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[4285],[4287],[4288],[4289],[4290],[4291],[4292],[4293],[4294],[4295],[4296]の続きです。
再び『理路』である。
・[4289]
> 「理路」だけで使う用法はすでに廃れている
> 「理路整然とした」という常套句から『理路』という語を切り出して使う若者(?)
> なるほど「理路整然とした」をわざわざ調べないとわからないといってうっかり調べると「理路とは」「整然とは」に分けて説明するような質の低い説明を見ちゃうんですな。国語辞典を引けば「理路」だけでも見出し語になっている。しかしどうだ。そこに用例も挙げられている辞書を見るまでわからないけれど、そんな用例はせいぜい夏目漱石ぐらいで終わってる。
https://twitter.com/search?q=%E4%B8%AD%E5%A4%AE%E6%9C%AC%E7%B7%9A%20%E5%A4%8F%E7%9B%AE%E6%BC%B1%E7%9F%B3&src=typed_query&f=live
https://pbs.twimg.com/media/Dgn3fqlUwAAXKcW.png
https://pbs.twimg.com/media/Eh7tbvBUwAAqdks.png
きょうは中央本線で夏目漱石。(違)清少納言が自動改札で戸惑うのもかわいいじゃないですか。(もっと違)「終わってる」というのは、究極の誉め言葉です。(※最初から「よく完成し」していた、という意味で。)
・[3513]
> 「納言ちゃん」が自動改札機を珍しがるやつ(!)
> 「納言ちゃん」が自動改札機を珍しがるやつ(!)
「納言」が(下の)名前だと思ってる残念な受験生(という設定)!
> ある程度、仙台や新潟など含めて普及してからでないと、「大都会とーきょー!」みたいなのを強調しすぎる感じになってしまって、リスナーの共感が得られないことでしょう。(※NHKFMは全国放送です。)
> Googleウェブ検索で「納言ちゃん NHK」といって、そっちじゃない、たぶん21世紀? ミレニアムだっけ、そういうのに入ってからのFMのラジオドラマのほうの「納言ちゃん」が自動改札機を珍しがるやつ(!)を一種『再発見(でぃすかばーナニガシ!)』したいんですけど、まだ見つからないんだなぁ、これがっ。
> > 恋する音楽小説スペシャル
> > 新しいアイのカタチ(1) これが私の生きる道
> うーん。「納言ちゃん」は、そういうキャストではなかった気がするんですけど。…うーん。
> ン年前から急に現代にやってきた的なストーリーで携帯電話とか自動改札機とか(現代のほうの主人公が)うれしそうにレクチャーしながら通学するんですよ。意外と「2000年のクラスメイト」あたりなのかなぁ。…わからないや!(※本当にわからないんです。)ずばり「携帯電話」というタイトルの回も(同じ2000年に)あるんですけど、声のかたが記憶と違うかなぁ。いやいやいや、「(現代のほうの)主人公Aみたいなの!」は、このかたかも知れないなぁ。…わからないや!
