・「小仏信号場」が、気になります! ・最も古い「EF58形」の写真を探して「東京駅乗車券センター」の写真を見つける ・空から昔の小仏峠を見てみよう(1948年・1955年・1961年・1968年)
(約12000字)
[3124]ほかの補足です。
・「2014年度」
http://www.nhk.or.jp/oto/intro/?id=2014
> 新幹線開業50年〜東京〜
おおー。オンラインで番組の冒頭部分を聴けるんですね! わあぃシモヤマダ駅長っ。
> 北斗星ラストラン〜東京〜
> 13番(とお・さんばん)第1出発 注意、進路東北っ。
ぬおー。20年前の録音とのことです。
> 東京駅100周年〜東京〜
> ジリリリリ(ピピー〜、ぴぴぴ)
> お待ちどおさま、1番線から三鷹行き発車です。1番線から三鷹行き発車です。ぇ、三鷹行き、ドア閉まります。ぇ、閉まるドアにご注意ください。はいドアが閉まります。(ぴぴぴー)
※「けたたましい発車ベル」としての電鈴については[3352]も参照。
> それなら中段でけっこうです。
昭和36年(1961年)、NHKのライブラリに残る最も古い東京駅の音、とのこと。「乗れなくなった能登号」のきっぷを「あしたの」と換えてもらおうというお客さま。わあぃお客さま。お客さまの「あり方」はだいぶ変わったかと思われますが、「立ち番」の「あり方」って、この時からまったく変わっていないんですね、わかります。
・ウィキペディア「能登号」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%83%BD%E7%99%BB_(%E5%88%97%E8%BB%8A)
> この頃、急行「能登」は東京駅 - 金沢駅間を結ぶ夜行列車(客車、B寝台連結)として運行されていた。
・「それなら中段でけっこうです。」のイメージです
https://neko.kichijoji.gr.jp/material/typeb.jpg
全然ちっともけっこうではないのに渋々…というニュアンスがにじんでくるような気がしてきます。本当でしょうか。その答えはぜひ、実際に中段にゴロンと(略)。
★「小仏信号場」が、気になります!
・ウィキペディア「中央線快速」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E7%B7%9A%E5%BF%AB%E9%80%9F
> 1957年(昭和32年):急行電車に101系が導入開始。
> 1961年(昭和36年)3月17日:急行料金を徴収する急行列車「アルプス」の運行開始(1960年)により、急行電車を現行の快速電車に改称。
「ぇ、三鷹行き、ドア閉まります。ぇ、閉まるドアにご注意ください。はいドアが閉まります。」といって、101系の快速電車を思い浮かべればいいんだとわかります。本当でしょうか。ちょっと歴史に疎いので、とんでもなく間違っていそうな気がします。もっと本当でしょうか。
・個人のページ「小仏信号場の謎」
http://hkuma.com/railfan/kobotoke.html
> 「小仏信号場」に関しては、文献がまったく見つからなかったので、
「交通技術」「国鉄線」を、いまになってから探すと、いろいろ見つかりそうな気がしてきそうです。(あくまで気のせいです。)
※以下、話の順番がかなり錯綜しますが、資料を実際に参照した順番に沿っています。あしからず。旧字体等は、そのものに着目する箇所では原文の通りに示します。
※「ぇ、三鷹行き、ドア閉まります。」から「小仏信号場」へのつながりもよくわからないんですが、気がついたら「小仏信号場」について調べ始めていました、の意。(恐縮です。)
・交通技術(1952年7月)
> (261ページ)
> 第2表 昭和26年度東京、千葉鉄管内電車故障分析表
> これをみると100萬粁當電車故障は前年對比68%に減少し(略)安全確保への努力の結晶である。これに比べて主電動機の故障が全く減少しないことは注目に値するところで危険を伴う心配はあまりないが、多額の修繕費を要する主電動機の故障防止に一段の努力が要請される以所である。
※100萬粁當:100万kmあたり。
昭和27年度に修繕された電車の両数と費用も明らかにされていますが、こう、当時の物価や国鉄の予算全体とのコントラストもわからないと、なんとも云々できず、たいへん『敷居が高い』と感じられそうです。
> (272ページ)
> 新設計のEF58形電氣機關車は
※電氣機關車:電気機関車。
> (279・280ページ)『速度定数の話』鈴木宏(東鉄・東京機関区長)
> 「列車運転時刻表」「列車運転速度表」「機関車けん引定数表」
