・「営団地下鉄のPTC」からの「自動放送」を有楽町線(1976年・1983年・1988年)で読み解くココロミ(試) ・【東京5号線】できた、走った、追い抜いた【風速計あり】 ・【班猫】「ナイト2000」(1982年9月)から「VFD」「Square 721」を経て「ED13形」(1924年)に至るルート(談)【ヤマタネ立川文書センターあり】 ・「営団地下鉄五十年史」(1991年7月)を手に取らずに参照するはなし(談) ・「メトロアーカイブアルバム」の1960年代を「ぜんぶ見る」はなし(談)
(約26000字)
この一連の記事では、「じゅんふどうのあっとらんだむ」で「じどうほうそう(ただしはっしゃめろでぃーをふくむ)」を技術面で立体的に読み解くことを目指します。
お好きな順番でお読みいただけるよう、1つの記事を短めに、そして細切れに掲載いたします。その分、1つの記事を読むだけではよくわからないということになるでしょう。
とはいいましても、意味的な順序というものは、あるにはあるとの認識でございます。「営団ブザー」の話題([3453])の続きでございます。
いま、一般紙の記者が鉄道の話題を取り上げてみんとす! …といって、こう、ふだんの取材方法そのままですと、▼地元の人の声をそのまま載せる(思い出話に偏重する)、▼いきなり鉄道事業者や市役所に質問する(「わからない」との回答を引き出し「知られていない穴場!」などといって持ち上げる)、▼(個人的に趣味で詳しいと思いこんで)ぜんぶ『鉄識!』で書いてしまう、などの心配がございましょう。
広報としては、第三者の持ち分についてはいっさい答えないというソレが高まってきており、質問しさえすれば何でもわかるとはいえない状況になってきているとみられます。質問するより前に調べ尽くす、建前として回答される内容を超えて文脈をつかむという努力が求められてくるといえます。こう、間違ったことを書いたらいっかんの終わりだというソレとともに、鉄道の話題を担当するときだけは「いっぱしの鉄道ライター!」になりきるつもりで取材されることが期待されましょう。
・「いっかんの終わり」⇒「もはやこれまで」⇒「記者しっ格の烙いんを押される」
http://thesaurus.weblio.jp/content/%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%8B%E3%82%93%E3%81%AE%E3%81%8A%E3%82%8F%E3%82%8A
・「いっぱしの」(いい意味で)
http://thesaurus.weblio.jp/content/%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%B1%E3%81%97%E3%81%AE%E5%8F%A3%E3%82%92%E5%88%A9%E3%81%8F
> 偉ぶった物言いをする
> いっちょまえの口を利く
・「(得がたいものを)手中に収める」⇒「(なるべく完全な形で)全体をつかむ」
http://thesaurus.weblio.jp/content/%E6%89%8B%E4%B8%AD%E3%81%AB%E5%8F%8E%E3%82%81%E3%82%8B
> 自分のものにする
> 獲る
> 勝ち取る
> つかむ
> 仕留める
鉄道ライターへの期待というのは、みなさま、こう、じぶんに代わって鉄道というものを手中に収めたかのような高みからいっちょまえに解説いただきたいのだという、そういうことであります。鉄道などという高度に複雑な「総合技術!」を前にして、そこのところ、書き手が不安そうにしていたら、あるいは標準的な読み手としてすぐに気づけるような初歩的な誤りや漏れなどがあれば、読み手としては記事を読もうとは思われないと、こういうわけです。
この、「漏れ」(※2)というのが記者にとってむずかしい、ふだんは考えないこと(※1)なのではないかと見受けられないでしょうか。「余計なこと(≒間違ったこと)を書かない限りは間違わない!(⇒正しいことしか書いてない!)」との考えでは、「触れて当然と思われることがらを漏らした!(⇒書かなかったということ自体が間違い!)」というような、(伝統的には)記者が考えてもいないようなソレが生じてくるわけです。
