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[4285],[4287],[4288],[4289],[4290],[4291],[4292],[4293],[4294]の続きです。
・(2015年9月28日)
https://wf7137.tumblr.com/post/130023942503/%E7%95%99%E6%84%8F%E6%B3%A8%E6%84%8F%E8%AD%A6%E6%88%92
> 「留意」「注意」「十分な注意」「警戒」「厳重な警戒」「最大級の警戒」
> この順番で後ろに行くほど意味が強くなる。
> 「十分な注意」や「厳重な警戒」はそれぞれ「注意」や「警戒」を強調したものと考えられるが,これらの運用の違いについては(私が調べた限りでは)分からなかった。
国語に関しては絶望的とお見受けする。二言はない。「この順番で後ろに行くほど意味が強くなる。」のではないのだ。そのようになるように言葉を使うと決めるところに専門性があるということを認めておられない。あたかも自然に「この順番で後ろに行くほど意味が強くなる。」と思っているかのように述べる態度がとんでもない。
※「「注意」でも軽視しないで」という啓発の文言のようなものをうのみというかなんというか、そういう方向から「注意」だけでも「意味が強い」といって、「後ろに行くほど」という表現が出てきてしまうのだろうが、それは不適切である。とてつもない(いわば対数的な)軽重の差があるから、言葉を変えているのだ。程度にあまり差がないなら、ぜんぶ同じでいいのだ。言葉を変えるというのは、よほどのことだ。「後ろに行くほど」という「つけたし」や「念押し」のような感じ(の差しかない)ではなく、いわば対数的な差があるのだ。そこには絶対の軸があるのだ。
M8 | 最大級の警戒 | M7 | 厳重な警戒 | M6 | 警戒 | M5 | 十分な注意 | M4 | 注意 | M3 | 留意 |
「いわばマグニチュード」である。マグニチュードが「1」大きくなると、エネルギーは何倍ですか。マグニチュードが4未満の地震でも山で落石や雪崩につながれば人命にかかわる。そのような「いわば量感」を感じとらないといけない。『順番』(順序・順位)ではないのだ。『順番』とは何か(そこに他者の専門性はないか)といったことを考えて言葉を選んだ気配が感じられない「この順番で後ろに行くほど意味が強くなる。」というぶしつけな表現には、かなりカチンとくる。
・「順序」「順位」とは何か
https://kotobank.jp/word/%E9%A0%86%E4%BD%8D%E7%9B%B8%E9%96%A2-78518
> n人の俳優の人気順位と容貌順位のように,2つの順位の関連の強さを表わす概念。通常の意味での数量化はできないので,いわゆる相関係数は計算できない。しかし順位は定めることができるので,これに基づいてある種の相関係数を計算できる。
https://kotobank.jp/word/%E9%A0%86%E5%BA%8F%E5%B0%BA%E5%BA%A6-23219
> 1良い 2普通 3悪い
> のように順序に意味はあるがその間隔には意味がない尺度のことをいう。
> 嗜好の序列を示す序数のように,特定の属性上の順序 (大小関係) を表記する数や記号の系列。適当な仮説やモデルを導入して距離尺度や比率尺度に変換して扱うことが多い。
・[3061]
> 英語など語学のテストについては、どうやって問題をつくるのでしょうか。一般には、新聞記事や書店で売られる本などをランダムにとってきて、そこに出てくる単語の、単語ごとの出てくる回数を調べます(本当に調べるんですよ)。
> 出てくる回数の多い単語は、確率的には読者の目に触れる回数が増えることとなり、結果として社会においてよく知られた、「やさしい単語」とみなすことができます。その逆の「むずかしい単語」は、単純には、出てくる回数が少ないということで決めることができます。