> 尤もいわゆる玄人は時刻表など野暮臭くつてと例のダイヤを取り出してみることでしよう。
> 停客乙C、通客乙A等
> 「速度表」「定数表」
> 第2図 列車速度の変遷
> 表定速度
ぬおー。既に「表定速度」と、この字面で記載があることがわかります。
> 第4表 表定速度の比較
> 外国資料はCHAIX,Janvier,1948に據る
> スジ屋を泣かせるのは通勤列車です。
> お互に少しでも寝坊してしかも遅刻はしたくないという虫のよい魂謄なので始末が惡い。
…ギクッ。ですます調の文体の中で「始末が惡い。」と言いきってます。(当時の人は)なんだかなぁ。
> 2-2-2 表定速度
> 「速度表」に示されている速度は純運転に対するもので、停車時分は含まれていません。(略)停車時分を含んだ到達時分で両駅間の距離を除したものを表定速度と呼んでいます。
えーっ。誰が呼び始めたのか、何かの訳語なのかなど、わからないじゃないですかぁ。やだなぁ。以下、「つばめ」を静岡や大津に停車させると「8時間」から「足が出て」格好がつかないと云々されています。表定速度に目標値がある(あった)とはいえず、適当な駅間での所要時間がキリの良い数字であるか、ということが『目標値のようなもの』とみなされていたらしいとうかがえます。
※「外国」で「100km/h」の表定速度が実現されているといってうらやましがる記述は見られます。
※「列車運転速度表」については、ある程度の時代までは車両ごとに律儀に改訂され続け、その後は「だいたいこんなもの」的な『標準値!』のようなものが(実際の運転ではなく、計画段階で用いるために)できていったとみられ、その結果、表定速度についても「だいたいこんなもの」といって一定のレンジに収まるようになっていった(=表定速度をそのようにしようとしたのではないが、「速度表」がそうなれば、表定速度もそうなるという「従」のソレとして、の意)ともうかがえてきそうです。本当でしょうか。
・交通技術(1952年8月)
> (287ページ)
> 第7表 電車輸送力増強試案(一部のみ)
> 上野−御徒町(南行)
> 大井町−品川(北行)
> 上野-御徒町(外廻)
> 大崎−品川(内廻)
> 新宿−四谷
> (289ページ)
> 線区別にスピードアップした線区は、鹿児島本線(門局)、四国全般、中央線(新宿−甲府)、常磐線(上野−水戸)であつて、其の他一部列車のスピードアップを実施した線区には、東海道線(貨物)、飯田線、山陰線等がある。
> 上越線急行
> 信越線準急
> 高崎線の貨物列車
とのことで、小仏信号場は中央線のスピードアップ(到達時分の短縮)に大きく資するものであったとうかがわれてきそうです。本当でしょうか。
※遡って4年前、1948年5月の記事(15ページ)で、鹿児島本線、東海道線などの線路増設について、すぐには着工できない苦しさが切々と述べられています。(印象は個人です。)
> (323ページ)『マンスリーレポート』
> 横須賀線の人工故障試験
> 測定装置がたりないので、国鉄外から応援を求め電気試験所、東京大学、東京工業大学及び東芝、日立、三菱等の製作所、測定者及び測定装置が参加して非常な御苦労を願つた。
> なお部外の主な測定協力者として東大の藤高、鳳教授、東京工大の大槻教授、電気試験所の森氏等がある。
> オッシログラフ寫眞も2000枚を超過しておるので(略)結論を得るのは3箇月位を必要とするので10月頃に其の成果が發表されるとになろう。
※「オッシログラフ寫眞」から「發表されるとになろう。」は原文ママ。
あくまで測定器が足りないだけなんです、装置を借りたら人もついてきたんです的なニュアンス(国鉄と部外とをきわめて鮮明に区別しようとするニュアンス)が伝わってくるような気がするのは気のせいでしょうか。部外の4名を挙げながら、何ら明示的に謝意が示されていないといって時代をシノビます。(あくまで時代は当時です。)
※(国鉄の)研究所のほうのかたから、論文の執筆の形式に準じるものとして、貢献のあった4名をきちんと挙げなさいといわれながら、実務者である筆者としてはその意味を理解していなかったかもしれないと疑ってみます。もっと本当でしょうか。
> 津田沼電車区の車体洗浄装置
おおー(略)。
・交通技術(1949年12月)
> (15ページ)『高尾鋼索鉄道の復活工事』
おおー(略)。(中央線の)小仏信号場の工事と関係があるかは不明ですが、当地の山奥で各社が次々と工事ができるくらいに資材およびその搬入経路などいろいろ整ってきた時期であったと見受けられそうです。本当でしょうか。
・高尾登山電鉄