http://mezala.la.coocan.jp/radiodrama/rd2000.html#G20000226
「朗読ふう」という演出だから、1人でぜんぶ読んでた説が浮上! …むむむ。中央本線で母親の役ですか。20年も経ったんですね。(※ソコジャナイ。)
・(2018年10月21日)
https://toyokeizai.net/articles/-/243848
> 私は漱石の文体も大好きです。なぜかというと、私が教わってきた日本語の文体はこの頃に確立されており、漱石などはその典型だからです。ただ、完全には定まっていない日本語もありました。
「大好き」というかなんというか、わたしたちに安心を与えるものである。
> たとえば、漱石は自分の作品の中で「簡単」を「単簡」と書いている。これは当時としてはよくあることで、漱石が「簡単」と書かないで「単簡」と書いただけのことです。そうしたら、いつの間にか漱石が使っていた単語ではない方向に世の中が流れていった。漱石が多数派ではなかっただけで、それだけ日本語がしっかりと確立されていなかったということです。漱石はおよそ150年前に生まれていますので、私たちが現在使っている日本語というのは、ある意味そのくらいの歴史しかない。
・[4289]
> 「理路整然とした」というフレーズ以外で「理路」という言葉は使わなくなっているのだということを理解しないといけない。それに反してわざわざ使うのであれば、それはポエムになるんだと理解していないといけない。
『理路』と書いてあると(字面の見た目が)痛々しい。音としても、とげとげしい。口先が尖る。
> 何か作中で白熱の議論をしてみせる作品で、ポエムとして『理路』というセリフが出るかもしれないが、それはそれ。あなたがブログやツイートで『理路』なんて書いたら、とんだ赤っ恥だ。
そんな作品があるかどうかは知らない。あってもおかしくはないとは思っておく。そのくらいには、どんな時代でも一定の確率で、「理路整然とした」という常套句から『理路』という語を切り出して使う若者(?)が出現してしまうということは起こると思った。しかし、そんな用例は明らかにおかしいので、周囲から(使うのを)止められるか、(止められても使い続ければ)話を聞いてもらえなくなるか、(使ったところで)そもそも何の影響力も持たず、ほかの人が真似するということにもならないで自然に消滅するだろうというものであった。(と思う。)そういう言葉は無数にあるとも思う。
・[4221]
> なぜか学校のせんせいにありがちな謎の日本語の例として「これはヒントに!」みたいなのを過去にあげつらったことがありました。(※過去形)
子どもを相手にしている職業のひとの日本語はおかしくなってもしかたがないというあきらめがある。そんな日本語で教わって子どもはだいじょうぶなのかというと、これが大丈夫というか、むしろ好ましいのである。子どもの自然な発達に「よく寄り添い」ということである。なかなかできるものではない。学校のせんせいの日本語は子どもによって破壊されつくされるけれど、これが日本語の維持に大切なことなのだ。いわば「いけにえ」である。日本語は「なまもの」である。きょうは豊洲市場でフォークリフト(違)じぶんの日本語は壊されないようにしながら、壊しながら育つ子どもは学校のせんせいに任せているのだ。(※ジト目)
・[3326]
> 東京学芸大学附属大泉小学校「これは自由研究のヒントに!」(2011年7月13日)
> 意味を成していないタイトルだと思ったのですが原文ママ。
> > 先日、都立多摩図書館から小包が届きました。
・[4221]
> …「これは自由研究のヒントに!」!! それ、日本語ですか。
いっぽうそのころ(略)他人が見れば明らかにあなたは国語が苦手だろうという人ほど(入試の科目としての)国語を変に勉強しちゃって、その結果、古典(文学)や自然言語処理の研究に従事していたりするから、すごくやっかいだ。(※実感です。だいたいそういう人は、楽しそうに話すとか嬉しそうに話すという場面が皆無で、抑揚なく話す。…見ちゃおられん。)
・(2008年)
https://ci.nii.ac.jp/naid/110009850470
「理路」という言葉だけで止めてみせる、いわゆる体言止めのかっこつけた(ふうの)用例がないわけではないが、ものすごく信用ならない。用例として採録するには至らない。(と思う。)
> 第一日目
「第一日目」と書いてあるから、何も信用しない。
> 「読むこと」の理路を求めて
> 本稿は、「読むこと」とは何かという問題を考えた論である。
> 「読むこと」の理路を明らかにしなくてはならないことが、改めて明確になった。
めちゃくちゃである。用例として採録できるわけがない。そんな『理路』という用例を認めるわけにはいかない。
・(2008年)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/nihonbungaku/57/11/57_KJ00009521695/_article/-char/ja/
> 『源氏物語 表現の理路』
> 本書は、今井氏が二〇〇五年に
書評の筆者は、図書のタイトルの『理路』という言葉の使い方には何の疑義も示さない。まず、そこが疑わしい。