※1 漏れのないようにするためには、ぜんぶ頭に入れておけといわれ、その都度、正確を期して調べたりはしない(そんなヒマはない&じぶん、たいていのことは既に頭に入っていると過信される)という傾向が…ないとはいえませんぞ。(恐縮です。)「(社内で)誰も知らない新しいことはわからずじまい」という落とし穴のある「エソタープライズ」([3302])も参照。
※2 「「TP」「FP」「FN」「TN」のすべてを見渡しての考察」(かみつたセンセイ[3283])も参照。わたしたち、ナイーブにも「TP」だけ、もしくは「FN」だけを見て、オニの何かをとったかのような書きかたをしているのですぞ。…ギクッ。
そして、『営団ブザー』というものも、なかなか調べがたい話題ではないかなぁ&調べられないから話題にされないのではないかなぁ、との雰囲気にございます。(あくまで雰囲気です。)
…いえ、あるにはありましたですよ。
・日本経済新聞「発車メロディー、ご当地曲が続々 東京メトロ」(2015年6月4日)
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG29H6P_U5A600C1CC0000/
http://www.nikkei.com/content/pic/20150604/96958A9E93819695E0EB9AE4828DE2E6E2E4E0E2E3E79191E2E2E2E2-DSXMZO8767596004062015CC0002-PB1-8.jpg
> 発車メロディーのボタンを押す東京メトロの車掌(東京メトロ東西線日本橋駅)
> 東京メトロが全9路線の駅の発車ブザーを街のイメージに沿った個別のメロディーに変える取り組みを進めている。
> 東京メトロは、6月中に東西線でJR東日本が管理している中野駅以外の22駅の発車合図をブザーからオリジナル曲などのメロディーに変更。
> 同社によると、営団地下鉄時代から続く「営団ブザー」をメロディーに切り替えたのは、2009年の丸ノ内線の一部駅が始まり。(略)その後も、ホームドアの設置や駅の設備更新に合わせるなどして、昨年末までに全179駅のうち65駅でオリジナル曲やヒット曲が取り入れられた。
「営団ブザー」との通称が東京メトロの社内でも使われているのかは不明ですが、記者と広報の間で「営団ブザー」といえば通じるということは…まあ、わかりますよね。(あくまで一般的な推察です。)しかし、「営団ブザー」そのものについては、▼最初の導入年月はいつなのか、▼いかなる設備であったのか、それに▼ブザーを維持することができないからメロディーにするのかなど、まったく書かれていない記事でした。
※ある記事を読んで、そこに「何が『書かれていない』か」を読み取るというのも大切ですぞ。(あくまで一般的な見解です。)
★「営団地下鉄のPTC」からの「自動放送」を有楽町線(1976年・1983年・1988年)で読み解くココロミ(試)
・[3108]
> 誰でも同じことがインターネットを使っていますぐ調べられます。
インターネットを使って誰でもいますぐ同じように調べることができる範囲に限って、しかしベストを尽くして調べ尽くそうと思います。
(民営化前の)営団地下鉄としての「詳しい自動放送」の導入のタイムラインについては調べていませんが、民営化直前までに聞かれていた渋い自動放送としては、有楽町線くらいのソレ(1983〜1988年)との感触を得てきております。
・[3421]
> > それから、これはこの間も行って見てきましたけれども、三駅の放送です。電車が入ってくるから白線の内側へお下がりください、これはどこの駅でもやっています。テープです。ところが、そのテープを聞いていますと、下り線が来るのか上り線が来るのかさっぱりわからないのですよ。そんなサービスの悪いのをおっぽっておいてはいけないと思うのです。やはりそういうところは、鉄監局長が営団へ直せと言うのが私は当然だと思うのです。私は二十八日に行ったときにそれを指摘してきました。至急直すべきだ、わかりました、こういう返事なんです。私ゆうべ電話をかけて確認してみた。依然として直ってない、こういう状態です。ほんとうに乗客を無視している扱いだ、こう言わざるを得ないのです。