http://www.takaotozan.co.jp/timeprice/cable.html
> ケーブルカーは昭和2年に営業が開始され、戦時中に一時休止したが、戦後昭和24年にいち早く復活した。昭和43年に全自動制御の近代的ケーブルカーに生まれ変わり、高尾山を訪れる多くの人達の足となっている。
昭和24年は1949年でございます。
ほかに、1948年の23号で「東京駅の新継電連動装置」という記事があるようです。
「小仏信号場」という「実物」を「○○遺産!」であるかのように愛でるというのは難しいことで、そういう視点や文脈では確かに資料が乏しいかもしれませんが、こう、この時期の「中央線(新宿−甲府)のスピードアップ」という文脈の中で、施設の計画としてほかの信号場や駅を含めて説明している資料は、きっとあるのではないでしょうか。
・(別の個人のページ)「わが国のスイッチバック型停車場4:中部編」
http://www5f.biglobe.ne.jp/~switchback/list4.htm
> 「鉄道ジャーナル」昭和55年6月号によると、中央本線のスイッチバックは、「小仏信号場」(単線時代:現在の高尾〜相模湖間に存在)を加えて、 計9ヶ所であったとされている。ただ、「全線全駅鉄道の旅6:中央・上信越2100キロ」(小学館刊)によると、「相模湖までを複線にするときは、小仏トンネルの手前までをまず複線とし、単線に変わるところに小仏信号場を置き、小仏トンネルの改修工事が終わって複線にしたときに この信号場を廃止した」となっている。この記述から推測すると、ここで言う「小仏信号場」は、トンネル工事の間だけ、単線区間と複線区間の合流点という意味合いで存在した、一時的な施設であり、スイッチバックとしての構造を本当に持っていたのかは、 多少疑問となってくる。
> さらに、「停車場変遷大事典」(JTB刊)によると、小仏信号場の開業は昭和27年(駅間距離は、浅川4.3km+5.2km相模湖)で、昭和32年に「移転?」で駅間距離が、200m浅川方面に移動しているのが分かる。推測の域を出ないが、当初のスイッチバック型信号場は、小仏トンネル東側の複線化で廃止、同時に複線と単線の合流地点に、新たな「小仏信号場」を置いたと考えるのは いかがであろうか?
うーん。昭和27年は1952年、昭和32年は1957年であります。そして、趣味として「鉄道ファン」だといって多くの人が写真を撮るような時代は、かなり新しいのであって、それ以前のことは、趣味誌の有名ライターであっても編集長であっても、かなりの部分が(漏れ伝わる)伝聞や(じぶんの)記憶に頼ったものであったとしてもしかたがないと思われます。(あくまで民間に対する偏見は個人です。)
★最も古い「EF58形」の写真を探して「東京駅乗車券センター」の写真を見つける
個人が撮影し、後の時代に「うp」されているものを探してみます。ありがとうございます。
・個人が撮影した「EF58形」のイメージです(1964年3月)
http://www.jnr-photo.com/EF58/EF58-No4.htm
http://www.jnr-photo.com/EF58/ef5835h.JPG
機関車の特定の形式を意識して撮影して云々、というのは、かなり新しい部類に入ると思われます。そういうフーチョー的なものは1964年くらいになるまで出てこなかった、ということなのでしょうか。
もう少し一般的な撮影(旅行の写真)から始められて、後に形式にも詳しくなったという空気の漂う個人のかたのページを参照してみます。(あくまで空気です。)
・個人のページ
http://members3.jcom.home.ne.jp/railservice/etc.html
> 東京駅 昭和34年ころ
> 甲府駅 昭和30年ころ
> 153系急行「よど」号 東京駅 昭和38年頃
おおー。本件話題の年代に近い写真で、こう、古い時期から撮影されていたかたほど(鉄道云々以前の、写真として一般の)記録や管理がきちんとしているといってソンケイします。
・同「指定券満席表示板 東京駅 昭和35年ころ」
http://members3.jcom.home.ne.jp/railservice/ph75.jpg
> 東京駅に指定券の発売状況がわかる表示板が設置されました。今では当たり前ですが、当時はすごいことでした。満席の時は欄が赤になりますが、電気式ではなく機械式の表示でしたので、カチャカチャと音がしました。
ぬおー! ぬおー! 「MARS-1」ですね、わかります!([3178])
・[3178]