> とはいえ、これは時代によって大きく変わります。また、長い時間をかけてジワジワと変わるばかりでなく、変わるときには一気に変わるものもあります。例えば、「臓器移植」がニュースにならなかった時代には「臓器」という単語は医学部にでも行かないと使う機会がなかった(初等教育では「ここに心臓があります」「こっちは肝臓です」などとはいっても、これらを総称して「臓器」とはいわず、「からだの中をみてみよう!」などといって、一種はぐらかされるわけです=「第一種はぐらかし」と仮に呼んでみます)ところ、「臓器移植」という単語によって「臓器」という単語もまた、「やさしい単語」に(ニュースに出てくる回数だけで判断すれば)なるわけです。
「臓器とは何か」という定義も(肺や心臓を含める場合)実はあやふやだとかなんとか。(※伝聞)
> そうした、いわば「惑星」のような変な動きをする単語は、ちょっと例外として、そうした単語を除いた、それなりに安定したところで、テストをつくっていくわけです。
・[3540]
> > マジックワードについては[2969],[3099]など、時代を問わず話者が目を見開きながらチカラをこめて発話するソレについては[2935],[3103]も参照…いえいえ、メッソウもございません。その結果として、かぎ括弧つきで早口で唱えられる便利でおトクな業界専用フレーズ(『ミスをすることがございます』『安全性を高める取り組み』[3117])が生まれてくるわけです、わかります。それならそれで、『電車は遅れる場合がございます』を頻出フレーズに([2862])していってもらいたいなぁ、とも思えてきます。ある単語やフレーズが頻出しさえすれば重要であると一種「誤認」されるはなし([3061])も参照。広告だって、曝露回数を増やしさえすれば(と考えられた時代があった)
…という専門分野が、あなたの知らないところにあるんです。そういう「知らない」ということは無数にある。想像力や共感を失わないように努めてください。
・[3676]
> ノエルかわいい? うちのノエルのほうがかわいいもん!! うわぁノエルがいっぱい。ノエルがいっぱい。ノエルがいっぱい…。
・[3695]
> > プレゼンは上手なのに文章を書く事は苦手な人がいます。
・[3845]
> …うちのノエルのほうがかわいいもん!! とにかくかわいいんだもん!!!(※語彙が乏しいまま語勢で勝ろうとするようすを模擬しています。)
https://arx.neorail.jp/experiment/?%E5%BA%9C%E4%B8%AD%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%82%BD%E3%83%83%E3%83%89
ノエルとノルムとエルムの違いとユアエルムのユーハイムの違い。ぼくらはエルム荘。(違)
・[3586]
> えー、どれどれ?(略)はいけーさっぽろのだいがくにはいってひとつきようやく(中略)これをおくります(※意訳)みたいな手紙とともに「ファンシーと呼ばれるカテゴリー!」([3503])みたいなキーホルダーとかが「エルム荘」みたいな住所から送られてきたらナウいよね。(※1970年ごろを想定しています。法定耐用年数を既に過ぎているとみられます。)
・[3862]
> 英語で論文を読んでから標準語で訳語をあて(略)そういう訳語みたいな標準語を最初から使いこなしてですね(げふ)それができない者は「とにかくかわいいんだもん!!!」みたいに押し切ることしかできないのよ。もっとひどければ大声で何か言ってやるから顔を出せみたいな態度しかできないんですよ。われわれは文字でコミュニケーションしませう。
・[3845]
> コンペで出題する立場になるには博士号が必須だと理解しています。大学入試でもTOEIC®でも当然の態勢です。▼「各テストに数人のPh.Dが専属」については[3345]、それに▼「ビデオリサーチ@東芝さん納めの電子計算機」については[3395]、▼「東芝の事実上のAI」については[3676]を参照。
・(このフォーラム何度目かわからない再掲)末弘厳太郎「嘘の効用」(1922年)
http://www.aozora.gr.jp/cards/000922/files/45642_28592.html