> この時代の人は、自動でしゃべる機械はぜんぶ『テープ!』といいますんで…ゲフンゲフン。この時点での営団地下鉄の駅の自動放送がテープであったのか、ICであったのか、ひいては磁気ドラムであったのかなど、いまのところ確認できません。しかし、綾瀬−北千住間の開業は1971年4月ですから、最初からICを使用した「新しく新開発!」の「音声ファイル装置」(大阪万博1970年からの1971年「成田駅」[3208])が綾瀬−北千住間に備えられたとみるのが最も自然だとは思いました。そして、「音声ファイル装置」の収録内容がわずか2週間で修正できるわけがないでしょ&ROMの容量がタイトだじぇ★。…いえいえいえ、開業直後の装置は「試行中!」のソレで、仮のものだったのではないんですかねぇ。すぐに本式のソレと取り替えることが決まっていたので「すぐ直します!」的な回答がなされたのではないんでしょうかねぇ。(まったく想像です。)
1971年の時点では、ピカピカの新線で「自動放送!」といっても、「下り線が来るのか上り線が来るのかさっぱりわからないのですよ。」とのことで、おそらくは「まもなく1番線に電車がまいります/白線の内側にお下がりください//まもなく1番線に電車がまいります/白線の内側にお下がりください」みたいな、番線だけ言われても行先がわからないよ! …というものであったのかなぁとの感触にございます。
※この時点では、行き先や種別などを詳しくお知らせしようという目的ではなく、危ないから下がれと、そちらが目的で導入を必須とされたのでしょうから、それなら中途半端な文言の音声ではなく警告音だけにしておけばよかったものを…などと、あくまでいまとなっては思われるのかもしれませんし、思われないのかもしれません。…なるほどなるほど、自動放送より長く鳴りつづける「電車が/きます」の表示器って、実はかなり洗練されているのかもですぞ。本当でしょうか。
有楽町線は、これより3年ほど遅く部分開業し、その2年後に「自動列車運行制御装置(PTC)」が構築され、1988年、京葉線にあわせて全線が開業したという、新しい地下鉄です。
・(再掲)ウィキペディア「有楽町線」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%A1%E3%83%88%E3%83%AD%E6%9C%89%E6%A5%BD%E7%94%BA%E7%B7%9A
> 1976年(昭和51年)9月22日 - 自動列車運行制御装置(PTC)を導入。
> 1983年(昭和58年)10月1日 - 西武有楽町線小竹向原駅 - 新桜台駅間開業、乗り入れ開始。
> 1987年(昭和62年)8月25日 - 和光市駅 - 営団成増駅(現・地下鉄成増駅)開業。東武東上線との相互乗り入れ開始(森林公園駅まで)。
> 1988年(昭和63年)6月8日 - 新富町駅 - 新木場駅間開業、全線開業。
1976年の時点でいかほどの詳しさの自動放送が導入されていたかは不明ですが、新木場までの駅名が正式に決定しない段階で「音声ファイル装置」のほうなど組まれてしまいますと、かなり手戻りかなぁ、との想像にございます。
※PTC(プログラマブルな進路制御装置)のうちPIC(旅客案内装置)の部分としては、1972年から1975年までに新幹線で導入されたものが在来線や地下鉄に「おりて」くるという感覚でしょうか、しかし、博多開業の翌年に、ただちに有楽町線に「おりて」きたかどうかまでは、わかりかねます。もっとも、新幹線のPTCそのものでなく普及型とでも呼ばれそうな、いたってふつうのシステム一式が、さほど割高でなく導入されたのだろうと仮に早合点してみます。
この時点では「LED発車標」はなく、反転式かブラウン管かといって試行錯誤されていた時代と見られ、『営団地下鉄で発車標!』といって、その実、有楽町線(など)で『最初からLED発車標』(≒LEDを使ったものが出てきてから初めて、発車標というものが整備された)かなぁとの想像に至ると、こういうわけです。
・(再掲)「新木場/行きが/まいります」「都営新宿線/は、お乗り換えです」のイメージです(2000年)
http://melody.pos.to/eidan.html
http://sound-of-station.com/sound/eidan/ichigaya_1an.mp3
http://sound-of-station.com/sound/eidan/ichigaya_1dp.mp3
・(先述)
> 『ATOS放送!』が「つぎはぎ!」だというなら、同じ時期の有楽町線も同じように云々されなければならなかったと、いまさらながら思い直します。
