も多く、ラーメン構造の壁に蒸気機関車から排出された炭殻を軽量な骨材として手作りされたブロックを使用して造られた群馬県の県営住宅(写真2-8)など、個性的なブロック建築が提案された。
・Googleストリートビュー「群馬ブロック会館」
https://goo.gl/maps/ancc9hkJd312
ワー! たいへんモダンな建築でびっくりです。一種「本気」で造られた「補強コンクリートブロック造」は、いま見ても古くささを感じさせません。この感覚、国鉄や住宅公団(現在のUR都市機構)の建物全般にも感じるソレと似ています。いまどきホームセンターで無造作に売っているアレでしょ、え゛ー、などと先入観を持っていては損だと痛感されます。(感想は個人です。)
・Googleストリートビュー「江木県営住宅」(群馬県高崎市)
https://goo.gl/maps/N6EMkw5JEfC2
うーん、現在の視点ではいろいろと見劣りする何かはありますが、当時、安全な建物が安価に、しかも迅速に供給できたのだとすれば、たいへん意義のあったことです。ただ、「公営住宅法」で何かを細かく決めすぎた、あるいは、その決め方も後年のことはあまり考えていなかった、といったことなのかと推察されますが、正確には原文を読むまでわかりません。「公営住宅法」は1951年で、日本住宅公団(「日本住宅公団法」)は1955年です。この4年間の差は、たいへん大きくあります。
・「コンクリートブロック会館」
http://smocca.jp/bukken/detail/RGroup_7f9552a4357aa67c1c33f858598eef96
> 賃料 4.9万円
> 1987年06月
なんだ、そんなに新しかったのか、と、その点ではちょっとがっかりされます。鉄筋コンクリート造(RC造)と記されていますが、ここまで複雑な形状の建物(バルコニーもすべてコンクリート)を完全にRC造で、となると、複雑な割に階層が少なく(比ゆ的には、型枠の流用が3回しかできず)割に合わないのではないでしょうか。そこでコンクリートブロックを多用した、ということですね、わかります。
・大成ユーレック「いろいろな構造・工法」
http://www.u-lec.com/landusage/structure
※普通の人がわかるように書かれつつ、しかし住む側よりも建てる側の関心に応える資料ということでリンクいたします。それ以外には何も、保証も推奨もいたしません。
> 法定耐用年数は47年
「群馬ブロック会館」は2034年まで、あと19年も持つということです。スバラシイですね。
・「別表1 附帯工作物標準耐用年数表」
http://www.thr.mlit.go.jp/Bumon/B00091/youti/yotairen/yotaisiyousyo/file/mokujigoto/105-2_bekki5-2.pdf
> 木製類 31
> コンクリートブロック類 36
> 鉄筋コンクリート類 46
> れんが類 40
> 堀井戸 72
※うーん、この年数を「標準」として定めてあることはわかりますが、いかにして部材ごとの年数を定めたのか、理解が及びません。最大限にうがちますと、現に古い「堀井戸」があるので「堀井戸」は長く、鉄筋コンクリートは「建築物における年数-1年」、れんがは、そのうち新築では使われなくなるのでこんなものだろう的な「鉛筆」が想像されてしまいます。TPPの「著作権70年!」とも似ているように感じます。本当でしょうか。もちろん、「耐用年数」はつまるところ税金の額を決めるための人為的なルールのようなもので、実際に(技術的に)建築物や工作物がどのくらい持つのかとは、別の話ですね。「群馬ブロック会館」が「RC造」として認可され「47年」とされる限りは、塩浜駅の信号扱い所も47年は持たなくてはいけないのではないか(47年経たないうちに取り壊すことはないのではないか)と想像されます。もっと本当でしょうか。
・「鉄筋コンクリート組積造(RM造:Reinforced Masouuy)」
http://www.honda300year.co.jp/rm/
http://www.h5.dion.ne.jp/~iml-inc/rm.html
http://www.taiyo-cement.co.jp/method/hrm.html