・(1969年10月25日)
https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=196427754
> 藝術の理路
> 河出書房新社
あるけど河出書房新社だし1969年だし、その後にほとんどないなら、ないも同然だ。
「理路をたどる」以外に『理路』だけが切り出される用例の生まれる余地があるかというと、あった。
https://dictionary.goo.ne.jp/thsrs/13999/meaning/m0u/
> ▽この論文は理路が整然としている ▽それは理路が通らない議論だ
「理路整然と(した)」が、あまりにも使い古されているので、ちょっとしゃれた感じにしたくて、わざと「理路が整然と」のように「が」を入れて崩すというのがある。かなり話し言葉的で、崩し過ぎだと非難する向きも当然あろう。どきがわくしてむねむねの類まではいかないけれど、要するに馴れ馴れしい。主人公が風雲の園児である作品とか(違)、あるいはよほど身内じゃないと使えない崩しかたである。
https://i.ytimg.com/vi/D59q9bulT_M/maxresdefault.jpg
https://cas.nttdocomo.co.jp/flcache_data/hikari/images/provider_list/img_provider_wakwak.gif
※画像はイメージです。
> 理/条理/道理/ことわり/理路/筋道/道筋/つじつま の使い分け
そこに「理路」をどういう時に使うべきかの説明はない。
> 「ことわり」には、理由のあることという意味があるが、やや古めかしい。「理」とも書く。
> 「筋道」には、「筋道を追って話す」のように、事柄の順序の意味もある。
見出しでの順を頼れば、この2つの間に「理路」について書いた文がなければおかしいのに、ない。
> 理/条理/道理/ことわり/理路/筋道/道筋/つじつま の類語 - 日本語ワードネット
そこにも「理路」は出てこない。見出しがおおうそである。ある程度は自動的に作っているのだろうと疑っておく。だから、同じく自動でいんちきなブログやツイートをこしらえる悪だくみがあれば、『理路』と書いたブログやツイートが全自動で出てくることもあるだろうと思う。それを全自動いんちきの類だと見破れずに引用したり真似して『理路』と書いたりする人間のユーザーが現われると、そこで一種『洗浄』されてしまうこととなる。そのあとはもう、「あのひとも使ってたよ?」といって『理路』と書く人が爆発的に増えてしまうのである。そんなことでいいのか。そもそも『理路』だけを切り出して、常套句ではない任意の句として使える下地はないのである。不自然きわまりない。
・[3167]
> > 早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問の野口悠紀雄さん
> > 一言で言えば違和感です。あるはずのないことが起こってどんどん進行している、という感じがした。
> > 「東京都を売ればアメリカ全部が買える」などと言われるようになった。カリフォルニアにペブルビーチという美しい高級ゴルフコースがありますが、そこが日本の不動産会社に買収された。私はありえないと思った。ニューヨークのロックフェラーセンターを三菱地所が買い、そういうことが次々起こっていく。日本のNTTの時価総額がアメリカのAT&TとIBMを合わせたよりも大きくなったとか。それを誰も不思議に思わない。その異常さですね。87年に私が東洋経済に書いたのは地価と賃貸料、フローとストックの価格の比較でしたが、その前提として「直感的に見て、これはおかしい」と。
> > 「直感的に見て、これはおかしい」
> > 一言で言えば違和感です。
わたしはじぶんの直感と違和感を、まだ信じておくことにする。
・(♪〜)
https://pbs.twimg.com/media/Ek-3uQjUwAEPBnQ.png
ほぅ。ここが有名な「of八」(オブハチ)ですか。(違)
https://pbs.twimg.com/media/Ek-3tG6U0AAjUyy.png
…網戸が破れてる。てゆーか網戸あるし。えー、どこどこ?(以下略)Googleで「リーズニング(理路)」をフレーズ検索すると、2004年8月の映画の感想と、2008年8月の英語の学習と、2015年9月のイルカ(ぐぇ)と、2020年6月の(げふ)しか出てこない。
> 岩田健太郎のクリニカル・リーズニング・ラーニング
わあぃ岩田健太郎のクリニカル・リーズニング・ラーニング。はじまりました岩田健太郎のクリニカル・リーズニング・ラーニング。きょうはここから岩田健太郎のクリニカル・リーズニング・ラーニング。(違)「リーズニング」は「推論」です。それ以外の訳語は認めん…認めんぞ!! …みたいに言ってください岩田健太郎さん。(※恐縮です。)
・(2009年2月15日)
https://webview.isho.jp/journal/detail/abs/10.11477/mf.1551101346
> クリニカルリーズニング(clinical reasoning)は,臨床推論と邦訳される.