> 駅名が「新木場」に決定してから製作された装置が2000年当時に使われていたのだろうと推定してみます。本当でしょうか。埼京線、上越新幹線、京葉線の装置と同じ年代だろうといって、この時点で標準的なソレ(自動アナウンスかくあるべしという認識のようなもの)が、国鉄と営団の別を問わず共通されていたようだとうかがわれてきます。「東海道型!」より10年ほど早いということです。
★【東京5号線】できた、走った、追い抜いた【風速計あり】
「戸塚工場の窓からパラメトロンが投げられた! 打った! 走った!」感については[3179]を参照いただきつつ、有楽町線、千代田線より早いのが東西線と呼ばれる「5号線」であります。
・[3179]
> > この「みどりの窓口プロジェクト」にこそ、日立のデータベース開発の原点があるのだという。
> > 世界初となるソフトウェア専門事業所「ソフトウェア工場」を設立したのだ。
> …とのことで、さすがにMARS-1の説明はしきれない(本題から逸れる)といって一種「戸塚工場の窓からパラメトロンが投げられた! 打った! 走った!」感を感じました。(あくまで比ゆです。)
説明しきれないものを、「うーん、きみたちにははやいかなぁ」などといいながら…あなたが説明できるほどには理解できていないというだけでしょ&最初からフラットかつニュートラルに説明いただければ、わたしたち、そこまでむずかしく考えずにMARS-1も理解していけるのではないでしょうか。本当でしょうか。(※見解ですが、今回はMARS-1の話題ではなかったのでした。恐縮です。)
・ウィキペディア「東西線(5号線)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%A1%E3%83%88%E3%83%AD%E6%9D%B1%E8%A5%BF%E7%B7%9A
> 東陽町・西船橋間の建設にあたり、成田国際空港周辺整備のための国の財政上の特別措置に関する法律(成田財特法)による補助金のかさ上げの適用を受けている。
> 1964年(昭和39年) 10月27日 5号線を東西線と呼称決定。
> 12月23日 高田馬場 - 九段下間 (4.8km) 開業。
> 1966年(昭和41年) 3月16日 中野 - 高田馬場間 (3.9km)・九段下 - 竹橋間 (1.0km) 開業。
> 4月28日 国鉄中央本線荻窪駅まで直通運転開始。
> 1969年(昭和44年) 3月29日 東陽町 - 西船橋間 (15.0km) 開業(全線開業)、快速運転開始。
> 4月8日 中央本線への乗り入れ区間を三鷹駅まで延長、国鉄総武本線津田沼駅まで乗り入れ開始。なお、1972年7月の総武快速線開業までは夏期臨時ダイヤ(いわゆる「房総夏ダイヤ」)期間中は乗り入れを中止していた。
東海道新幹線と同時期に開業し、山陽新幹線より概ね6年ほど早くに「完成形」を見たというのが東西線であるとの…その発想はなかった!
> 1978年(昭和53年)2月28日
> 当時、営団では地上部要所に風速計を設置、風速15m/s以上でブザーが鳴動、注意運転を指示、20m/sで列車運転を見合わせ、25m/s以上で運転休止を指示することになっていた。現場から800mの地点に風速計が設置されていたが、大手町運輸司令所では警報ブザーは鳴動しなかった。
つごう、各風速計から司令所に向かって(この方向のみで)2bitの情報が伝送されていたようだとうかがえます。風速計とCTCについては[3397]も参照いただきつつ。ブザーは指令室(司令所)で鳴るのですよ、念のため。
・[2593]
> 「指令」という中間的な存在への理解が薄いようです。あまりにも多くの人が、風速計を見るのは運転士だと勘違いしています。
> いわく「100キロで通過しながら風速計が読み取れるはずがない」とか…。
> **の方も、新聞やテレビの報道、周りの人たちの受け止め方に同調されているだけだと思うのです。その新聞やテレビ、周りの人の認識が間違っているとすれば、そのせいで**の方は余計に困惑するのです。
・[3397]
> 指令室は湘南深沢の車庫にあるとわかり、おお、湘南江の島駅の風速計のデータが指令室ではどのように見えるのか…気になります!
> 1970年から25年、使われたことになるでしょうか。(この途中の時期には装置全体の交換などされているはずがないと決めつけます、の意。)
> よく見えないのですが、こう、(指令室から見て遠隔地の)風速計が規制値に達しているかいないかで点いたり消えたりするランプがあるだけかなぁ的な感触にございます。具体的な数値が知りたければ『電話!』だっ…そういう時代から働いてきた装置ですね、わかります!