・東日本大震災より後の状況
http://www1.tmtv.ne.jp/~kadoya-sogo/housing07-structure-structuretipe.html
http://www.mlit.go.jp/common/001032017.pdf
「よくわかるブロック建築工事」の資料に戻ります。
> 補強コンクリートブロック造の着工実績は、昭和40年代前半をピークとし、昭和50年代には群馬県において官民連携のもとで「ハウス30(写真2-9)」と称するプロジェクトで住宅への普及・拡大を図るなどの対策が試みられたが、それ以降急速に衰退することになる。その理由は、軽量気泡コンクリート(ALC)やコンクリートパネル等の普及による需要の減少と、小規模な企業において品質管理もなく安易に製造された低強度・低品質のブロックの供給や粗悪な設計・施工などに起因する結露や漏水など、建物としての不具合がブロック建築に対する負のイメージとなったことが原因のひとつと考えられている。
> 表2-1 コンクリートブロック年表
> 1952 日本工業規格(JIS A 5406) 空洞コンクリートブロック 制定
> 1952 日本建築学会・設計基準 特殊コンクリート造設計基準 制定
> 1956 建築工事標準仕様書(JASS 7) コンクリートブロックおよびれんが工事 制定
> 1959 建築基準法施行令 補強コンクリートブロック造 制定
> 1971 建築基準法施行令 補強コンクリートブロック造の塀 制定
> (中略)
> 1994 日本工業規格(JIS A 5406) 建築用コンクリートブロック JIS統合
> 2003 国土交通省告示(第463号) 鉄筋コンクリート組積造に関する告示※ 告示
> ※鉄筋コンクリート組積造の建築物又は建築物の構造部分の構造方法に関する安全上必要な技術的基準を定める件
とのことで、一般には1952年以降、国鉄として「コンプライアンスを遵守」した(あるいは国鉄で採用するためのエビデンスとして民間の事例が十分に蓄積されるのを待った)とすれば1959年以降、線路際(建築限界の外側に直接、接する)の建物(特に信号扱い所)において、コンクリートブロックを積み上げる構造の建屋(ただし居室とは限らない:機器室など)が次々に建てられるようになったはずだ(国鉄として「合理的な基準」を改訂した後は、次に改訂されるまで、一定の条件にあてはまる場合はすべて、あらゆる建屋がコンクリートブロックを積み上げて建てられたはずだ)と決めつけることができるかと思います。
・Googleストリートビュー 塩浜駅(四日市市)
https://goo.gl/maps/ahfVMoZCCT62
ワー! たくみー! …などと「ビフォーアフター」されてみたくてうずうずします。隣接して建つ大きな長屋状の建物も、1階部分だけがコンクリートブロックを積み上げた壁になっており、後年、増築されたとみられます。(さらに増築できるように柱や梁を飛び出させてあるようにも見えます。※)仮に踏切警手の詰所(踏切の機械も置かれる)だったとすると、踏切の自動化後も踏切の機器室として使うなど(現に使われているとみられます)、そして、「継電連動装置」をうやうやしく設置する建屋と、踏切に関する建屋は、いくら同じ場所に造るとしても独立の建屋としなければならなかったのではないか、などと想像されます。現に、電柱からの引き込み線は建屋ごとに別々に引き込まれており、電気系統上も完全に独立していると推測されます。(踏切は東京電力[2979]、「きれいな線」[2836]なども参照。)
詳細は端折りますが、1964年6月の「新潟地震」(での液状化現象)で、コンクリートで4階建て(躯体が重い)の県営住宅がごっそり倒壊したことから、「耐火」だけでなく「耐震」に大きな注意が払われるようになり、1971年の建築基準法改正につながったと説明されます。1963年や、その後に向けて、もしかすると長屋状の建物のほうをさらに3階建てなりに増築して、もっと見晴らしの良い信号扱い所を造る予定だったかもしれませんが、それはできなくなったということです。できごとの起きた順序がちょっとでも狂っていたら、「既存不適格」の建物をみすみす建ててしまいかねなかったともいえます。
