・目次をきちんと読み解いてから読む【帯あり】 ・「鉄道技術研究所の変遷」から「知識の系統化」まで ・「120km/h運転の実在を迷う」から「荒木光太郎文書」まで ・「ALPS」を前提とした「東海道開発線」構想 ・「交通新聞社第二出版事業部長****氏の懇切なご指摘」から「カンピューター」まで(談)
(約46000字)
「2時間で読む」([2947],[3010])に対して「10年後に読む」であります。[3495]もあわせてご覧いただけますと幸甚にございます。そして、「別途まとめます」とのみ記して後回しにしていたのは本書なのですよ。まず、このフォーラムでどのように後回しにしてきたのかをふり返ります。
・[3126]
> (会社が)業務として(オプショナルな創意工夫の類でなく、査定の対象として)研究に携わらせるにあっては、少なくとも修士、できる限り博士の学位(※※)を取得させる(30代のうちに取得させる)ことが当然です。学部卒で実務10年、それだけで研究ができるとみなしてはいけません。きちんと訓練を受けないと、やっぱりできないものなのです。「もう一声」といいたくなるような「おしい」会社としては、オプショナルな創意工夫の延長線上で(事実上の)研究成果を求めるという、…それって「ブラックっぽい」んでは、と心配になってきませんか?(青色LEDの人[2937]も参照。)
> ※※ちょっと古い文脈では「学位取得者」といって「学士=学部卒」を指しているものが(国鉄では)あって、ちょっと「あ然」とさせられます。そして、企業内大学ともみなされる「鉄道学園」で「みなし学士」的な自称「学位」を(ある意味では自組織の構成員に自組織で)授与し、組織内の待遇面では正式な大学の学位(ただし学士)と同等とみなしてきたと説明されます。そして、「生え抜き」と自称する人たちにあってたいへん結束が固かったので、外部からの人材の登用が阻まれた、とする指摘(ただし労使問題でなく、研究開発に関しての指摘:佐藤2005)もありますが、別の話ですので別途まとめることといたします。なお、あくまで国鉄時代の話です。
この著者自身は民営化の前後に鉄道総研(鉄道技研)を退職されており、著者としては「JR」は知らないという立ち位置にあるので、本書を通読してなお、わかるのはあくまで国鉄時代の話であるということを、わたしたちは承知してから読まなければなりません。
・[3177]
> あくまで国鉄が主体的に取り組むんだという「自負」のようなもの(国鉄内部や国鉄の研究所で、いわゆる「生え抜き」で「たたき上げ」の職員から、研究者が一種「低く」見られていたという指摘があります=別途まとめます)
・[3125]
> 国鉄の研究開発の現場では、意欲的に先進的な取り組みがなされた(ほぼリアルタイムで「1958年のサイバネティクス」[3041]、あるいは「1964年の速度感」[3124])ものの、その後、研究体制を継続的にアップデートしていける仕組みが機能しなかった([3041])とみられます。
・[3469]
> (ある研究課題や分野などに即して、いわゆる「ブルーオーシャン!」な時分に)スゴい人(…とみなされるけれども、そもそも「ブルーオーシャン!」であれば誰でも『第1発見者!』になれる確率が高い!)がいたときだけグングンと研究が進んで、あとはそれっきりというのが東海道新幹線以後の国鉄(の研究所⇒※)であり「数量化理論」であり、との印象が否めず困ってしまいます。あとの時代の者は、いったい何をしてきたのでしょうか。…ギクッ。
> ラッパ型スピーカーも高らかに…国鉄解体への序曲をバックに「公団」というものが新設されて、(研究者としては)心機一転、コンピューターを使う新しい研究にまい進されたと、かようにナイーブな幻想を仮に持ってみるところであります(=別途まとめます)。
・[3484]
> じぶんたちの発表したのだけを挙げておられます。しかもじぶんたちでつくったシンポジウムでの講演です。おのずから限界が出てくるといって…うーん。(別途まとめる予定がございます。)
※研究開発に関する「情報公開が限られている」(244ページ=後述)ことの一例でございます。ただし、あくまで国鉄時代の話でございます。
なお、本書では「日本鉄道建設公団三十年史」が挙げられてはいますが、公団、地下鉄、私鉄系の車両メーカーなどへの言及は見られないことをあらかじめ申し添えます。国鉄の最後まで鉄道総研におられたかたとして、職場の環境として入ってきにくい類の情報(≒知らなくても仕事ができるとみなされる情報)は、退職後にもじぶんから探そうとはされていないということを疑います。