> Googleカーが「におい」のデータも採取してくれるのを待ちたいと思いまーす! …そっちですかっ。
※ストリートビューで「におい」がわからないのと似ていて、指令室ではどんな「音」がするのかというのも、ぜんぜんわからないですねぇ。ええ、交通新聞社新書([2947])を読んでなお、わかりませんとも。
湘南モノレールは(「絶対年代」でなく、意味的に)『新しい(新交通システム)』ので1970年からCTCだと思われつつ、いえいえいえ、国鉄線との直通運転を行なう5号線にあっても、遅くとも西船橋開業の時点(1969年4月)までに「5号線CTC!(※実際の名称は不明)」が組まれたはずだ(⇒CTCが組まれたので「運輸司令所」が設置された⇒駅の職員を「営業」だといって「運転」から分けたのはCTCあっての職制である)、ひいては風速計も、東海道新幹線と同じ要領で運用されたはずだ、と推定するところでございます。
伝送線と呼ばれる電線をポヤンと共有しながら周波数ごとに符号を割りつけるというような、現在の水準では符号化ともデータ通信とも呼ばれないようなソレ(通信[3106])をベースとしていた時代の装置(CTC)としての限界にございます。でもまあ、ブザーが鳴ってくれるくらいの親切さ(UIとしての配慮)はあったんだとわかって、ホッとできましょう。自由研究で「お風呂ブザー!」のキットと「FMワイヤレスマイク!」のキットと「FMラジオ!」のキットと「ナイトライダー!」みたいなの([3175])を組み合わせて、そういうのを遠隔でお知らせする装置をおつくりになられますと、県の展覧会([3363])にまで進めたりするのかもですよ。本当でしょうか。
★【班猫】「ナイト2000」(1982年9月)から「VFD」「Square 721」を経て「ED13形」(1924年)に至るルート(談)【ヤマタネ立川文書センターあり】
「(違)」を付け忘れたなどといいまして、この「(談)」というのもあれなんですけど、基本的には既に知られていることや「いまさら」なこと(doneなこと!)を余談として述べますよ、ええ、述べますとも、との宣言のようなソレであるとご理解いただければ幸甚にございます。…わわっ、高いところから失礼しちゃいますっ。個々の事項等は既に知っていても、こういう顔ぶれ(セット)で並べて見たことはなかったかなぁ的な楽しみというものがあるという認識でございます。
・ウィキペディア「ナイト2000」(1982年9月)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%882000
> ナイト2000には人工知能「キット」を搭載し、自分で考えて言葉を話し、さらに自分の意思で動きまわることもできる。礼儀正しく愛嬌もあるキットと、自由奔放なマイケルとのかけひきも「ナイトライダー」の魅力である。
> 番組放映当時は自動車用品店にもこれによく似た光り方をするナイトフラッシャーが並び、人気商品となっていた。このため車種に関わり無く装着している自動車も多かった。
さすがに1982年なので『最初からLED!』なのですよ、わかります! LEDって、最初のうちは本当に「豆球の代わり!」みたいな用途(≒DCで点灯させるパイロットランプ)にしか使われておらず、ICを使ってチカチカさせるようなのは1980年代に入らないとアレですよね。
・(個人のブログ)「LED」のイメージです(TFM-9510、TCM-5000、TC-D5M)
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/14/c5/75dfa714fa78be4ac67b1b425819c816.gif
http://blog.goo.ne.jp/little_twin/e/49368c6bce0f614bbd6558ff614b530c
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/6c/44/8ef22a4072db62994bfd432b1e1a74db.jpg
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/1f/759e9140be1bd4a28c12315cf6d56ffe.jpg
http://blog.goo.ne.jp/little_twin/e/c45f65786aec818f740d0c6228caded0
> TFM-9510
> チューニングインジケータのLEDがちょっちオシャレ?
豆球が『電球色!』で光るしかなかったところ、赤と緑に光るからオシャレなんですよ。うんうん。(※感慨には個人差があると思われます。)
> TCM-5000
> 左上にある赤いLEDは「プリエンドアラーム」だったと思う。
> 例の、テープの終わる前にピカピカするヤツね!
