・【池袋駅】いま問う「導入済線区」「導入予定線区」(2003年11月)のココロ ・〔フレッシュおはよう東日本〕返却回送:「千葉駅の発車ベル廃止」の顛まつを探る(推定) ・「JR貨物」(1987年4月)を読み解く ・「並行在来線」と「JR貨物」(再) ・表61.11.-1 1986年は昭和61年です(仮)
(約22000字)
「貨物線のいま(東京圏の路線網の「ポテンシャル」を探ります。)」と題しながら、13回目にしてようやく、『ATOSの話題!(トピックス!)』っぽくなってきたようです。…そろそろ最終回を迎えられるのかもしれません。それにしても「ATOSの話題」って、身近な…いえ、どこからどこまで広がればいいんでしょうかねぇ。(談)
●【池袋駅】いま問う「導入済線区」「導入予定線区」(2003年11月)のココロ
[3464]の続きでもございます。
・JR East Technical Review「運行管理システムの変革」(2003年11月)
https://www.jreast.co.jp/development/tech/pdf_5/12-20.pdf
> ATOSの導入範囲
> 東京圏の主要線区の大部分が含まれます。逆に言えば、東京圏の線区はほとんどが時代遅れの非システム化線区であったということになります。
さらにいえば、「ATOSの導入範囲」に挙げられた「導入予定線区」のすべてが、ATOSの導入直前まで「(完全な)非システム化線区」であったとは述べられていないことに、いまさらながら気づきます。
埼京線などの線区が「導入予定線区」に追加された後の表ですが、埼京線には開業時からPRCが設備されてあったのであって、埼京線の開業時には手つかずだったとみられる池袋駅に注目すればよかったんですね。埼京線のPRC(=「わあぃ消えゆく反転式発車標っ。わあぃ通知合図器は出発時機表示器の元祖っ。」の意)ばかりに目を奪われて、何もわかっていなかったなぁ。…ギクッ。(きわめて恐縮です。)
・このサイト「わあぃ消えゆく反転式発車標っ。わあぃ通知合図器は出発時機表示器の元祖っ。」のイメージです(2005年8月12日)
http://atos.neorail.jp/atos2/state/saikyo.html
それはそれとしてトピックではあるんですけど、本質ではなかったなぁ=すなわち、『事実上』の(そういういいかたを公式にされるのかは不明ですけど、実質の意味として)「池袋駅のシステム化」であったのだと、なるほど(※立川駅と尻手駅それに浜川崎駅によってそこそこ合理化が済んでいたとみられる=)南武線より優先度が高いのだと(さらにいまさらながら)ナットクできそうです。当然ながら、旅客列車の運行管理としては上野駅と大宮駅が先に「システム化」されていないと、「池袋駅のシステム化」には着手できない(≒外2駅の進捗を待たないと効果が出ない⇒急がずともよい)と想像できます。(いま明らかに想像です。)
・このサイト「池袋駅・配線変更で電光掲示板移設」(2004年6月19日)
http://atos.neorail.jp/atos3/topics/topics_22.html
埼京線は埼京線、山手貨物線は山手貨物線といって「線区」に目を奪われて、最も重要な池袋駅についてきちんと理解しようということがおろそかになったとわかります。…ギクッ。
※「(貨)さいたま新都心駅」については[3318],[3379]を参照。池袋駅というのは、仮には▼埼京線の指令、ならびに▼さいたま新都心駅(貨物線)との間で「電話!」しながら列車を出発させるお仕事であると曲解してみます。さいたま新都心駅としては、(与野駅を介して)▼武蔵野線の指令、それに▼大宮駅と「電話!」…あくまで概念的な想像ですので、あしからず。これが「電話越し!」でなく「同じ部屋で隣の席!(マウスも使えるよ☆)」になったらスバラシイですよね。それが東京圏輸送管理システム(ATOS)と呼ばれるプロジェクトなんですよ。…その発想はなかった!(棒読み)
※工事などのための線路閉鎖については、「(工事の開始と終了を)連絡する相手がどこか」という違いしかないので、特に着目点はないと判断します。…そんな雑な理解でいいんでしょうかねぇ。(それを早合点というんです&恐縮でした。)
「池袋駅のシステム化」に「着手」されたのはわかったんですけど、「完了」のほうって、されたんですかっ&えーっ。「ATOS導入」のよくわからない(という印象が出てくる)ところは、ここに集中すると思いました。(※個人の感想です。)板橋駅や十条駅のほうなど眺めながら、ずっと「続いてまいります」…じゃなくて、「システム化しています...(工事中※)」だという認識のほうなど…本当でしょうか。(あくまで推測です。)
※ここでいう「工事中」とは、**電気システム開発工事事務所みたいなの的な意味で何かねアレかねキミぃ(略)超長期のプロジェクトとして「仕掛中<しかかりちゅう>」ということをいいたくて使うことばであります。特に何もしていない(ように見える=ほかのプロジェクトや作業の進捗を待っている)期間が過半であっても「工事中」と表現していいんですよ。(メッソウではございました。)
※「線区中央装置(線区別ホスト)」の稼働(=指令業務における使用開始)という明確な期日(日付)はあるので(=交通新聞で報じられたりするので)、漠然とした意味では(あるいはSIerとしての単発の「案件!」としては)そこで「導入完了」とみればじゅうぶんではあるのですが、そういう漠然とした見かたしかしていないと、あとから十条駅や板橋駅を見たときによくわからなくなるということがわかります。
> 大規模駅用に専用型の電子連動装置を導入して進路制御の自動化は進めてきましたが、全自動化をめざした装置ではないため基本的な仕組みは人間系依存で変わっていません。
「専用型の電子連動装置」というのが「結線入力式」([3296])ということをいっているのか、専用のプロセッサ(RISCチップ[2930])を駅ごとに起こす(えーっ!!)ようなことをいっているのかまではわからないことがわかります。(棒読み)
> 2002年の状況は、PRC線区が実に71%に増大し、CTC線区は11%で非システム化線区は18%にまで減少しています。92%あった手動操作線区は29%にまで減少しており、このうち6%は常磐線、東北・高崎線のATOS化等既にPRC化の工事が進められていますので2〜3年後には23%にまで減少します。