・(個人のページ)新潟地震直後の写真(1964年6月、2005年2月28日)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~makoto_w/niigata/kikaku/jisin_1.htm
http://www2s.biglobe.ne.jp/~makoto_w/niigata/kikaku/jisin_phot.htm
http://www2s.biglobe.ne.jp/~makoto_w/niigata/author/authint.htm
http://www2s.biglobe.ne.jp/~makoto_w/niigata/author/chyosyo.htm
> 当時、幼稚園の年中組だった私は、大きくゆれる蛍光灯と、「早く机の下へ!!」と叫ぶ先生の姿を、いまだにはっきりと憶えています。
> ここに、父が地震発生後に撮影した写真があります。また、当時の思いでを身近な人々に聞いてみました。
> ボーナス支給日の翌日だったので、末娘(当時1歳)を連れて古町の住友銀行へお金をおろしに行っていた。ソファーに腰を下ろした途端に揺れがきた。最初はソファーのクッションがいいせいで揺れているのかと思っていたら、周りの人たちがさわいでいるので地震だと気がついた。
> 隣にいたいい年のおじさんが、小さなテーブルに頭をつっこんで隠れたつもりになっているのがおかしかった。
> 地震直後に銀行の公衆電話から父のところへ電話をかけた。工業高校にいったんつながったが、取り次いでもらっているうちに切れてしまい、それっきりつながらなくなってしまった。
> 隣に住んでいた祖母(母の母)は、昼食後の地震にあい、火の後始末をしてから浦の松林に避難したそうだ。近所の鉄道官舎や帝石アパートの住人も逃げてきたらしい。帝石アパートは倒れるかと思ったほど、大きく揺れたそうで、1階が50cmくらい沈んだそうだ。
たいへん貴重な一次資料ですね。そして、さすが工業高校にお勤めだけあって、写真での記録の内容がたいへん的確だと感じます。そして、「鉄道官舎」と「帝石アパート」で、どのように構造が違っていたのか、気になります。
・津波ディジタルライブラリィ「新潟地震誌」
http://tsunami-dl.jp/document/145
・(個人のブログ)「半世紀前の国鉄官舎(宿舎)の間取図〜『秋田鉄道管理局史』より」(2011年5月7日)
http://bokukoui.exblog.jp/15933202/
「鉄道官舎」は2階建てであった、ということでしょうか。
塩浜駅に戻りましょう。
一方、信号扱い所の建物の1階部分では、枕木方向の壁(道路から見える面)で、現在(※1)、色や風合いがはっきりと異なる(※2)コンクリートブロックが混ざって使用されていることがわかります。建物の角や、積み上げの3段に1段といった箇所と、その中間とで、色が異なっています。構造上重要な部分と、隙間を埋めるだけの部分とで、異なる品質のブロックを使ったと推測されます。鉄筋の入れ方も、均一ではないのかもしれません。ただ、線路に面した面では、色がきれいに1色ということはなく、モザイク状に混ざっていますので、こちらはもっぱら鉄筋で強度を確保の上、ブロックは均等に混ぜて使ったのかなぁ、などと勝手に推測されます。(あくまで推測です。)
※1 1963年とすれば、築50年を越えます。
※2 直線で2kmも離れていない鈴鹿川の河口からの潮風や、近隣の工場の排煙などと、コンクリートブロックの製造時に混ぜられた骨材(の一部や、セメントの不純物)などとが反応したものとみられ、色の違いは時間が経つほどくっきりと、しかし、表面に浮き出る分については、雨や風を受ける面ではそれなりに拡散されつつ、といったことが想像されます。
・全国建築コンクリートブロック工業会「ブロックってどうやってできるの?」
http://www.jcba-jp.com/daijiten/c01/
ここで仮に2種類のコンクリートブロックが使われていると仮定しますと、▼1952年以降のJISに準拠したコンクリートブロックと、▼1952年以前のコンクリートブロック、といった一種「断層」のようなものがあるとみられます。そして、道路に面した壁で明確に使い分けられていることから、▼施工に際してブロックの品質の違いがきちんと把握されていたこと、その上で、▼混ぜて使っても強度などに問題ないと判断されたことがうかがえます。