> 1列車1トラック…といいますか、「磁気ヘッド1つ」から出てくる「パルス列」が、そのままCRT表示(ただしA型に限る)の『映像信号!』になりそうですねぇ、などと生々しく想像されてきそうです。
> ※「アナログLEDテレビ!」については[3175]を参照。
> > A型予約装置
> > 予約装置操作盤、送受信装置、座席状況表示装置、印刷機
CRTだったのは窓口の内側の話で、お客さまに向かってのディスプレイについて詳しい記述はなかったところ、「機械式」で「赤」で「カチャカチャ」との新たな情報を得て、とってもわくわくしてみます。(主観は個人です!)
・新陽社「会社沿革」
http://www.shin-yosha.co.jp/company/index.html
> 昭和21年10月 終戦後、戦災で荒廃した旅客設備の復興のため当時の鉄道省および関係者の意向により設立
> 昭和28年 反転式発車標開発
> 昭和39年 東京オリンピック開催に伴い、首都圏主要駅、観光駅に掲示器を大量納入
※昭和21年は1946年、昭和28年は1953年、昭和39年は1964年であります。
こう、十中八九、1960年の「東京駅乗車券センター」の表示盤は新陽社さんなのではないか、そして、最先端の電子の知識を要するCRTは用いず、1953年から取り組んで『7年の知見と実績!』を有する「機械式」で「カチャカチャ」が採用されるに至った(=窓口の内側はCRTでありながら)のではないかと想像してみます。おお、脚立に上がって、「不転換!」を起こした「赤いマス目」を掃除している新陽社さんの『幻』が見えてきたぞう。
※たぶん「目が赤い」んですよぉ。やだなぁ。
・(再び個人のページ)同「寝台列車 東京駅の14・15番線ホーム 撮影日調査中」
http://members3.jcom.home.ne.jp/railservice/ph84.jpg
> 寝台特急の左側「18時30分発の「あさかぜ」、右側18時20分発の「みずほ」です。夜行列車に乗る人たちはホームでビールや弁当、週刊誌などをよく買って乗り込んでいました。
・同「ホーム 東京駅14、15番線 撮影日調査中」
http://members3.jcom.home.ne.jp/railservice/ph311.jpg
> ここは特急が発車するエリートホーム。ここに入るには再度切符の提示が必要でした。寝台特急「さくら」に乗る人たちが改札を受けています。
「選ばれし○○のみが立ち入ることを許される特別な○○!」といって、その実、何でもかんでも「エリート○○!」と呼ぶところに時代を感じられそうです。本当でしょうか。
・(参考)「ミートクロケット。」(2006年3月9日)
http://blog.so-net.ne.jp/koffiemelk/2006-03-09
> 玉川高島屋さんの「資生堂パーラー」でランチをしました。
> ずっとずっと気になっていた「ミートクロケット」を注文。
> 運ばれて来たお皿は、予想以上の美しさです。
わあぃ『エリート牛肉コロッケ』…とは、いわないんですよ、このことを最近の○○はわかってないとですよ。(棒読み)その逆といいましょうか、「肉マイレージカード」のネーミングはひどいなぁ。実にひどいなぁ。(さらに棒読み)
・いきなり!ステーキ「肉マイレージカード」
http://ikinaristeak.com/mileage/
> 食べたステーキ量がそのままマイレージ(グラム)に♪
> 本カードは、召し上がった肉量(g)がそのままポイントとなるメンバーズカードです。
※「食用金箔と牛肉を重さで比べるはなし」については[2965]を…いえいえいえ、本件とは無関係ですっ。
・Google ストリートビュー 「小仏信号場」付近(推定)
https://goo.gl/maps/PyL4DNS11q32
https://goo.gl/maps/JZ1YmvM1zcR2
https://goo.gl/maps/z7mRVYJH8ES2
https://goo.gl/maps/LV2nE3T71782
※「相模湖駅から5.2km」というと小仏トンネルの東側の出口より東側とみられ、鉄塔やバスの折返し場がある場所まで含めて信号場だったのかどうかなど、簡単にはわかりません。トンネルの東側の出口より東側の地点から、さらに200mほど東といって、現在、ちょっとした用地が線路沿いにあるように見える場所の付近になるとわかります。
スイッチバックを愛でる記事の中で「懐かしい思い出だよ」的に披露された「豆知識」程度の記述であるなら、ほとんど信頼性がないといって予め断じてみようと思いました。(あくまで個人は予断です。)
・Google Earth 「小仏トンネル」付近(南側から俯瞰)