「92%あった手動操作線区」とは、1987年における「非システム化線区」と「CTC線区」の合計ですね。この時点での「PRC線区」というのは埼京線(1985年)だけとみられますが、上野駅や松本駅で「まつもとぉ〜まつもとぉ〜まつもとぉ〜」といって、どこに計上されるんでしょうか。いえいえいえ、上野駅や松本駅を指して「専用型の電子連動装置」といっているのかなぁ、とも思えてきます。本当でしょうか。
※あくまでお客さま側から見ますと、▼上野駅では電光掲示板の制御のため、まぎれもなく電子的に(当駅の進路制御のためのダイヤという)データを持っていたとわかりつつ、▼松本駅で「詳しい自動放送」があったとすれば、そこにもまた電子的に(同)データを持っていたことがうかがわれます。
※かといって、(反転式でも何でも)発車標がありさえすれば電子的なデータを融通しあうシステムが必ず組まれているかといって、いま明らかに、そうではございません。連動装置と発車標が各々に、じぶんの装置を(計画ダイヤに従って)順序よく切り替えるためのデータ(=プログラムあるいはマークシート![3304])を持っていたとしても、その駆動を電気的なしかけ(⇒同じく[3304])で単に同期させているだけという状態では、ダイヤが乱れると手動操作に逆戻りし、手動では操作しきれない発車標などは止めてしまって「調整中」になっていたと、こういうわけです。(あくまで一般的な推定です。)
・古き良き時代の「プログラム」のニュアンスを継承した用例です
http://manual2.jvckenwood.com/audio/mobile/hifi/B5A-0208-dom-jp/GGADSYdtltalbt.html
> プログラムした順序で曲が再生されます。
> プログラムに曲を追加する
> プログラム内容が消去されます。
> プログラムをリピート再生することもできます。
※現代の水準で新規「プログラム=イコール=プログラミング言語で書くやつ!」とまで短絡的な曲解をしていては、決して理解できませぬぞ。もっと、もとの英単語を原語のニュアンスで丁寧に理解できるよう促すのがせんせいの役目だなぁ。…実にお役目だなぁ。(違)ヤダー! 「お役目」([3403])とかいっちゃうひと、か・わ・い・いー。…そっちは「お茶目」ですよぉ。(棒読み)
このような1987年(民営化直後)の状況から「中央線ATOS」(1997年3月)までの間の10年間に何がどう取り組まれたのかといって、▼立川駅改良工事(1988年)からの国分寺駅2面4線化と中央特快(1988年[3432])ならびにATS-P導入の前倒し(1988年)、▼千葉駅にPRC?(1988〜1991年?)、▼新宿駅と成田エクスプレス(1991年[3463])、▼相模線の電化(1991年)と横浜線(橋本駅)、▼大船駅と湘南貨物駅(廃止後の棒線化)・根岸線(時期不明[3396])、▼成田エクスプレスと「SN95」(1995年?[3352])、▼西船橋駅と東葉高速線(1995年[3321])、▼八高線の電化(1996年)と青梅線(拝島駅)、それに▼南武線(立川駅構内の複線化1999年)という駅や線区がおぼろげに浮かび上がってきたところでありました([3396])。
・「お役目」
http://thesaurus.weblio.jp/content/%E3%81%8A%E5%BD%B9%E7%9B%AE
https://www.tsubasabunko.jp/bookdetails/index.php?pcd=321502000284
> 危険なお役目だって、みんなのためにがんばります! モモの気持ちに変化が起きる、ドキドキの第3巻☆
・現代の水準で東急「プログラム」の1例です
http://www.kidsbasecamp.com/files/cms/company/kbc/service/program_002.gif
http://www.kidsbasecamp.com/service/program/index.html
> キッズMBA(お仕事と社会)
うわぁ…末恐ろしいって、こうですか? わかりませーん!(棒読み)
・ウィキペディア「南武線」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E6%AD%A6%E7%B7%9A
> 前述した通り快速と各駅停車との間隔が開くなどしたため(略)1978年(昭和53年)10月2日ダイヤ改正で廃止された。旧国鉄によると、旧型車から101系への車両置き換えが完了して各駅停車の速度が向上したことが理由とされた。
なぜ時隔を詰められないかといえば、貨物列車が走るからですね。貨物列車と快速で「速達スジ!」の奪い合いになったという構図が浮かびます。そのような制約が生じるのは「あたりまえのこと」ですが、ここで時隔が優先されて旅客の速達性が犠牲にされたというのは、(通時的には)正しい判断とはいいきれず、実際、快速運転は(立体交差化にあわせての追い越し設備の整備を待つ形で)復活しています。
南武線は、(とある貨物列車の運行経路にあって)代わりが利かないという意味で、まぎれもない貨物線です。貨物列車の運行(≠運転にあらず)は特急列車と同じく、『CTCみたいなの』(といいますか、立川駅と尻手駅と浜川崎駅の間での連絡手段といいますか)を必須とするとみられます。
そして、なぜ快速運転が中止されたままだった(=205系電車の導入時などに再開されることがなかった)のかといって、国鉄の分割民営化に際し、南武線にかかる『CTCみたいなの』の維持費用を貨物の負担としたかったのではないかと思い至ります。南武線の旅客列車がすべて各駅停車であれば、『CTCみたいなの』は貨物列車のための設備であって、貨物側の負担とすべきだという理屈が立ちそうです。本当でしょうか。(まったくの推測ですので、あしからず。)
・Google ストリートビュー 「(客)南武線」付近
https://goo.gl/maps/jrQDvHeKtPC2
https://goo.gl/maps/uHJwsimHnvA2
https://goo.gl/maps/p4EgvQGPcc52
https://goo.gl/maps/bFx9GtWSRpE2
https://goo.gl/maps/HCxNFqoeuvv
https://goo.gl/maps/ghxUjz1CtYu