※人的交流はあって、著者自身が土木学会構造工学委員会鉄道構造小委員会の「線路研究のグランドデザイン」研究会で委員を務め、「大学、JR各社、鉄道建設公団、公営鉄道(地下鉄)、私鉄の部長クラス」「若手職員を幹事として合計47名に国土交通省鉄道局からオブザーバーを得て」(276ページ)との説明が見られます。
では参考文献に不備があるかというと、そうではないことがわかります(=後述)。参考文献というより、研究に用いたデータセットともいえる「国有鉄道 鉄道統計 累年表 CD-ROM版」「日本の研究所要覧」「数字で見る鉄道 1990−2000」「運輸経済統計要覧平成3年度版」それに土木学会「1980年版全国土木系教官・教員名簿」「1999年版全国土木系教官・教員名簿」(=を使おうというところに「確かな論文指導の痕跡」のようなものが感じられるという意味で)が手堅いので、これでじゅうぶんだという印象もございます。これ以外の一般向けの図書や報告書、それに新聞記事などをぜんぶ挙げておられるのは、正直だなぁ、…実に正直だなぁ、ということです。
・(あくまで参考)中原淳「博士論文とは「最後の教育機会」である!?」(2013年10月24日)
http://www.nakahara-lab.net/2013/10/post_2112.html
> 僕がこれから語ることは、「一般論」では、断じてありません。
> ひと言でいえば、博士課程はすべての「最後」なのです。
> かくして、「博士論文を書く」という行為には、「指導者として提供できる最後の教育機会」にふさわしい知的活動が埋め込まれています。
> 大村はまの言葉に、下記のような言葉があります。
いや、まあ、その、やっぱり大村はまですよね。わかりますわかります。
・[3469]
> 「日本人の読み書き能力調査」(数量化I類)
「数量化I類」と後に呼ばれるソレは、この調査のためにつくられたのですよ。
・ウィキペディア「大村はま」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%91%E3%81%AF%E3%81%BE
> 戦後、占領軍の教育指導者講習があり、はまは、出席した。CIEが強調したのは単元(ユニット)であった。実践的な、目的意識をもった、まとまりのある授業である。はまは、「やさしい言葉で」という題で行った学習の例を、通訳を通じて話したら、責任者のオズボーンは「そうだ、それがユニットというものだ」と認めた。
> はまの支援者であり、助言者でもある東京都指導主事・東京教育大学教授の倉澤栄吉もその一人で、定期的に参観にきた。
エピソードがつらつらと述べられてはいますけど、重要なのは上記の2点ですよね。「数量化I類」と呼ばれるソレがつくられながらの「日本人の読み書き能力調査」には倉澤栄吉もアレしてますよね。(敬称略)
・本橋幸康「「日本人の読み書き能力」(1951)の考察」早稲田大学大学院教育学研究科紀要 別冊 Vol.12 No.1(2004年9月)
http://ci.nii.ac.jp/naid/110006372134
https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-25870023/
> 昭和20年代後半,(以下略)
ぬおー(略)。TOEIC([3345])のほうなどそこはかとなくIRT([3477],[3487])しながら、問題文は使いまわしてこそ継続性が出るのかもですよ。「数量化I類」のほうからの考察もされたいかもですよ。本当でしょうか。(※既にされていたらすみません。)
※「アチーブメントテスト」については[3495]を参照。
・(再掲)レファレンス協同データベース
https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000083444
> **県立中央図書館
> 小学校・中学校・高校で使用する読書ノートの開発をしている。(略)大人向けに説明したものでも、大人が使うような読書ノートでもかまわない。
> (大巾に略)
> GeNiiを「大村はま AND 読書ノート」、「読書記録」で検索。(略)
・(先述)
> (大巾に略)「大村はま」『一択』ですね、わかります!(かなり基礎的なことなので、それより後の時代に何か斬新な方法が生まれたりはしないのですよ。たぶん。)
・(再掲)「スポーツマンシップとはなにか」(2012年1月27日)
http://www.yomiuri.co.jp/adv/wol/reviews/120127.html