> 臨床現場では,原語をそのままカナ読みでクリニカルリーズニングと呼ぶことが多く,
> クリニカルリーズニングとは,対象者の訴えや症状から病態を推測し,仮説に基づき適切な検査法を選択して対象者に最も適した介入を決定していく一連の心理的過程を指す.
音が似ているからといって「リーズニング(理路)」と括弧書きしていたら赤っ恥だ。日本語で「推論」とだけ言ったり書いたりすると、品詞がよくわからない。動詞的なことを指しているのか名詞的にしか言っていないのかが曖昧である。しかし「リーズニング」は明確に動詞の「ing形」である。
▼「推論」は「推論する」というサ変での用法が支配的であるという前提では「推論」をあてるのが最も適当だ。▼「推論して得たもの」を「推論」とも呼びうるけれど、それは回りくどいから、辞書に載せるのも2番目以下でいいんだと決めつければよい。(違)
一方、▼「推論する」と▼「推論して得たもの」を「どうせ同じじゃん」とばかりに▼「推論」と言うような日本語の話者がいるとすれば、とんでもない。(すごくいるけど。)
「藝術の理路」「表現の理路」というタイトルにおける『理路』は、そこで体言止めになっていて、それ以上どうということもないといえば、そうともいえる。だから見逃される(あまり違和感がなく、とりたててどうのこうの言われない)わけでもある。
だからといって、「藝術の理路」「表現の理路」というタイトルの図書があることをもって、任意の文脈で好きなように『理路』と書けるということにはなるわけがない。
まず、「理路」と書いてあっても、その意図するところがだいぶ違うだろう。これらの「理路」の用例からは、「○○はどこから来てどこへ向かうのか」という(非常に長い)『道』のイメージを強く想起させられる。それならなぜ「道」と書かないのかというところには、「○○の『道』(歴史・系譜)は、このようにしかならなかった(そこには『理』がある)」という主張があるだろう。「理路」というものが「ある」「これしかない」という立場で使っているのだ。「ない」とか「わからない」とか「見えない」などという否定ではなかったのである。
https://www.nhk.or.jp/bunken-blog/300/264688.html
http://www.nhk.or.jp/bunken-blog/image/saved/2017/03/0310-111-thumb-700x266-762908.jpg
> 問題 次のa〜hとア〜クを結びつけなさい。
> ア お武家様
> イ (ニセ)中国人
> ウ 老博士
> エ 女の子
> オ 田舎者
> カ 男の子
> キ お嬢様
> ク 関西人
…コレジャナイ。
http://unicorn.ike.tottori-u.ac.jp/murakami/doctor/node98.html
http://unicorn.ike.tottori-u.ac.jp/murakami/doctor/img369.png
> 話し相手と対面して話す自由発話に対して、電話のような音声のみによる対話では、間投詞は相手の注意を促す役割を持つ場合がある。
> NHKラジオ第一放送の電話相談番組を書き起こしている。
そもそも「理路整然(と)」という常套句によって用例が支配されているともいえる。「理路整然(と)」という形では、すでに「理路」は「整然(と)」の強調のはたらきしかしていないのである。もはや「理路」は間投詞である。「理路…」という2文字目までで、そのあとは「理路整然(と)」につながるものだという受け止め方が、長い間にわたしたちにインプットされているのだ。いまさら急に『理路がない』『理路が不明』みたいな用例を見かけると、からかわれているのだと感じる。「理路整然と…と言うと思った? …ざんねん!! 理路なんてありませんでしたー(べー)」と、舌を突き出しているような感じなのだ。
・3D造形「べー」です
https://www.kotobukiya.co.jp/wp-content/uploads/2020/08/aa664e0f50fca74287e49e3e8e7fdfd6cdf1ff6a.jpg
しつれいしました。(棒読み)仮には『理路がない』『理路が不明』と書かれた原稿があったら、「論理がない」「論理が不明」と書いたつもりですか(あんたちゃんと勉強してますのんか)みたいに朱を入れればよいのだ。(と思う。)こうしてきょうも日本語ワールドの平和は守られた。(キリッ
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