https://goo.gl/maps/UHYLFebBMGr
※ご注文は以上で…じゃなくて、若葉マーク18枚、もみじマーク2枚でよろしかったでしょうか。わあぃニッポンレンタカー♪…じゃなくて、南武線の軌道の保守って、ものすごーく細切れにするんですかねぇ(この「機械」を留めておく場所があちこちに要るんですかねぇ)。本当でしょうか。
旅客側としては、▼(武蔵溝ノ口・)武蔵中原駅([2410],[3035])、▼(尻手・)矢向駅、それに▼(宿河原・)登戸駅(中線)などだけである(いずれも貨物列車は本線を通過するのみ)といって、▼川崎駅と立川駅は(運行管理上)南武線ではないとわかります。そして…古い機器箱は錆びるまで放置しないで「『第K条J項のi!』の規定により博物館送り!(一定の条件で自動的に博物館送り!)」([3460])に処しましょうよぉ。…えーっ。
※そして、旅客側として駅の数を数えると6駅ほどあるように思えても、信号扱い上、6箇所もありますかねぇ。翻って、なるほどATOS導入前にあっても南武線はそこそこ合理化されていたのではないかとうかがわれてきそうな感じなのでありました。少なくとも武蔵中原駅の扱い所でPC(※マウスはありません)を使っていたくらいには、新しかったんですよ([3035])。
・Google ストリートビュー 「東京貨物(タ)駅構内本部」付近
https://goo.gl/maps/zk2E6VEeguE2
・(公社)鉄道貨物協会(RFA)「東京貨物ターミナル駅の視察」ほか
https://www.rfa.or.jp/guide/activity/pdf/1410.pdf
> 開業 1973年10月1日
> 社員数 74名(管理9名、事務1名、積付検査23名、入換業務41名)
事務1名! …といって、とっても頼りになりそうな熟練の事務員さんが腕まくりしてそろばんしてそうなイメージなんですけど、それはあくまでイメージです。(受付とお茶のひとってことではないですよね、の意。)
入換といって、41名のひとがいっぺんに出づっぱりというわけではなくて、何交代かしてるんですよね、の意。(メッソウではございます。)そして、根岸線と同じ1973年ですから、根岸線と同じくらいの合理化(※なんとなくCTCっぽいの=東京貨物ターミナル駅でそこら中の在線が見えるんでしょ=たぶん)は当然のように図られた上での41名であるといって、その規模に圧倒されましょう。…圧倒的じゃないかっ。(※恐縮です。)
・こっ…これはさすがに古すぎる付近
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2c/cd/64d3ea4c78e862e2de2871991fb21d02.jpg
ま、世間一般ではこんな感じのソレを引きずっていたころからいち早く(国産化すら待たずに)IBMの電子計算機を導入してきたのが貨物鉄道殿なのですよ(⇒「貨報集計用電子計算機」[3177])。
・Google ストリートビュー 「浜川崎商店」
https://goo.gl/maps/UHjtPHgivUU2
https://goo.gl/maps/h2KLj2We5V92
http://owat.exblog.jp/10464968/
https://tabelog.ssl.k-img.com/restaurant/images/Rvw/18224/18224588.jpg
> コカコーラ
> パン・弁当
※現在は「パン・弁当」は白塗りされています。わあぃコカコーラ。どんなに古そうでも戦後だよね。
> おいしいお酒
> 和風浜川崎
…わっ、わふー!(略)…にょほほほっ。そして、浜川崎駅の周辺では荷役っぽい事務所しか見当たらない(=でっかい大きな信号扱い所があるようには見えない)ことからも、CTCっぽいのを想像できそうですよ。(あくまで想像です。)なにしろ1973年なんですから、新しいんですよ。
・「出づっぱり」
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/151876/meaning/m0u/
・(一財)日本清涼飲料検査協会の見解です
http://seiryouken.jp/yomoyama/yomoyama_12.html
> コーラ飲料が再び日本にやってきたのは、終戦の1945年(昭和20年)10月アメリカ軍の兵隊と共に上陸してきたのである。しかし軍需品並みの扱いで米軍基地内で製造されPXで販売されていたという。当時、コカ・コーラ、ペプシコーラ等の外国系コーラといえば知っている者は直ちにアメリカ兵が愛好していたコーヒー風の清涼飲料を想い出すだろうが、しかし、駐留軍関係に無縁な一般の人々は、名前だけは知っていてもどんな飲み物かはいっこうに見当がつかなかったに違いない。
> 1956年(昭和31年)に再度、輸入許可申請が提出され、政治的、行政的にその可否が検討され、結局、同年11月1日、在留外国人、観光外国人を対象として無酒精飲料の原液として1957年(昭和32年)度分として年間80,000ドル(190m140万c/sといわれる)がコカ・コーラ、同時に申請されていたペプシコーラに40,000ドルづつ外貨の割当てが行われるとともに、特定需要(外国人)以外の流出を防止するため、一定の条件が付されてコカ・コーラ、ペプシコーラが日本での製造販売の業務開始となったのである。
> 貿易の自由化の進行に伴なって1961年(昭和36年)10月7日からコーラ飲料用調合香料は輸入自動承認制品目に組み入れられ、名実ともに完全な自由化品目になったのである。
> 輸入の自由化に伴って、コーラ原液の輸入の外貨割当に際して厳しく制限されていた販売箇所や宣伝、広告の制限も撤廃されたので、コカ・コーラ、ペプシコーラ両社は、それぞれフランチャイズ方式のもとに全国にボトラーの展開を進めた。コカ・コーラ社は1963年(昭和38年)に、ペプシコーラ社は1968年(昭和43年)に全国展開を完了している。
1961年から1963年にかけて赤い看板があふれたという理解でございます。おお、これをまねればタミヤの看板([3490])やキーコーヒーの看板([3314])も実現されてくるのだと、たぶんこういうわけです。
・「腕抜き」
http://kininarukotoba.hatenablog.com/entry/2014/04/20/110911