> そもそもルールは誰が作るのか。
> 私が現代の「スポーツ的なるもの」に、ときに不安を感じる点はそこにある。
・[3485]
> なにしろ京都なんでぇ(略)何食わぬ顔で桜餅と称して、各々けっこうバラバラなソレを食わせる(※どこぞのアレを「完こぴ!」するなんてプライドが許しません!)といって、こりゃあいっぱい**されたわい。(違)この、いくら時代を経てもあまり規格化されない感じ(変わり続ける感じ)こそが関西風…いえいえいえ、そこまでいえませんってば。製菓学校で「これが桜餅だッ」といわれてお手本を見せられながらつくらされたのが採点されるというセカイとは、かなり趣が異なりそうですのう。製菓だけを学ぶのと、(本式の)彫刻を学んだ人がお菓子の材料で彫刻するのとは、かなり違いますよね。いえ、桜餅には彫刻しませんけど、1枚たりとも完全に同じものなどない桜の葉の合格と不合格(※形が崩れたものなど)の判定など、なかなか美的なセンスが問われそうですよ。本当でしょうか。
・[3334]
> おやかたっ! そらからなないろの缶コーヒーがっ!!(ぶしゅーっ)そこをおさえろッ! …こうして夜勤のおともの肉だんご([3170])は冷めていくのでありました。
ま、そういうのが博士論文ですよね。このくらいポヤンとさせれば、いくらかは一般論じみてくる(=博士論文をことさらに特別視せず、博士論文に取り組まないかたにあっても、じぶんの立場での何かに置き換えての理解がはかどる=)のではないかなぁ。…本当でしょうか。
●目次をきちんと読み解いてから読む【帯あり】
本書とは、この図書でございます。(図書ではございますが、中身は博士論文でございます[3010]。)
・佐藤吉彦「第5世代鉄道 −知識創造による鉄道の革新」交通新聞社(2005年1月)
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007653030-00
https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/5159XVGXNNL.jpg
刊行から時期を置かずに買ったものの、いや〜、いきなり読んでもぜんぜんさっぱりですってば。まったく別の勉強を10年ほどしてから、ふと思い立って改めて読んでみると、10年前にはわからなかった細かいニュアンスがありありと伝わってきたんです。10年かかって、ぜんぜん鉄道とは関係ない勉強しかしていないんですけど、本書が読めるようになるという勉強はできていたんだなぁ、と思いました。(※あくまでナイーブな感想ですので、あしからず。)
(学生のキミにあっては)お高い(≒古本になっても安くならない&あまり古本として流通しないかもしれない)ので図書館で読めばよろしいとみなされる本ですので、あしからず。密林さんとも呼ばれたり呼ばれなかったりするかもしれない某ECサイト上では、レビューが0件です! わあぃ評価に値しないってことですか&違いますよね。ほとんどの読者は評価できなかったんですよ&軽々にレビューなど投稿するとえらい目に遭うとわかればこそ投稿できないんですよ。(※一般的な推察にございます。)
※「レビューが0件である」ということも、本稿をまとめなければとわたしを駆りたてる何かの1つにはございます。
・(先述)
> わあぃこんやのカレーは<けろくち>だぜ★。たしかに<けろくち>といったかんな。かってに<からくち>だとおもうやつが××なんだぜ★。…などと(略)。すみませんすみません××が××で(もっと略)。
> 本を紹介しさえすれば「書評」だなんて、とんでもない。「書評」は、書評を書く側こそが高名なかた(その分野の先駆者や、じゅうぶんな実績を有する専従の担当者)でないといかんという美学(※B)があってだなぁ(略)。このフォーラムでわたくしめが書籍を(長々と、主観を交えながら)紹介しても、それは「書評」には該当しませんです。
> まあ、<けろくち>のようなもので、書評と銘打っていなくても書評だと受け取られるのは***ですね。うん。でも、その逆はいけないと思うんだなこれが。(※表現は演出です。)
・このかた、「読みおわった読書家」らしいですけど付近
https://bookmeter.com/users/405738/reviews
https://bookmeter.com/books/1995943
> 読みおわった読書家 2年前
※『書評!』と同じで、『読みおわった読書家!』なんて表示されるサイトを使うのは恥ずかしいですよね。<それある〜!!