> 私は**家です。ですから、専門たる「**」以外の事柄については――座談でならばとにかく――公けに、さも先覚者ないし専門家らしい顔をして、意見を述べる気にはなれません。**家は「**」の範囲内にとどまるかぎりにおいてのみ「専門家」です。ひとたびその範囲を越えるとただちに「素人」になるのです。むろん「専門家」だからといって絶対に「素人考え」を述べてはならぬという法はないでしょう。けれども、その際述べられた「素人考え」は特に「専門」のない普通の「素人」の意見となんら択ぶところはない。否「専門」という色眼鏡を通して、物事を見がちであるだけ、その意見はとかく一方に偏しやすい。したがって普通の「素人」の意見よりかえって実質は悪いかもしれないくらいのものです。しかも世の中の人々は、ふしぎにも「専門家」の「素人考え」に向かって不当な敬意を表します。普通の「素人」の「素人考え」よりは大いにプレスティージュをもつわけです。例えば、世の中には無名の八公、熊公にして、演劇に関する立派な批評眼を具えているものがいくらもいます。ところが、何々侯爵とか、何々博士とかが少し演劇に関して「素人考え」を述べると、世の中はただちにやれ劇通だとか芝居通だとかいって変に敬意を表し、本人もいい気になって堂々と意見を公表などします。侯爵や博士のくせに芝居のことも人並みにわかる珍しい男だというくらいならばともかく、その男がさも「専門家」らしい顔をして「素人考え」を憶面もなく述べるのをきくとき、また、世の中の人々がこれに特別の敬意を表するのをみるとき、私は全く不愉快になります。かくのごときは実に一種の「不当利得」にほかならないと私は考えています。しかし世の中の「専門家」はとかくこの点を間違えやすい。世の中の人々も、普通にその同じ間違いを繰り返して「専門家」の「素人考え」を不当に尊敬します。私は全く変だと思います。
・[3484]
> 学芸員の資格を取得するための学部レベルの専門科目を型通りに修めただけでは、まだ何かが足りない(※本件系統化調査を担当された研究員にあっても、国立科学博物館への就職後の勉強(研究能力の「涵よう」)のほうがはるかに大きいと見受けられる)との感触でございました。(あくまで外部からの推察です。)
・[3490]
> そういう「系統化調査」をこなす専門性は、少なくともエフ井センセイの専門ではないのですから、別のひとに委ねるべきでありつつ、読者としては、エフ井センセイの専門でない部分で記事に文句を言うのは的外れかなぁ。
・(2015年3月19日)
https://wf7137.tumblr.com/post/113994867348
> 同僚の書く概況文をチェックしていたら「夕方にかけてまとまった雨が降る」というような表現があった。
> これまであまり気にしていなかったけど,気象解説のベテランはやはり語彙が豊富だ。しかも豊富なだけじゃなくて定義に基づいて適切に運用している。僕も経験を積めばそういったスキルは身に付くのだろうか。
手遅れです。(※断言)「これまであまり気にしていなかったけど」〜「僕も」〜「身に付くのだろうか」の全体として、とんでもなく失礼な態度である。しかも自覚がない。「僕も」「ちょっと気にするだけで」「身に付くはずだ」と言っていることになる。「語彙が豊富」な「気象解説のベテラン」が「語彙が豊富」になったのは子どものころのことのはずだ。それを、あたかも業務の中で(=業務だけによって)身につけたかのように言う(※不当に軽く言う)ことは、相手と自分の違いを想像しない、きわめて失礼な態度なのである。
※いわゆる「国語力」というものは、残酷なほど個人差が大きいし、勉強によって埋めることがかなわない部分が非常に大きい。そのことは認めないといけないし、得意な人に任せればいいんだということ。
・[4292]
> > 本質的には気象庁の予報支援資料を国民が各自で見て解釈して判断すればよいのだが,そんなスキルを身につけるほど暇な人は多く無い
時間さえあれば勉強できて、勉強にかけた時間に応じて何かが身につくという『理路』である。リクルートみたいなのが吹聴した一時代の幻想である。Hanakoである。(違)
https://www.ifs.co.jp/knowledge/bu20160909/
> 80年代に創刊され彼女たちの消費の教科書であった女性誌「Hanako」
> 女性の影に隠れてなんとなく存在感の薄いHanako世代男性。「女性はわかりましたけど、男性は?」というご質問もよくお受けする。
> 「Hanao」と呼ぶ
> 「Hanao」と呼ぶ