> 「指貫き」というものを知らなければ「腕貫き」で該当品を想像することもできないだろうと思う。
> 「貫」に「とおす」という意味があるので、「指をとおすもの」「腕をとおすもの」ということなんだろう。
こういうものの名前も、文字で書くことはめったになくて、口頭ですら「(実物を持ってきて)コレ」「(実物を知っているという前提で腕まくりをして見せながら)アレ」で済んでしまうということがありそうですよね。あえて文字で書くならどの漢字で書けばいいのかなぁ、といって、悩まれたりしなかったでしょうか&本当でしょうか。(あくまで想像です。)
●〔フレッシュおはよう東日本〕返却回送:「千葉駅の発車ベル廃止」の顛まつを探る(推定)
・「顛まつ」⇒「前回までのあらすじ」
http://thesaurus.weblio.jp/content/%E9%A1%9B%E6%9C%AB
余談ですが、「〔フレッシュおはよう東日本〕」などと、いつかどこかで『音片!』を並べさえすれば「放送!」できそうなタイトルで脈絡なく述べてきたことを、少しまとめておこうと思いました。(きわめて恐縮でした。)
・[3396]
> 「津田沼駅、成東駅、拝島駅」については、青梅線CTC(1971年)、千葉駅CTC(1972年)の更新時期やPRC機能の付加などに際しての導入とみられ、(1990年代の)同じ時期に同じ仕様(少なくともメロディーは同じ)の装置が納められたのではないかと容易に想像されましょう。
・ウィキペディア「京浜東北線」「根岸線」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%B5%9C%E6%9D%B1%E5%8C%97%E7%B7%9A
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B9%E5%B2%B8%E7%B7%9A
> 1988年(昭和63年)3月13日:都心部(田端駅 - 田町駅間)で日中の快速運転を開始。
> 1988年(昭和63年)9月22日:205系が運用開始(横浜線からの乗り入れ列車)。
港南台駅で使われていた「東海道型放送!」は「まもなく」「…大船行きが、到着します」といっていて、いかにも津田沼駅と同じ時期の(駅)PRCですね、わかります。(えっ、それでわかるんですかっ、の意。)
根岸線の全通は1973年で、1971年の青梅線、1972年の千葉より新しい上に、貨物列車が運行されるのですから、どこに明記されていなくても、事実上のCTC(ごくわずかな区間を大船駅の信号扱い所で見渡せるだけくらいであっても)が整備されないはずがないと決めつけるものであります。むしろ、磯子と根岸にそれぞれ大きな扱い所がばらばらと置かれるとも想像しにくいという、そちら側からいってもCTC(のようなもの)だろうと想像したくなるわけです。(あくまで決めつけは想像です。)
横浜支社としては(大船駅や根岸線も横浜線と同時に)1991年かなぁ。1991年より前に「東海道型放送!」は導入されていないですよね&だからこそ(時機を逃した観のある=1988年の時点で何がしかの設備が急がれてしまったとみられる)千葉駅は「爆音でささやく」…じゃなくて、『無音でさけぶ!』ことになってしまったんですね、わかります。(あくまで外形的な推定です。)
※平成元年(1989年)の「列車出発時の整理ブザー及び車掌の手笛廃止」(銀座駅、霞ヶ関駅、茅場町駅、永田町駅)については[3453]を参照。
※1988年の千葉駅というのは、1985年の上野駅と同じの(!)で電光掲示板(しかし英字との交互表示や、改札口ではスクロール表示もできるよ☆)だけで自動放送はなし!(=上野や松本のひとに千葉駅用の文言を吹き込んでいただくには及ばない⇒既に新宿駅と新幹線に向けて「千葉テレビのひと!」を内定して、四ツ谷や丸の内にお呼び立てして内々に駅自動放送用のライブラリの録音を始めていたのではないか?⇒正式に千葉テレビを退職いただかないとJRとしては使用開始できないっ…あくまで一般的な商慣行からの勝手な推定です)…本当でしょうか。
※この何らかの設備後の千葉駅にあってなお、あたかも手動操作しているかのようにすばやく信号が変わることがあったといって、仮には「全体としては駅PRCを動かしながら目視確認によって手動操作(『早送り』みたいなの)をすることで間合いを短縮!」などと(略)これって、京急電鉄殿そのものですよね。京急の指令をほめたたえるなら千葉駅も同じようにほめたたえないとおかしいですよね&そこんとこどーなんですかっ。これはもう、大いに聞いてみたいなぁ。…みなさま、いかがお考えですか?(恐縮ではございました。)
※「SN95」([3196],[3383)といって本当に1995年だとしまして、千葉駅は先行して電子的な情報通信環境になっていないといけないという順序関係があることがわかってきます。▼まず千葉駅、それに新宿駅や錦糸町駅(両国駅)、▼次に「SN95」と呼ばれる回線、▼仕上げに船橋から蘇我までの各駅(幕張電車区を含む)であろうと、こういうわけです。(「SN95」がリプレースされた後のシステムの構成図=前掲=ならびに、快速ホームの自動放送の種類からの推測です。市川駅以西は「南東京!」なんですね。わあぃムーンリバーの著作権っ。)
・[3155]
> > 国土交通省にいたっては、「著作権法上の問題が出てくるとは知らなかった」とのたまったそうな・・・。
・[3205]
> …あのっ! メロディーICの「開発の命が下って」選曲に悩みながら「ご自慢のカラーテレビ!(この前やっと買うたのよ、まだヒミツにしといてぇな)」を選局したら「みんなのうた」で「アマリリス」がっ…などと、妙に生々しく想像しちゃったじゃないですかぁ。やだなぁ。
> メロディーICというものは、だいたいそのくらいの時期に登場したもので、その時点でメロディーICに採用される確率の高い楽曲として、「テレビをつけたら流れてくる楽曲」というのは大いに候補になりそうだと早合点されます。(あくまで早合点です。)とはいえ、電気屋さんなら誰でも「耳コピ」できるかといえば無謀で、▼曲を決めてから「ご指名」で楽譜を買ってきた、あるいは、▼現に容易に入手できた楽譜集の中から選曲した、どちらかかなぁ、とも思われます。