「感想・レビュー」は書かれていないようでした。もっとも、2015年にもなって新たに本書を読もうというのも、何かきっかけがないと起きないことですよね。このかたに「読め」といって渡したセンセイなどいらっしゃるのなら、センセイ、さすがですのう。そして、研究の分野が近かったり、少しでも重なるところがあると思える学生であれば、読めば必ず大いにくやしがる(?)という何かであると思います。その何か的なものを、ぜひとも研究にぶつけてください。そういう本なんですよ。
そして、(何らかの方法で)いま買っても2005年当時と同じ「帯」がついてくるのかは不明なのですが、当時の帯では▼エヌ村英夫センセイ(武蔵工大)、▼ケー東偉介センセイ(早稲田大)、それに▼テー本義也センセイ(早稲田大)のコメントがそれぞれ2行ずつ付されています。…きっと学位論文の審査委員ということですよね。(※所属は2005年当時。)
「おわりに」を読むとわかりますが、▼ケー東センセイが指導教員で、同じ研究科の▼ケー林センセイと▼エス山センセイに、同じ大学の▼テー本センセイを加えた4名で論文審査委員会が組まれたとのこと。▼エヌ村センセイも入っておられれば鉄壁だと思うんですけど、何らかのソレで、「帯」にはコメントいただけても学位論文の審査には加わられていないらしいとうかがえます。
※学位論文は、審査委員の顔ぶれも「『要チェック』の「ちぇけらー」!」ですぞ([3470])。いえ、既に学位が認定されているのですから、無関係の者としては「あら探し」をしようというのではございません。(修士論文よりも)新規性や独創性が厳密に問われる以上はどうやっても質にばらつきの残る(はかりきれない部分が必ずある)博士論文にあって、どのような指導の下で書かれ、どのような顔ぶれで審査されたのかという情報は、博士論文を読む(=通常、学位論文は引用や参考文献にはされないので、読むだけになるのがあたりまえではありますけど=)上で読者として知っておきたい情報であるのです。(=私見です。)
・紀伊國屋書店「目次」「著者紹介」は原文ママです付近
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784330822051
> 1 鉄道の構成と事業創造
> 2 東海道新幹線の実現と在来貨物鉄道の収縮
> 5 新鉄道システムの構想と知識創造
> 6 第5世代鉄道への道
> 著者紹介
> 1960年国鉄入社。1年間、大阪鉄道管理局で勤務した後、鉄道技術研究所(現、鉄道総合技術研究所)へ。
> 1987年日本機械保線(株)入社、常務取締役。
> 2002年、軌道システム研究所所長。
> 早稲田大学一理(土木)卒、東京大学大学院工学博士、筑波大学大学院修士(経営学)、早稲田大学大学院博士(商学)
単行本という体裁ながら、学位認定の条件とされる「博士論文の公表手段」ですよ的な空気が漂うことが、10年後に読むとわかるというものです。本件著者にあっては、論文審査に合格した後、本書の出版の予定を確定させることによって、正式に学位が認定されるというタテマエにあろうと推察されます。(実際の運用上は、そこまで厳密ではないかもですけれど。)
交通新聞社の編集者がどのくらい博士論文(の『単行本化』!)に慣れているのかはよくわかりませんが、本書の編集を担当できるとは、なかなかスバラシイですぞ、と思えてきます。
改めて本書の目次を(ウェブではなく本書で)しっかり眺めますと、本書ひいては本件博士論文の構造が見えてまいります。
※博士論文本体の目次はリポジトリで公開されている抄録で確認できます。(本として読むには冗長な)同じことを2回述べることになる論文での結論の章が、本書では省略されています。
・(第2部と第3部)東海道新幹線の実現と在来貨物鉄道の収縮〜鉄道技術研究所における貨物鉄道に関する研究
・(第4部)国鉄の技術的自立
・(第5部と第6部)新鉄道システムの構想と知識創造〜2025年の鉄道(第5世代鉄道と世界的製品としての鉄道)