https://goo.gl/maps/5fUTXKdtNYz
※PCでChromeを使用して閲覧しないと3D表示にはなりません。あしからず。3D表示できない環境のかたは代わりにウィキペディアに「うp」された写真をどうぞ。
・ウィキペディア「相模湖」
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/0/0b/SagamiKo.jpg
こう、小仏トンネルのこう配を具体的に示した(鉄道関係の)資料が入手できるまでは何も知らぬ存ぜぬという態度も、1つの態度ではあるんですけれども、Google Earth(に限らず、一般的な地形図等)でおおよその地形を見てみましょうよぉ。…ということもあるとかなんとか。
※「中央本線の山間部における長大トンネル内(2km以上)の携帯電話不通区間解消の取り組み」としての笹子トンネルについては[3161]を参照。
・国土地理院「2.5万地形図 与瀬」
http://mapps.gsi.go.jp/history.html#ll=35.5199320,139.3190002&z=10&target=t25000&figureNameId=76-15-1
> 図名「與瀬」
…ぬおー。
・同「76-15-1-3 與瀬」(1949年1月30日)
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=1312716
500円です! …といってもですね、クレジットカードでポチッとできるわけでなく、いまどきとしてはたいへん不便であります。(恐縮です。)
★空から昔の小仏峠を見てみよう(1948年・1955年・1961年・1968年)
あくまで戦後の話に限ろうとは思うのですが、こう、戦中の話を完全に無視して「小仏信号場」だけをのうのうと話題にするのもはばかられますので、参照だけいたします。
・ウィキペディア「湯の花トンネル」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E3%81%AE%E8%8A%B1%E3%83%88%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB%E5%88%97%E8%BB%8A%E9%8A%83%E6%92%83%E4%BA%8B%E4%BB%B6
> 8月5日に全面開通したこの日2本目の列車であり、また八王子駅で419列車が出発する前の列車が発車しなかったため大変な混雑だったとされていた。
> 停車中に乗客から「早く出せ」と怒声が飛んでいた
> この列車には筑摩書房創業者の古田晁が乗っており
> 蒸気機関車に牽引されて浅川駅へ回送
> 当日夕方までに送電線の再接続を完了し、全面復旧した。
その上でなお、USAな空中写真を参照するのであります。
・国土地理院「USA-R1779-72」(1948年9月17日)
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=206438
・同「USA-M76-42」(1955年1月25日)
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=191953
・同「MKT616-C3A-1」(1961年8月31日)
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=432315
・同「MKT646X-C2-1」(1964年5月16日)
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=441925
・同「MKT684X-C8-2」(1968年5月9日)
http://mapps.gsi.go.jp/maplibSearch.do?specificationId=448339
…うーん。
(線路としてはトンネルに入って少し先の位置で)1964年になると見える四角い敷地が、1961年には、まだ見えないことがわかります。1962年から1964年の間のようすは、空中写真では全然わかりませーん。(恐縮です。)
・Google ストリートビュー 「小仏峠」「小仏バス停」「景信山」付近
https://goo.gl/maps/rYkBgyNFS252
・ウィキペディア「内郷丸遭難事件」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E9%83%B7%E4%B8%B8%E9%81%AD%E9%9B%A3%E4%BA%8B%E4%BB%B6