> ICのメーカーとしても、やはり電気屋さんの仲間ではあるので、「手元になんとなく楽譜があった」(きわめて狭くは「子どもの音楽の教科書を借りてきた」)とか「社長がいつも名曲だといってるヤツ」とか、そういう、あたかも「なんでもいいや」…いえ、「これでいいや」的な選曲をしたのだろうといって決めつけたくなります。本当でしょうか。
音楽に関する知見がまったくないのに「メロディーIC」をつくらされるひとのふびんなことよのう。(責めているわけではありません、の意。)
> 仮に、▼著作権が云々、▼技術上の制約で曲調が云々、といえば、「これからはメロディーICの時代だっ! 21世紀にふさわしい楽曲を委嘱して制作してもらおう!!」といって、きわめて大ざっぱには冨田さんや冨田さん、それに冨田さんなど(もしかすると武満さん)に委嘱されるという「『X』な開発ストーリーのひそみ!」的なものが(当時)展開されてもよかったのではないか、とも素朴には思えるところです。
「作曲家の先生に頼むなんて!(おそれおおいっ)」との「ウチら17さい!」的なマインド([3096])に問題があるんですよ。思いきって(※)頼んでみたらノリノリで作曲してくれたのがすぎやまこういち先生である([3403])と、こういうわけです。(見解です。)伊福部センセイの叔父さま([3098])も参照。
※かなり「思いきった」とのことらしいですよ。えー、どれどれ?(略)そういう「思いきり」のためには若さも役に立ちますよねぇ。しかし、若いといっても(マインドのようなものが)「17歳」ではなく「21歳くらい」の至り的な何かですよねぇ。そこには大きな違いがきっとあるんですよ。やっぱり「17歳」ではできないことかなぁ。(あくまで私見です。)
・ウィキペディア「伊福部達」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E7%A6%8F%E9%83%A8%E9%81%94
・(♪〜)新しいカドカワをつくろう(違)
http://www.kadokawa.co.jp/product/321603000857/
> 音楽は音楽以外の何ものも表現しない
> 現代生活と音楽
ちゅーりっひぃ〜…じゃなくて、まだ読んだことがないんですけど、(角川ソフィア文庫で)新装されたとあらばよい機会だと思って一度、読んでおきたいなぁと思わされます。お問い合わせはいますぐ!(違)
・(たぶん再掲)ウィキペディア「立川駅」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E9%A7%85
> 1999年(平成11年)10月24日 - 南武線ホームに9番線新設。
> 1999年(平成11年)12月4日 - 「成田エクスプレス」高尾駅発着列車の運行開始。上下1往復停車。
なるほどねぇ! …実になるほどねぇ!!(棒読み)このサイトの年表を『大巾増補出来!(堂々完成!)』できそうな気がしてきます。投げ出さずに勉強してきてよかった…本当によかったっ。(棒読み)
そして、究極の余談ではございますが、千葉駅(3〜10番線)に接近放送(入線放送)や到着放送(駅名連呼)は、ありますよ! 駅員さんがマイクで放送、してるんですよ。▼自動化されているかいないかと、▼接近放送があるかないかというのは別のことだという理解が欠かせません。(恐縮ではございました。)
●「JR貨物」(1987年4月)を読み解く
・ウィキペディア「国鉄分割民営化」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%84%E5%88%86%E5%89%B2%E6%B0%91%E5%96%B6%E5%8C%96
> 分割方法
> 特に複雑に線路が絡み合い運行系統が設定されている本州については、2分割、3分割、4分割、5分割など分割する数についても検討され、それぞれにさらに分割点を様々に変えた検討がなされた。分割数を増やすと境界が増えて問題となることや、(後略)
> 考慮しないとされたことは以下の通りである。
> 上下分離方式を採る。
> 新幹線を別会社にする。
> 都市交通のみを別会社にする。
見かたを変えれば、貨物については「上下分離」で「別会社」で「旅客とは別会社」ということになっているわけです。
ほとんどが「とある本」からの引き写しなのかなぁ、とも思いますが、貨物に関する記述がほとんどありません。
> 大阪鉄道管理局管内にある東海道本線と山陽本線にまたがる複々線区間は、外側線(列車線)を本社権限(主に長距離輸送を担う特急や貨物列車)で、内側線(緩行線)を大阪局権限(主に近郊輸送を担う快速や普通列車)で、それぞれが列車の設定を行っていたため、それぞれの線路に速度の違う列車が走行するなど非効率なものであった。
> 民営化が事実上決まった後に実施された1986年11月1日ダイヤ改正以降、各地域の特性に合わせたダイヤの設定や新型車両の投入が行われたほか、縦割り的なダイヤ設定の解消が図られた
表にしてくださいオネガイシマス。
■表61.11.-1 1986年は昭和61年です(仮) | 特急 | 貨物 | 快速 (普通) | 普通 (国電) | | | | | | 速度 | 高 | 低※1 | 高 | 低※2 | 片道キロ | 長距離 (101キロ以上) | 長距離 (全国) | 中距離 (100キロ) | 短距離 (50キロ) | 電流 | 大 | 大 | 小 | 小 | 通過トン | 少 | 多 | 中 | 中 | 時間帯 | 昼 | 昼夜 | 昼 | 終日 | | | | | | | 本社 | 本社 | 大阪局 | 大阪局 |
※1 機関車の特性に由来する
※2 駅間距離の短さに由来する
あくまでウィキペディアの記述に沿った表に、「電流」「通過トン」を追加した表です。「電流」も考えると、必ずしも不合理ではなく、むしろきわめて合理的ですらあるとも思えてきそうです。なお「片道キロ(※実際に直通運転する列車の始発駅から終着駅までの走行キロ)」は便宜的な項目名です。
外側線と内側線で、速度(⇒架線の摩耗)と通過トンを平準化した上、列車回数の多い国電を内側線に入れることによって沿線の騒音を低減(しようと)している(⇒杉並区ではそうなっていない[3195])とわかります。その上で、変電所の監視に特別な態勢を要する(とされる[3223])機関車けん引列車について、国電とは分離された外側線に回そうというのは合理的でありましょう。
