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(約14000字)
[4676]の続きです。
・[4676]
> > 出国率が7%に満たない地域に住む人が海外旅行に対してどのような意識を持つのか
> > 出国率が7%に満たない地域に住む人が海外旅行に対してどのような意識を持つのか
> ハワイ・オアフ島出身…じゃなくて、ものすごい言いかた。「大原快速」と「戸松が特典」が交錯する。…しー・まー・せー・んーっ!!(※真っ赤)
・[3808]
> きょうのお米はアルデンテ、永谷園は大袋であります。
> 桟敷席で何か談笑して何か食べてる時間のほうが圧倒的に長いんだよ。
https://pbs.twimg.com/media/E0XlAzRVEAEhg77.png
https://www.panasonic.com/jp/corporate/history/konosuke-matsushita/027.html
> 当時、電話を架設するには1,000円以上もしたから、創業間もない企業としては、必要に迫られながらも、架設できなかったのである。しかし、電話の有無は、その商店や工場の信用の尺度にもなっていた時代であり、所主はかねてから急設電話の申し込みをしていた。幸い、その抽選に当たり待望の電話が架設されたのは、大正9年6月のことであった。
まったく余談ですけど、大正9年に電話というのは、とてつもないものですぞ。(棒読み)
https://time-space.kddi.com/it-technology/20191023/2765
> 公衆電話が、街頭にも進出したのが1900年(明治33年)。
> 昭和に入ると、いわゆる「黒電話」の元祖となる「3号自動式卓上電話機」が登場。
途中が飛んでるし、千葉くらいのいなかでどうだったのか、よくわからない。(棒読み)
http://actros.sakura.ne.jp/file5.html
> 明治34年3月、官報に新潟電話交換局開設の逓信省告示が掲載されます。まずは市役所内に事務所がおかれ3月28日から加入申し込みが始まりました。全国では21番目の交換局でした。
> 加入申し込みは大混雑で、徹夜組やらヤジウマやらで大変ごったがえしたと当時の新聞は伝えています。この日だけで362件の申し込みがあり、そのうち168件が第一回の加入者となりました。 この第一回目の加入者は新潟の有力者が名を連ねており、当時の商工業の一端がのぞける興味深いリストです。
> 交換局には「西堀通電話所」も設置されました。これは電話をもたない市民のための通話室で、これも一種の公衆電話のようなものです。料金は一回15銭で5分以内。郵便切手で納めました。 他に当時ならではのシステムとして「呼出電話」というサービスもありました。電話を持っていない人と話しをしたい時に、電話所へ申し込むと、その人を呼び出してきて通話をさせてくれるサービスです。 「呼出通話券」という紙を、呼び出される人に配達し、その人はその券を電話所へ持ってきて相手を呼び出してもらい通話するのです。これは新潟市全域(普通加入区域ということ)がサービス対象でした。
やたら生々しいけれど、どの資料からの引き写しなのか判然としない。見たけど見なかったことにする。
> 明治41年12月、電話が東京とつながるようになりました。
…それまではつながっていなかった!!(※絶叫)
> 逓信省が「長距離通話区間」と指定した区間を通話しようとする加入者は、別回線を引き「ソリッドバック式電話機」という専用の電話機を設置しました。もちろん附加使用料がかかりました。
千葉のいなかと神戸で通話するなんて…(てんてんてん)。
> 加入者の増加にともない、大正15年に新潟交換局の交換機が「共電式」に入れ替わります。これで、加入者の電話機へは常時通電がされることになり、受話器を |