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[5128]の続きです。
・[5128]
> 『70代になったばかりの小池真理子』(※番組内で自称)が「カノン」を、「じぶんが吹いたリコーダー」ということでなく、あたかも『観賞』の対象であるかのようにとうとうと語るのを誰も止められなかった。1969年ごろに仙台の「バロック喫茶」なるものに入り浸ったという話。1969年の「カノン」とは…(てんてんてん)。
> わざわざ「カノンがいっぱい」こと、11もの異なる「カノン」の演奏(録音)を詰め込んだPHCP-20310なるパイナップルみたいな『CD』をぶつけてみせる番組のスタッフ。『70代になったばかりの小池真理子』(※番組内で自称)に対して、あまりにも冷ややかではないか。
> 音楽室に「パッヘルベル」の肖像画があるかというと…(てんてんてん)。肖像画とセットで「権威」として受け止めさせる「いわゆる交響曲」ではないものを聴いてみせるという『反抗』のカタチ。(※カタカナ)
・[3166]
> > 数年前のパーティで,このジョークをいまだに鼻高々に披露したおじさんに遭遇したときには,口に含んでいた,まずいワインを吹き出してやろうかと思った.
・[4664]
> > 僕が院生時代の2000年代半ばでも、古典から現代まで幅広く知っているべきで、人前で無知をさらすことは極度に恥ずかしいという感覚がありました。カントについてのある事柄を僕が知らなかったとき、それに気づいた先生に「千葉くん、それを知らなかったということは絶対に口外してはいけません」と言われたのを印象深く覚えています。あのときは本当に怖かったのです。そういうプレッシャーを今の世の中でもう一度、とまでは思いませんが、今はインターネットでどんどん芋づる式に調べられるし、僕はEvernoteなどを使って(以下略)
同じ交響曲ばかりを聴き続けて「いつもと同じ」という“安心”をむさぼり(略)レコードがすり減ったら同じのを買いなおすというのが『上の世代』の基本的な態度だ。「カノンがいっぱい」みたいな『CD』は、そうした『上の世代』に対する冷笑をいくばくかは含んでいる(と思う)。自分が知らない曲を聴くことへの恐怖心や警戒感があるのだろうか。それとも観賞する音楽の1つ1つがまったくじぶんの意思で選んだとか好みだとかいうことでなく(「みんな」と同じであるという)「たしなみ」に過ぎないのだろうか。ぜんぜんわからない。(棒読み)
・[3594]
> > 世界初演の曲をホールでいきなり聴いて、曲の印象をつかむというのはかなり難しい話である。
> > まったく知らない曲を聴くときは曲の展開が読めず、一音一音を分析的に聴くことになってしまう。そして、まんまと作曲者の狙いにはまっていくのである。
・[4388]
> 記憶に残るほど同じ音楽を聴き続けるものじゃない。記憶に残らせようとしてくる音楽はろくなものじゃない。たいした音楽でもないのにそれだけを記憶して何か言い続けるようでは音楽に対して未熟な態度である。いくらでもある多様な音楽のセカイに目を向けない、ひどい態度である。まだ聴いたことのない音楽との出会いを楽しみにするのが楽しいのだ。その次にはじぶんでも音楽を作ってみようということになるのが自然だ。作らないとしても、演奏してみたいとかね。
・[3935]
> 他人の音楽の論評をするとき、内容について何も具体的・技術的には触れず、『人のこと』(=人事)=だれそれが何した何を言ったボスはだれだということ=ばかり並べたてて論評になってると思い込んでいる者がいたら痛々しい。
作曲も演奏もしないで、ただひたすら誰ぞの名演を生で聞いたんだぞみたいなことばかり自慢するようでは目も当てられない。(※見解です。)
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