先に工学博士、後から修士(経営学)そして本件論文で博士(商学)をばという著者ですから、本件論文内に「核となる論文」がわずか2編しか埋め込まれないような若者とは違って(!)、きちんと博士論文としてのまとまりがあり、あくまで博士論文として「第1部」から「第6部」まであるのだという印象が出てまいります。
それでも、大きく分ければ「第2部と第3部」で過去の研究体制について述べ、「第4部から第6部」で技術開発かくあるべしということを述べておられます。(「第1部」は、全体に対するイントロダクションとなっています。)
・「くやしがる」
http://thesaurus.weblio.jp/content/%E3%81%8F%E3%82%84%E3%81%97%E3%81%8C%E3%82%8B
> 唇をかむ
> 歯を軋ませる
> 猛省する
> 悔恨の念にかられる
> 名残を惜しむ
> 悔悟をかみしめる
> 無念千万 ・ 残念至極
「残念」とはいっても、近年『残念系!』のほうのそれではなくて、古典的「残念石」([3440])のような「念が残る」のほうですので、あしからず。じぶんはいったい何をしてきたのかといって猛省するという意味で、技術開発もしくはスパンの長い研究に従事しようとする者におかれまして本書は(キャリア上の)適切な時期に読まれたいと思いました。
※仮には、52歳(30年目)になってから読むのでは明らかに遅いと思います。逆に、早すぎるのも問題があり、少なくともじぶんの卒論をきちんと仕上げるか、卒論に不満があってM1になってから読むのがよいかなぁという気配ではございます。まともな卒論も書けぬまま卒業してしまったひとというのは、実年齢にかかわらず20歳くらい(大学の基礎科目まではばっちり!)だとみなされると思うのですけれども、そういうひとが本書を読むと、十中八九「満鉄はええのう(さっそく取材旅行だっ&時刻表の再現だっ)」「東海道開発線はええのう(さっそく記事化だっ&常磐新線もあるでよ)」で終わってしまうと思いました。たぶん本当ですから(=そういうライター氏が現にいらして仕事になっているというレヴェルで本当ですから=仕事としてはスバラシイ)、まあ、20歳のうちにはそれでもいいわけですから、きちんと本書を読めるトレーニングを積んでから再読いただくのがいいかなぁ、と、こういうわけです。(※それなりに実感をともなっての見解でございます。)
・(博士論文)「鉄道事業の革新的展開のための技術的ナレッジ・マネジメントに関する研究」早稲田大学(2004年2月13日)
http://hdl.handle.net/2065/48864
なお、佐藤氏の国鉄在職中の研究課題はまさに軌道ひとすじとの印象でございます。
・「輪重変動の立場から見たレール頭頂面凹凸の評価法」(1981年10月)
http://jglobal.jst.go.jp/public/20090422/200902059178833894
・「輪重変動に関連した軌道ばね減衰係数の同ばね係数に対する関係」土木学会(1995年9月)
http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00035/1995/50-4/50-4-0546.pdf
軌道に関して文句なしの専門性を有する同氏が、なお経営学そして商学を(管理職研修などでは飽き足らず大学院で)修めようというパワーのようなものには圧倒されましょう。
なお、わたらせ渓谷鉄道からの「DE10」については[3484]で述べたところでございます。その上で、佐藤氏が『輪重抜け』([3182],[3314])とは書かず「輪重変動」と、きわめて正確な表現をなさっているところに、これまた圧倒されようではありませんか。いかにも業界用語っぽい(≒初等教育からの理科教育の積み上げが感じられない=大学もしくは職場で皮相的に覚えただけでしょと疑いたくなる)『輪重抜け』などという表現は、少なくとも論文では使ってはならぬと…誰か言ってくださいオネガイシマス。(※きわめて恐縮ながら素人の私見ではございます。しかし、ここ、とってもナットクしかねるところなんです。)