なるほど「長距離特急列車(電車)」は(新幹線もあるのだから&まだ延びるのだからといって)削減されて「みなし貨物列車」としての寝台特急(機関車けん引列車)は(すなわち貨物列車の維持にも役立つといって)維持されるというのも、とってもナットクですよ。ええ。
もちろん、後年のダイヤ改正は、▼架線や軌道の高性能化・高耐久化・省力化、▼貨物列車の高速化、▼電車の省エネ化、▼変電所の更新、▼新型電気機関車という順で、地道な技術革新の積み上げがあってこそのものであることが容易に想像できましょう。直接には「民営化」とは関係のない施策展開であるとも思えてこないでしょうか。本当でしょうか。
・(参考)「片道の営業キロが100キロまでの普通乗車券」の用例です
https://www.jreast.co.jp/kippu/05.html
・「国鉄改革について」(2007年3月27日)
http://www.mlit.go.jp/tetudo/kaikaku/01.pdf
> 貨物鉄道については、全国にまたがって列車が運行されているため、地域分割は行わずに全国一つの会社とすることとし、レールは貨物専用線を除き旅客会社から借り上げ(旅客列車と混在)、貨物鉄道会社は車両と貨物施設を所有して輸送を行うこととなった。
この簡潔な1文でいいきっておられます。ウィキペディアとしても、いくらつまらない1文だと思えたとしても、きちんと引用しておくべきではないのかなぁ。(個人の見解です。)
> 旧国鉄の貨物輸送についても1955年までは、全貨物輸送の1/2以上を占めていたが、その後は産業構造の変化や自動車輸送の増加により、鉄道による貨物輸送量そのものも減少傾向にあり、シェアを大幅に落としていた。
その後の「回復」には、貨物会社が「身軽」であったことも寄与しているとみられ、単に「状勢の変化」や「貨物会社の努力」だけに帰することなく見渡してもらいたいかもですよ。
・時事通信(2017年3月29日)
http://www.jiji.com/jc/article?k=2017032900677&g=soc
> 変化に対応した30年=****JR貨物社長
> 「人流」と「物流」は全然違うので、(旅客部門と)分離して意思決定できるようになったのはよかった。旧国鉄の末期は(貨物分野の)設備投資がゼロに近かったが、民営化後は機関車や貨車、コンテナを技術革新などで新しいものに変えていく30年だった。(コンテナ貨物輸送の)生産性も3割増やした。30年たってやっと、貨物鉄道事業の黒字のめどが付いた。
> JR貨物は本州旅客3社と同様に旧国鉄債務を背負う一方、線路は持たず、線路使用料を支払えばよかった。整備新幹線開業で並行在来線が第三セクター化しても、線路使用料の仕組みは維持してもらわなければ、JR貨物の株式上場はおろか、貨物会社としての役割も果たせなくなる。
・東洋経済オンラインさん(2015年10月2日)
http://toyokeizai.net/articles/-/86425?page=3
> 国鉄改革法は「明確な経営責任の下において自主的に運営されること」を目的の一つとしており(国鉄改革法第6条1項、第7条1項)、「いつか来た国鉄破綻の道」を再発させることなく、日本の基幹的鉄道輸送を維持発展させるために、JR会社法によって株主である国の介入のあり方を整理したと考えられるのである。
> 廃止第一号となった国鉄白糠線(北海道・白糠―北進・33.1km)の延伸開業などは好例であろう。白糠線は1964年に白糠―上茶路(25.2km)が部分開業した。国鉄は予定されていた上茶路から先の延伸を赤字必至のため拒んだものの、政治的な理由で1972年に北進までの7.9kmを延伸開業することになる。当時は国鉄再建の一環として国鉄の赤字ローカル線廃止が提起されていたにもかかわらずである。
このページ(3ページ目)を明快に書かれる力量をもってすれば、これこそを本題にして1ページ目に持ってきてタイトルもしかるべきものに変えるということすら期待できるのかもですよ。ちょっともったいない感じですね、わかります。(個人の感想です。)
> 本州三社と三島会社やJR貨物との間には、JR会社法の適用や経営基盤において発足時と比較してもさらに大きな差が生じてしまっている。
> JR北海道、JR四国、JR貨物を取り巻く環境は本州三社とは比較し難いほど厳しくはある
質的に異なるので同列に並べるのはおかしいかもですよ。(私見です。)
しかし、白糠線の規模や土木など見ますと、そこまで指弾されるべきものかどうか、わからなくなってまいります。
・ウィキペディア「白糠線」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E7%B3%A0%E7%B7%9A
> 33.1km
> 単線
> 非電化
> 7駅
> 有人駅:なし
> 茶路川を白糠 - 上茶路間では10回、上茶路 - 北進間では13回横断していた。支流まで合わせると、橋梁の数は白糠 - 上茶路間で41か所1,678メートル、上茶路 - 北進間は15か所1,568メートルとなっていた。またトンネルが鍜高トンネル(145メートル)と縫別トンネル(510メートル)の2か所あった。
> 比較的建設年が新しいため、コンクリートで作られた橋梁が多かったのが特徴で、廃止から18年が経過した2001年時点でも多くの橋梁が残存していた。
この「コンクリートで作られた橋梁」というのがミソで、「橋りょう=イコール=巨額!」との思いこみにはあたらないとみられます。鹿島線(大洗鹿島線を含む)ではふつうになったように、「(鉄道を)いまから造るならこのように造るべし」という標準に則ることで、標準的な設計法や工法、部材が活用でき、じゅうぶんに低廉化が図られていたのではないかと想像してみます。(あくまで想像です。)
> 螺湾と北見相生を結ぶ「阿寒線」構想との接続を考慮
うーん。
> 白糠線の建設当時に農地を提供した住民からは「たった10年余りで廃止になること」への不信感は強かったが、毎年赤字ワースト上位で新聞に載る路線だけに「鉄道とはこんなものだ」という諦めの気持ちも強かったために(同じ北海道の美幸線の様な)強硬な反対運動はなかったとみられている。どの報道メディアでも「廃止になっては死活問題」という地元住民の声は全くなく、それどころか「廃止になるので一度乗っておこう」という沿線住民が多かった。
本当ですかっ。沿線住民が少ないんですから、「(その中での割合としては)多かった」といっても、『絶対数!』は少ないんですよね。たぶんです!