…ざんねん! 「Hanako」は「マガジンハウス」でしたー。(※すごくにくたらしいアミューズメント機器の合成音声みたいな声で!)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B1%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%81%A8%E3%83%9E%E3%83%8A%E3%83%96
> 『ケイコとマナブ』は、リクルートが発行していた習い事・資格スクールの月刊情報誌。
> 1990年2月に首都圏版が創刊。創刊号の表紙は、「脱・勉強宣言」。発売わずか2時間で完売する書店が出るなど、大きな話題となり、『ケイコとマナブ』という誌名は、同年のネーミング大賞も受賞した。創刊当時のキャッチコピーは「4枚目のスカーフを買うより、おケイコをしよう」。バブル景気の当時、OLの間ではエルメスのスカーフが流行し、いろんな柄のスカーフを集めるのがオシャレの代名詞だった。スカーフ1枚が2万円以上の買い物なので、“4枚目を買う予算があるなら、そのお金でお茶やダンスを習って自分に投資しよう”という提案だった。
『勉強量』みたいな物理量の“実在”をまったく疑わないようすにあきれる。ましてや金額に換算する。先輩を称えて「語彙が豊富」というのも『量』だと思い込んでおられる。…だれでも? …いつでも? …どこま〜でも?(※なぜか疑問形で!)『勉強量』しだいで進んでいけるんだと信じきっている。予備校と専門学校の宣伝文句みたいなのを疑うことを知らない。まず、そこが違う。「経験を積めば」には締切がある。若いうちにやらないとだめで、とっくに期限を過ぎておろう。予備校と専門学校の宣伝文句は、その客の世代にとってのみ正しいのだ。だから手遅れですと断言するしかない。二言はない。すでに備えているじぶんの専門性に自信を持ち、変な欲は出さないに限る。ぜったいこれだね。(キラッ
・[4284]
> > クスダ ファンタジー キラリタ
> …『クスダ ファンタジー キラリタ』ぐらにーた!!(違)
https://jice.homemate-research.com/pubuser1/pubuser_facility_img/0/6/2/00000000000000404260/0000003942/00000000000000404260_0000003942_6.jpg
> > 「クスダ シャイニング」に「ラブリー ファンタジー」を交配し、
> ぐらんしゃいにんぐ熊野ー。(棒読み)北斗星の食堂車じゃあるまいし。(違)
あまりじっくり見なければ、せいぜい部活の道具か美術の道具、アンドをとって美術部の道具を持ち運んでるひとにしか見えない。これぞ迷彩である。○か×か。…出ました『アンドをとる』!!(※ソコジャナイ。)
・[4162]
> 「スーパー防波堤モデル」(違)
> 「ペデストリアンデッキ」もいけるはずだ。
> なんだ坂(違)本件ゲームこと「A列車で行こう9」の線路のシステム(線路パーツの体系)は社長じきじきみたいにかっちりしていてスキがない。線路をぐにゃぐにゃ、ホームもぐにゃぐにゃ、曲線かつ勾配だという『アンドをとる』発想なんて、割り込ませようがないという諦観がある。…そこで「自由線路(仮)」ですよ!
・[4172]
> 「おどる広告都市」をつくりはじめたときのまじめさがなぜか途中で失われて最終的にとんでもなく失礼なニューゲーム(シナリオマップ)として、製品情報などではタイトルすら呼ばれず数として数えられるだけの扱い(数さえあればなんでもよかったという態度)で製品に収録され販売されてしまう。元来の「おどる広告都市」をつくりたかった本当の作者という人がいるとすれば、その人のまっとうでまっすぐな想いにこそ応えるのがスジだ。ニューゲームとして漫然と「おどる広告都市」をプレーして「次回作も楽しみにしておりマス☆」みたいにミクシィ(※実名)みたいなところで気色わるいよいしょをしておればというのは二重にも三重にもほかの客や本来のまじめな作者を愚弄するものである。二言はない。
・[4211]
> …『ミクシィ(※実名)』!! いえね、サービス名を実名で挙げてね。
・[3652]
> 「○○だと思った?」:やーい平成元年くらいのいわゆるトレンディドラマみたいなのにありそうなどろぼうねこ…じゃなくて、「だーれだ?」みたいなやつ!