・毎日新聞の群馬ー「なぜ復旧まで20日も? 枕木6万本を総点検 きょう全線再開の見通し」(2017年6月10日)
https://mainichi.jp/articles/20170610/ddl/k10/040/075000c
> 線路のゆがみを調べる軌道検測車(3両編成)の2両目の全ての車輪が、進行方向の左側に脱線した。現場付近は右カーブで、運転士が異音に気付いて緊急停止した。
> 「安全の確認のため、運休区間のレールを一つずつ徹底的に点検したところ、交換や補修すべき部品が見つかったため再開が遅れた」としている。運休区間の枕木約6万本を総点検した結果、老朽化やネジの緩みなどが見つかり、約440本を交換したという。
安全確保からの運転再開が優先され、ほかの箇所で脱線の再現実験ができるというようなことは(本件鉄道が現にサービスに供されている旅客運送事業である以上)ありません。東日本大震災で被災車両の貴重なログが上書きされて永久に失われたはなし([3358])も思い出されましょう。それがサービスというものではあるのですが、研究の機会が失われたようにも感じられるかもしれません。
> わ鉄によると、事故現場付近でも老朽化した枕木が見つかった。担当者は「レール部品の損傷が事故を招いた可能性もある」と推測する。
> 検測車は当時、規制速度を守って約40キロで走行しており、現場の最寄り駅を予定時刻通りに通過していた。現在、事故原因の解明に向け、国の鉄道事故調査官が現場の状況確認や関係者からの聞き取りなどを終え、分析を進めている。報告書がまとまるのは通常で1年ほどかかるという。
車両側の「DICS」に問題が起きていないか、E259系のほう([3135])も気にかけながら、それとなく心配してみます。車両側の情報システムについて、佐藤氏が軌道に詳しいのと同じ詳しさで、きちんと鉄道総研やJRの部長級のかたが理解できているかどうか、かなり気になります。支社レベルでは保安装置の挙動とその法的位置づけがしっかりとは理解されていない気配がある([3155])ので、それより上についても不安が出てくるわけでございます。(きわめて恐縮ですが、不安が払しょくされることを願っての言及でございます。)
●「鉄道技術研究所の変遷」から「知識の系統化」まで
以下、このフォーラムでの昨今の話題(=上掲)に即して…いえ、もっと素直にいいますれば、わたしの興味に忠実にページをめくって目に留まり「付箋を付した」箇所を挙げます。
・(104ページ)
> 外部導入人材による研究室長
> 外部導入人材による室長の数は昭和42年(1967)にピークを迎えて75.5%に達し、以後急減した。研究黄金時代の1960年(1935)代を通算すれば、その中核研究員の約半数が彼らによったと見ることができようか。
・(92ページ)
> 鉄道技術研究所の変遷(鉄道技研1957)
・(114ページ)
> 学習資源の蓄積と研究者数・研究費の関係
> 筆者の経験によれば、信頼に足る研究者を対象に考えるならば、社会と企業のニーズに応じて将来を展望して課題を設定し、これに必要とされる研究費が確実に提供されるならば、研究開発費に関しては多分最も合理的な支出になると考えられる。多くの場合、有能な研究者は必要とされる研究費が必要な時期に提供されないことを恐れて、過大な要求をし、これがまた多くの場合集中して与えられ期限内に使用しなければならないために、浪費される結果となる。一方で、必要とされる僅かな研究費が与えられないために、有能な研究者が不必要な業務にその才能をすり減らしている現実がある。これらに関しては、その認定を行う研究開発指導者の視野と研究者の実施の責任が問われるところである。