> 点呼をとった結果、この時点で20名が行方不明であることが確認された。
> 22時頃になって2名の生徒が帰宅していないことが判明し、この生徒の遭難も確認され、最終的に遭難者は合計22名となった。
※学校で児童・生徒の名簿があったかなかったかもわからない話については[3046]も参照。
・海難審判所「日本の重大海難 機船内郷丸遭難事件」
http://www.mlit.go.jp/jmat/monoshiri/judai/20s/20s_uchigou.htm
> 同年7月相模湖ができたとき(略)
> 船主は届出を怠り、同船の構造上の欠陥が船舶検査官に指摘される機会を失った。
> 運転手の紹介で茶店を借り、茶の接待を受けながら昼食をとりはじめた。その折、茶店の主婦から遊覧船に乗らないかとすすめられたが、旅行の予定になかったので、希望者だけ船賃25円を各自が払って遊覧船に乗ることとなり、希望者を募ったところ80人あった。
> 引率の先生が内郷丸を見ると小さいので、乗船希望者が80人あるのだがと言うと、大人の定員は60人だが子供なら80人位乗せたことがあると言われて、そんなものかと思い、先生2人が附添って乗船し、湖を一周してから与瀬公園の下に着船して下船する予定にした。
> 生徒たちは先生、船主、船頭のいずれからも乗船の心得は注意されなかった。
『昔は事故が多かったんだよ(⇔いまは安全なんだよ)』などと、原因も対策も理解しないままのうのうと言ってのけてはいけないと思いました。▼決められた手続きを守らない、▼誰もとがめないという中で、起きるべくして事故が起きるという構図は、時代とは関係なく、(感染症も同じです=)状況が揃ってしまえばいつの時代でも起きるものだといって、うーん。しかし傍題でした。
※鉄道を利用する前に、乗車の心得を注意される必要があることがわかります。(幼稚園か保育園の)団体さんが静かに整然と乗ってきて、しかし電車内の床に2列で座り込むなんて、とんでもない。(…実話ですがJR線ではございません。)
・小学館「70年前の「復興する東京」 未公開写真750点の衝撃」(2016年9月22日)
http://www.news-postseven.com/archives/20160922_449132.html
> 街頭では、天然痘の流行に対応して主要駅の駅前などで予防接種の種痘を受ける場が設けられた。また、ツベルクリン反応検査やレントゲン撮影など、結核予防への対策も講じられていた。
これからはエキナカ(改札外)で名前も名乗らずに無料で予防接種だっ。本当でしょうか。再び、そういう時代になるんでしょうか&もっと本当でしょうか。
・ウィキペディア「中央線乗客転落事故」(1946年6月4日)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%89%84%E9%81%93%E4%BA%8B%E6%95%85_(1949%E5%B9%B4%E4%BB%A5%E5%89%8D)#.E4.B8.AD.E5.A4.AE.E7.B7.9A.E4.B9.97.E5.AE.A2.E8.BB.A2.E8.90.BD.E4.BA.8B.E6.95.85
・個人のブログ「気になる神田川」(2012年10月20日)
http://chinchiko.blog.so-net.ne.jp/2012-10-20
1946年から15年が経って「ぇ、三鷹行き、ドア閉まります。ぇ、閉まるドアにご注意ください。はいドアが閉まります。」とアナウンスされている1961年の101系にあって、こう、とっても頑丈な『閉まるドア』に安心感が出てきた、といいましょうか、まさか後世、ベビーカーが挟まれたまま発車するなど思いもよらないというような安心感をともなって「ドア閉まります。ぇ、閉まるドアにご注意ください。はいドアが閉まります。」というアナウンスを乗客が聞いていたという空気感のようなものが想像されてきそうです。(あくまで想像です。)
※「ドアが閉まります」といわれるたびに、ああ、最近の電車のドアはきちんと閉まるようになったんだという、「もはや**ではない」的な感慨が、乗客に(もしかすると駅員にも)あったのではないでしょうか。いまでいう「(上質で静かで快適な)グリーン車が付いております。」と似たようなもので、「(じぶんできちんと)閉まるドア(頑丈)」といって、『焼きプリン』の「焼き」、『牛肉コロッケ』の「牛肉」と同じような記号的な機能を持っていたのではないかとすら想像したくなります。(あくまで想像です。)
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