> 日本鉄道建設公団の手により1970年(昭和45年)には完成していたものの、折り悪く上茶路炭鉱は1970年2月に閉山となり、石炭輸送が皆無となっていた。
なぜに閉山するし。…なぜに閉山するし!(恐縮です。)
・「白糠線」
http://haisentetsudouryou.travel.coocan.jp/031shiranuka1.html
> 1925年に白糠、茶路沢の農家が「甜菜輸送のため白糠から縫別まで軌道を敷設してほしい」と請願していた。
> 石炭埋蔵量の豊富な沿線では鉱業権を持つ会社に開発計画を提出させ中央への陳情を強めた。1956年2月24日調査線となり1957年4月3日工事線となる。
> しかし1955年に政府が「石炭鉱業合理化臨時措置法」を公布する等、既に石炭は衰退がはじまっていた。
> 当時の白糠町長は石炭鉱業審議会に通い詰め、全国的に炭鉱が閉山している時期にも拘わらず1964年に上茶路炭鉱の開発許可を出させた。ついに1964年10月7日白糠〜上茶路間が開業する。上茶路はすぐに炭鉱街になったという。
閉山の経緯がずばりとは書かれていないんですけど、▼需要が減った、▼ほかの炭鉱ひいては輸入におされた、▼職場としての炭鉱に魅力がなかった?(「炭鉱街」といっても「にわか仕立て!」で薄っぺらい!)等々、…うーん。(あくまで想像するしかないんです。書いてないんですもの!)ならば最初の陳情のように農産物や木材の出荷に使われるよう産業が転換…そこは町が炭鉱しか見ていなかったということだったりして。なるほど町史では避けたい話なのかなぁ…などと邪推が広がりますんで、ぜひともナットクできる閉山の経緯のほうをですね(略)…なんだかなぁ。(恐縮ではございます。)
・ホクレンの見解です
http://www.tensaito.com/process/
> トラックで工場へ運んだら、いよいよ、「てんさい糖」づくりです。
道路さえあればトラックで運べるということです。…デスヨネ〜。
・Google ストリートビュー 「白糠線」付近
https://goo.gl/maps/SczxZ8WfMWJ2
https://goo.gl/maps/Mnrei5YPApJ2
https://goo.gl/maps/fL1NiPvpQW32
(現在の)道路の橋のほうが立派だとすら思いました。(高速道路を含む)道路の(本格的な)整備に先行して鉄道が通ったというのであれば、当初の判断としては間違いはないのではないかと思ってみます。(現在のような)道路の整備を待ちながら鉄道もない状態で1980年を迎えることとてんびんにかけなければならないのです。あくまで鉱山を念頭に建設されてしまった線路としては、まったく運行しないまま撤去されるほうが(建設にかかった労力の)無駄というものでもあったのかもですよ。
・同 トンネル付近
https://goo.gl/maps/kZ8A4aTyosM2
…かっ、かわいいっ。非電化でいいんだといえば、このくらいのトンネルでいいんですよ。あたかもとんでもない路線だという偏見があると、わたしたち、でっかい青函トンネルや、熱海駅すぐの東海道新幹線のトンネルのようなトンネルを思い浮かべて「ケシカラン!」とたん絡してですね(略)…たぶんとんでもない。
・「熱海駅すぐの東海道新幹線のトンネルのようなトンネル」のイメージです
https://t15.pimg.jp/026/843/285/1/26843285.jpg
https://goo.gl/maps/YMiretaKs772
・Google ストリートビュー 「白糠駅」付近
https://goo.gl/maps/X8pBMLM6ki62
https://goo.gl/maps/DDqwMaoYMmq
・なんとYouTube 白糠線「白糠→(中略)→北進」(1983年8月)
https://www.youtube.com/watch?v=Y7_4y1s80b0
> シングルエイトですので音声はありません。
編集して短くなったのではなく、本当にほぼこれだけしか撮られていないっぽいですよね(=それでいて勘所をおさえていらっしゃる、の意)。さすがですのう。
・「シングル8」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB8
> 1965年(昭和40年)4月のシングル8規格の発表および富士天然色写真による現像業務の開始時には、フィルム価格に現像料も含まれていた。1968年(昭和43年)には白黒フィルム、1970年(昭和45年)3月にはカラーフィルムについても現像料をフィルム価格から分離した。
いま4Kで全国を撮りまわっておられるかたくらいのかたっぽいですよね。さすがですのう。
・「勘所」
http://www.weblio.jp/content/%E5%8B%98%E6%89%80
そして、白糠駅すぐの線路左側に見えるくい打ち機は、町役場ですねっ!
・Google ストリートビュー 「白糠町役場」
https://goo.gl/maps/rUYRBGuZ71J2
https://goo.gl/maps/C6uRT3cLZM42
https://goo.gl/maps/QrjPKF3J8yu
なるほどなるほど、いかにも1984年くらいっぽいオサレな建物ならびに外構にございます。ブラウンのサッシとか階段室の固定窓とか敷地内の歩道の赤い舗装(※)とか、うーん、いかにも1984年くらいですのう。(※恐縮です。)
※陸上のトラックやテニスコートとは違って、硬さは通常の道路の黒いアスファルトと同じか、むしろちょっと硬いくらいですよ。…たぶん!
・白糠町の見解です
http://www.town.shiranuka.lg.jp/section/kikaku/qvum4j00000003g7.html#s6
> 1984年
> 昭和59年
> 役場新庁舎完成
> 庶路炭鉱閉山20周年記念式典
> 八王子千人同心をしのぶ苫小牧の踏破隊が9日間にわたり踏破
「とまおうじ!」([3489])…じゃなくて、なぜか八王子千人同心については[3431]で先述しているんだなこれが。(恐縮です。)
> 1986年
> 昭和61年
> 第5次白糠町総合計画策定開始(1000人アンケート)
> 西庶路コミュニティセンター完成
わあぃ象印…じゃなくて、科学でビット! レッツ『’85』っ! というか、昭和60年っ! ここに大きな境目があって、これより後は「コミュニティセンター」なんですよね、わかります。「BIT 科学 54 パーソナルコンピューター 情報」(那珂川町)については[3438]を参照。
・「象印クイズ」(1979年3月〜1994年9月)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%A1%E5%8D%B0%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%BA_%E3%83%92%E3%83%B3%E3%83%88%E3%81%A7%E3%83%94%E3%83%B3%E3%83%88
> キャッチフレーズとして「あなたの直感と連想能力に挑戦する象印クイズヒントでピント(、迎えて第○○○回です)」と言うのが恒例になっていた。ただし、末期には「あなたの」を省略していた。
「あなたの*ー*を**っ*です!」…いえ、日本語なのに、日本語なのに(!)わざわざ「あなたの」とわざとらしく言ってみせるのが英語っぽくてナウいんですよ。HAHAHA…ソンナコトモアッタナ。(棒読み)それが「あざとい」と感じられるようになったらしおどきだったんだなこれが。(※演出です。)
●「並行在来線」と「JR貨物」(再)
ここまで5月下旬にまとめたまま忘れていたのですが、ちょうど関連のあるニュースが出てきたので、思い出したように思い出したわけであります。(恐縮です。)
なお、[2980]とも関連します。
・日本経済新聞「金沢−敦賀間の並行在来線、特急存続へJR貨物委託案」(2017年6月15日)
http://www.nikkei.com/article/DGXLZO17673250U7A610C1LB0000/
> 敦賀の新幹線ホームは在来線から約200メートル離れるなど乗り換えが不便で、福井県議会などから特急存続の意見が出ている。
パンやおにぎりがなければ毛布だけでも…じゃなくて、(松井山手まで延伸されるのも遠くないとあらば)乗り換えればいいじゃない! 誰かいってくださいオネガイシマス!(私見ですけど見解です。エスカレーターもエレベーターも、必要とあらば「動く歩道」あまつさえ「超小型モビリティ!」のほうなど駆使して、乗り換えればいいんですよ。あるいは、もっと手前の駅でそもそも特急列車を待つ時間と比べて、乗り換え時間だけを過大評価していることに気づいていただきたいのですよ。本当です!)