その判断が最大限に合理的なものであった(ベストが尽くされた)と仮定しますと、後者のブロックが、1952年以前の製造ながら、JIS準拠のブロックと同等とみなせる品質を持っている(後から遡ってJIS準拠とはできず、一種「紙切れ1枚」=認定シールのようなものがないだけで「モノ」は同じである)と、自前で判断できるための基準や検査方法などを持っていなければならなかった、と読み解かれます。
もっとも、「色むら」はもっと簡単に起きるものだと説明されます。
・「コンクリート表面の変色、色むら」
http://www.soc.co.jp/wp-content/themes/soc/img/service/cement/tech_pdf/07iromura.pdf
> 変色についての厳密な定義はないので、ここでは、コンクリート表面における、色相の変化を変色、明度の変化を色むらとした。
> 色むら
> 打ち放しコンクリートやコンクリート製品の表面では、グレーの色調内で、その濃淡の差が部分的に識別できるような色むらを生ずることがある。その原因として、セメント、混和材(剤)、細骨材などの銘柄や品種、配合上の単位量などの違いに起因する場合が多いが、それらの使用材料や配合が同一の場合においても、コンクリート表面での水酸化カルシウムや炭酸カルシウムの生成状況の違いによることも多い。色むらを生じた部分は、グレーの色調が濃く黒っぽく見える部分と、淡く白っぽくみえる部分に分けられる。一般に、色が濃い部分には、板状の水酸化カルシウム(材齢の経過と共に炭酸化して炭酸カルシウムとなる)が重なり合った密実な層が認められ、淡い部分では、水酸化カルシウムがほとんど認められない場合が多い。この水酸化カルシウムや炭酸カルシウムの層は表面が平滑なため、光の乱反射が少なく、黒っぽい色に見えるが、水酸化カルシウムの生成が少ない表面では、それらの結晶が独立して存在するため、光の乱反射が多くなり白っぽく見える。
> 色むらの抑制対策
> 材料は、同じ産地または同じ銘柄のものを用いることを原則とし、打設する同一ブロック内では、同じロットの材料を用いるよう計画的な供給を行うのが望ましい。
とのことで、単に、冬に製造されたブロックと夏に製造されたブロック、という違いであっても「色むら」が起こるようですが、いえいえ、そんなに「同一ロット」のブロックを調達できないほど切迫していた時期には、このような「信号扱い所」が建てられるとも思えません。国鉄で、あるいは塩浜駅で「ストック」しておいたブロックと、いざ建てる時に買い足した…などと、いえいえ、そんな、小学校の校庭の片隅に教頭先生がDIYでニワトリ小屋を建てるかのような何かが、いくら昔とはいえ国鉄にあったのでしょうか。「2種類のブロックの『謎』」は残ります。
補足ですが、きちんと設計されきちんと施工される、また、きちんと製造されたコンクリートブロックを使用する限り、補強コンクリートブロック造(補強CB造)を今からでも採用することに問題はありません。
・TAU設計工房「宮の森の家(三角屋根の家)」
http://www005.upp.so-net.ne.jp/TAU/004/0004-4/2000-20005.html
> 1階コンクリートブロック造の上に木造が載っています。
> 構造規模:補強CB造 一部木造2階建
> 竣工:2001年11月
・同「琴懇館」
http://www005.upp.so-net.ne.jp/TAU/004/0004-4/kinkonkan.html
> 1階コンクリートWウオールに住居、2階は木造で、琴の稽古場と私どもの事務所が入っています。
> 構造規模:補強コンクリートブロック造一部木造2階建 / 竣工:1995年10月
「ビフォーアフター」の一種「副作用」で、また「ブロック塀」の問題から、コンクリートブロックはことごとく粉砕され撤去されるべきものであるという先入観もあるかもしれませんが、決してそうではないのです。
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