> 「ざんねん!!」:「あたり」「はずれ」のうち「はずれ」のほうをぼかす表現。「ざんねん!! はずれだよ。またチャレンジしてね☆」などと活用する。アミューズメント機器での音声合成ボードの採用によって普及した、実際の会話では使われない不自然さのある表現。なお、そのような不自然さを「☆」などの記号を付して示す。
要するに「完全無欠の」の「時間どろぼう」だよね。(違)
https://www.chikumashobo.co.jp/kyoukasho/tsuushin/rensai/jugyou/004-03-05.html
> 「完全無欠の『ビビガール』」という、いくつかの会話が仕込まれている人形
> 「完全無欠」というのは、人間そっくりで、オプションが何でも豊富にそろっているということですが、ここにも現代の子どものおもちゃ事情の風刺を感じさせられます。
http://www.kga.co.jp/img/business/torenda2.jpg
アミューズメント機器はにくたらしい。二言はない。(キリッ
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%A2_(%E5%85%90%E7%AB%A5%E6%96%87%E5%AD%A6)
> 1973年刊。
1970年の大阪万博らへんから機械がしゃべり出している([3208],[3221])ので、すごく最先端である。1970年の大阪万博にどのくらい影響されたのかはわからないが、それもあって日本で人気なのではないか。鎌倉駅前のナマルクドド(※仮名)である。鎌倉を訪れて、どうしてナマルクドド(※仮名)なのか。由比ヶ浜はよいが鎌倉駅前はNGである。そういう問いかけはエンデから得たものである。…たぶん。
http://kamakura.cocolog-nifty.com/main/images/yuigahama.jpg
https://i1.wp.com/shonanbb.net/wp-content/uploads/shonanbb/thina/13090401.jpg
> 上橋は『モモ』について、思想やイデオロギーを語るために物語が奉仕してしまっており、自分の好きな物語ではないと述べている。
それは職業的すぎる。(子どもは)好きかどうかなど知らない(=読後に「好き」かどうかを判定したりはしない)。ただ読む。ああ。読んだ。すごく読んだ。そういう時間が子どもにはある。
・(2018年10月21日)
https://toyokeizai.net/articles/-/243848?page=3
> 食べ物と同じで、読書にも好き嫌いがあります。読む人は放っておいても読むし、読まない人は読まない。
子どもの時に「放っておいても読む」ではなかった人が、ある年齢を超えてから取り繕ったように何かを読んでも、まったく何にもならぬ。きっと代わりに得意なことがあるはずだから、それに打ち込めばよい。本なんて、気にするな。(※見解です。)
> 読みたいやつには勝手に読ませておけばいいと思います。本の良しあしなんて教えなくても、その人にとって面白いものは面白いし、つまらないものはつまらない。こういうことはひとりでに覚えていきます。あえて言うと、その人が本気で書いた本はだいたい面白いです。
・[3248]
> 1970年に大阪万博で試作、1971年に東成田線に採用(しかし開業が延期に)、1972年に和歌山市駅、そして1975年に新幹線の全駅(オンライン)と難波駅で本格的に採用という流れだとわかりました。
・[3548]
> > 1970年開催の大阪万博のブルガリア館で本場ブルガリアのヨーグルトが展示されたのを明治乳業幹部が試食し感銘を受けたのをきっかけに開発が始まる。日本で初めてのゼリー加工を施していないプレーンヨーグルトとして発売開始。定期的にブルガリアから輸入された菌を使用しており、これはこの菌を現地以外で培養すると性質が変わってしまうためだという。また乳酸菌株をブルガリア国外に輸出するには政府の許可が必要で、その際の交渉過程で「ブルガリア」の国名を商品名に使用する事をブルガリア政府から正式に許可されている。
> > 1971年 日本初のプレーンヨーグルト、「明治プレーンヨーグルト」発売。商品名に「ブルガリア」の使用を認められなかった。消費者から「腐敗している」、「酸っぱい」とのクレーム多数あり、まったく売れなかったが開発は継続。
1972年から1973年にかけてはオイルショックで、大人は急に時間を持て余した。違いますか。(※遠い目)
・[3887]
> > 鉄道ゲームに逆らった鉄道を使わないマップ。その趣旨に再び逆らって鉄道で攻略しよう。
> 制作者らよりは2まわりほど若いライター氏、さすがに制作者らの子ども時代に凝り固まってしまったのではないかと疑われるような『無意味な反抗』ぶり(?)を冷めた目で見て「再び逆らって」ということができる。さすがである。
> 大人になってから考え(目的)があって「反抗」してみせる(効き目を確かめたり緩急をつけたりできる)人とは違うんだなぁ(いかなるときも「反抗」してしまう=『しないということ』ができないんだなぁ)、の意。
・[3652]
> 「××でしたー」:平成元年くらいのクイズ番組にありがちな、誰も正解できそうにない出題で誰も正解せず座長が質問([3489],[3518])…じゃなくて、司会者が正解を説明するときにありがちな言い回しをイメージした表現。暗に「わかるわけがないよね」との共感を誘う。
> 「○○だと思った? ざんねん!! ××でしたー」:もともと3つ別々だった表現が合成されるまでに20年かかったとわかる、時代を感じさせる表現。「『由村白菜先生』とされるセンセイ」については[3224]…じゃなくて、「焼きビーフン」「さけるチーズ」については[3403]を参照。…ラーメンに梅干し? なんのことかなぁ!(棒読み)
この子がね(違)にくたらしくてしつれいしました。
[4296],[4298]に続きます。
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