研究費といえば科研費だけかのような話ではなく、企業内での配分も含め、およそ研究費というものはこういう問題を抱えているのだという一般化された視点を得たいと思われてまいりましょう。また、研究者として自律的に課題設定を行えるというわけでもない企業内の研究開発では、とりわけ研究開発部門の管理職や役員の資質が厳しく問われることがわかります。とはいいましても、そのようにあくまで企業活動として一種『お行儀よく』取り組む(人が代替わりすれば申し送りする=ある研究課題について、誰でも取り組めるようにしておく⇒誰でも取り組める範囲内でのみ取り組みさえすればじゅうぶんであるというあきらめが出てくる)だけでは達成できない研究課題もあるのかなぁ、と想像してみるところではございます。(※あくまで想像です。)
・(244ページ)
> 研究陣容の育成
> 鉄道に関する研究が鉄道の事業体の中で行われ、また情報公開も限られてきたことに原因があるとは考えられるが、現在の高度に専門化した時代にあってはその専門家の育成の面から大きな問題である。(略)教育をする機会にその分野の知識を系統的に整理することをも可能とする。教えるということはそのために10倍の時間を掛けることであり、そのための思索により新たな問題を発見できることともなる。また、このような系統化の過程で多くの有意な人材を育成することができる。
しかし、中国にはそういう大学があるよ、といいながら、日本ではMOT(専門職大学院)だよね、という、なんだか矛盾した感じの展開になってございます。知識の系統化は、これだけで1つの専門性なのだということを著者が認めていらっしゃらない、(著者自身がそうしてきたということのみに基づいて)あくまで土木や機械や電気の専門家が、『第2のソレ!』的な意味でまったりと教員生活に移行しさえすれば系統化がなされるとの楽観的すぎる話になっているとも感じられましょう。(※佐藤氏にはできても、ほかのひとにはできないかもしれないということを考えないといけませんよ、の意。)
・[3046]
> 「量」だけで「ゆとり」と断じることができない面もあります。現在「ミニマムスタンダード」と呼ばれているように、一度、体系的に(歴史的には「系統化」と呼ばれたようですが)構築された漏れのないカリキュラムから、体系(学習内容の単元(要素)間の関係=一種の「リンク」)を保ったまま、適度にサンプリングして「縮退」することは、「質」を保ちながら「量」を減らす合理的な方法です。他方、学習内容の体系が明らかでないまま、経験的にアレとソレとコレは外せないな的な「鉛筆」で決められたカリキュラム(そうして決めるしかなかった時代背景)のもとでは、同じ「量」であっても、圧倒的に「質」が低いとみなすことも可能ではあります。
・[3192]
> 全国あまねくすみやかに電化を進めるべしと(『上』から)いわれて「(背筋を伸ばして)ハッ!(マヨネーズはホワイトに限る!)」という「電化課」にあって(この課がいつからいつまであった課なのかも知りたくなってきます)、『課長未満』のかたが書かれている文章ですから、▼業務の遂行上、注意すべき点について網羅的に示される一方、▼原理について正確な表現を期すとか、▼今般取り組まない課題や未知の課題を念頭に置いた中立的な体系化(系統化)などはなされていないことが(あたりまえですが)わかります。
> ▼どうしてここで「カドミウム銅ヨリ線」を一種「ご指名!」で書いてしまいますかねぇ。「わあぃトランジスタ! そにートランジスタだーい好き!」([3178])…いえ、いまでいう「わあぃSiC素子!(略)」(同じく[3178])のソレだと感じられます。
> ⇒「今後とも最新の材料を遅滞なく採り入れ、特性の向上に努めることとする。直近ではカドミウム銅ヨリ線が有力であるがこれに限らない。」というような表現…いえ、文書の上だけでなく業務の上でもそういう発想が求められるような組織の『あり方』であってほしかったかなぁ、と思われましょう。
> ▼あくまで形式的には「低電圧リレーで遮断」→「支障を来す」→「保持すべき最低電圧」という順番で決まるかのような文章になっていますが、全体をきちんとわかってから書いたなら、はたしてこのような文章になるでしょうか、と、大いに疑います。(
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