※「超小型モビリティ」を(床に仕込んだ無線給電のソレをなぞりながら)「動く歩道」みたいな一定のルートで(人が乗っていなくても)循環させておいて、人が近づけば止まって乗り降りできるという、スキー場のリフトみたいな運行をすればいいんですよ! 荷物の多い人は2台使えばいいんですよ! 我々「読み終えた新聞それに飲み終えた空き缶・ペットボトルのほうなど載せられた網棚みたいな顔」で延々とぐるぐる☆あしがる☆えすかーるっ…えーっ!!(棒読み)OAフロアの張り替えくらいの労力でルートの変更ができるといいですよね…プラレールじゃあるまいし。(メッソウではございました。)
> JR貨物への委託方式は、貨物列車に旅客用の車両を連結し、一緒に走らせるというもの。
それは無茶というものですぜ★。特急電車に荷物車(郵便車※)を併結するほうは合理的ですけど、機関車けん引列車をあちこちの駅に無造作に止めると、変電所の都合で発車できない駅もあるかもしれませんぜ★。
※とてつもなく急ぐ荷物はじぶんで持って新幹線や飛行機に乗るんですよ。そこまで急がない荷物だけど遠くまで運ばないといけないので途中は速ければ速いほどいいぞ…お、おぅ。
> 検討委は福井県の第三セクターである並行在来線会社が特急を運行する方法など他の選択肢を含めて検討する。
うーん。…うーん! 特急列車が云々とこだわるのは「記号的カタログスペック」であって、普通列車があまねく高速化されれば(全駅の利用者が速達性を享受できて)いいんじゃないんですかねぇ。新快速って、現状でかなり「いい線!」だと思うんですけどねぇ。…特急がなければ新快速に乗ればいいじゃない! 誰かいってくださいオネガイシマス!(きわめてメッソウでした。)
・まじかる☆あしがる☆えすかーる!
https://kotobank.jp/word/%E8%B6%B3%E8%BB%BD-25257
http://www.rakuchin.jp/escal/
アライさん…じゃなくて、むじんエスカルくんの平面バージョン(※どなたでもご利用いただけます&続いてまいります)ですよ。1台だけを特別な時だけ仰々しく動かすのでなくて、何台ものソレを動かしっぱなしにできれば(=故障したのだけ抜き取って工場に送れば=1台くらい減っても誰も気がつかないよ!)、故障してて使えないということもないんですよ。…その発想はなかった!(棒読み)
・Google ストリートビュー (一財)都市技術センター「三千樋駐車施設」付近
https://goo.gl/maps/TqLHc4reMiq
https://goo.gl/maps/phuu3VoSjB12
https://goo.gl/maps/goP1DWX3pEU2
https://goo.gl/maps/fLjtgHapocq
https://goo.gl/maps/FPBmvhpZkNN2
http://www.uitech.jp/new/outline.html
北陸新幹線や、ここかっ、ここなのかっ。(棒読み)東北新幹線の田端付近や九州新幹線の博多南付近など見まして、新大阪付近が複々線化というのはなさそうだと見る限り、東海道新幹線が(新大阪−鳥飼間で)減便されないと線路容量が足りないっぽい…です? わっ、わたしにきかれても困りますっ。(さらに棒読み)「こだま」は(鳥飼入出区からの)京都始発だとか、いや〜、鳥飼−京都間で回送するなら栗東新駅(南びわ湖駅)がやっぱりほしいとかなんとか&いまさらですかっ。
※栗東新駅の意味を、わたしたち、まるでわかっていなかったと、いまさら気づくって、こうですね!(棒読み)
・関西新幹線サービック「鳥飼事業所」のイメージです
http://www.kservic.co.jp/workplace/torikai/
> 清掃整備の他にJR社員の通勤や鳥飼車両基地内での移動のためのバス運転も当社が行っています。
…聞きまして? 新幹線を走らせるためにはバスを走らせる必要があるんですって!! 「クレーンの組み立てにクレーンが必要っぽいんですけど!」([3476])みたいですよね。
・[3040]
> 乗務員の仮眠設備がない:タクシーやマイクロバスで乗務員を「送り込み」してもよさそうですが、しないようです
…すればいいじゃない! 誰かいってくださいオネガイシマス!(棒読み)ま、タクシーで電車を追いかけるのは京急電鉄殿くらいですかねぇ。(※メッソウでした。)
・朝日新聞「車掌さん帽子飛ばされ乗り遅れ タクシーで猛追、再乗車」(2010年4月2日)
http://www.asahi.com/travel/rail/news/OSK201004020050.html
> JR西日本によると、車掌は乗客用ドアを閉めた後、運転士に発車準備完了を知らせるブザーを押した直後に制帽を飛ばされた。運転士は車掌がホームに降りたのに気づかないまま発車。六甲道駅でドアが開かなかったため、車掌の不在に気づいた。タクシー代は同社が負担するという。
えーっ…。「帽子が田んぼに落ちても絶対に取りに入ってはならぬ」については[3470]も参照。
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