「TC-D5M」では、「REC」と「PEAK」がLEDで点灯するというソレでございます。LEDが実現されてやっと、点いたり消えたり、激しく点滅したりしても大丈夫なインジケーターが手軽に実現されたと、立体的にわかります。
なお、「7セグ」はLEDより前にVFD(蛍光表示管)という形で普及しています。
・ウィキペディア「蛍光表示管」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%9B%8D%E5%85%89%E8%A1%A8%E7%A4%BA%E7%AE%A1
> 1966年に伊勢電子工業(現在のノリタケ伊勢電子)のエヌ村**博士らによって発明された日本オリジナルの技術である。(略)1970年代の電卓戦争時代に電卓のディスプレイとして使用するためにVFDが採用され技術が進歩した。
> 今日のように平面型で複数の数字や記号を表示できるものも1970年には開発され、用途が広がっていった。
※一例として、リコー「RICOMAC RC-8C」(1975年)のイメージは[3108]を参照。1975年にもなると、もはや景品としてもらえる(⇔しかしじぶんでは買わない)くらいには安価なソレになっていたということです。
・じぶんで買うほうの「関数電卓」の一例です
https://2.bp.blogspot.com/-z-PQxYZglgw/Vy0lAZpoPSI/AAAAAAAAAZ0/RsWA6itHzKYB-zMRcC8Wof8wgWs3uvssQCKgB/s1600/fx-15_1.jpg
https://www.blogger.com/profile/06726756838680042381
> 伊勢湾台風を1歳で経験(したらしい)、小学校の修学旅行は大阪万博、学生時代にはじめてVFDの関数電卓を購入(計算尺から解放!)
※「数表」については[3400],[3180]など、「FUJIC」(1956年)については[3179]を参照。伊勢湾台風(1959年)については[3128]を参照。関数電卓は1976年ですね、わかります!
LEDの輝度が高まり、大型化も可能になってから、LEDの7セグが普及していったと、たぶんこういうわけです。もっとも、「7セグ」という表示方法のアイデアはあったのですから、紙やプラスチックで7セグを用意し、光源には電球を使うという実装もできないわけではないでしょうが、誰がわざわざそんな面倒なことをしますかねぇ。部品として流通するまでは「7セグ」の採用を見送りたいと、これはもう全力で見送りたいと、見送るための手間は惜しまないんですよ(!?)と、さらにこういうわけです。(※あくまで推定です。)
※そのような考え(⇒複雑な部品の信頼性を部品工場にまるっと投げ〜い…いえ、ウインウインで握手しさえすればマネージできたとみなしてチェックリストに○印をつけ、それ以上は「弊社!(てまえども!)」では考えないという近年エレガントっぽい態勢)を一般的だとみなす立場からしてみると、「ふつーの砲弾型と呼ばれるLEDをぽちぽちと、自力で並べて4個ずつ点灯させる感じ」の列番表示器([3432])というのは、こう、「えーっ!!」といいながらのけぞる感じなのですよ。本当でしょうか。
・「てまえども」
http://thesaurus.weblio.jp/content/%E6%89%8B%E5%89%8D%E3%81%A9%E3%82%82
そして、旧来、ボタンといえば丸いんだといって、小町的に「スクエアーなひと低〜い!(あなた融通が利かないひとなのね!)」([3403])などという用例すらありそうな時代から一転して、こんどは「スクエアでせい悍ながい観!(プラスアルファ! ガクジツ的って、こうですね!)」といいながら、このボタンの書体もはやるんですよねぇ。
・「Square 721」と称するフォントのイメージです
http://www.pickafont.com/images/fonts/large/s/Square%20721%20Bold%20Extended%20BT.ttf.png
・ツイッター(2016年9月2日PST)
https://twitter.com/pictex/status/771894437488259072
> 本書は契約の関係で在庫限りとなります(次回の改定はありません)ので、よろしくお願いいたします。
※…結局、そうなるですかっ。うーん。「改定」は原文ママですが「改訂」ですね。じぶんの文章をじぶんで(も)校正できなくてどうしますかっ&そっちですかっ。(プロは分業ですのでそれでいいんです!)
「Frutiger」([2404],[3015])が(ネコモシヤクシも的な意味で)はやるのは横浜博覧会より後かなぁ。(※推定です。)
・超高解像度「ネコモシヤクシ」(1924年)のイメージです(※山種美術館)
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/35/Madaraneko_by_Takeuchi_Seiho.jpg
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%86%85%E6%A0%96%E9%B3%B3
> 栖鳳が沼津に滞在していた際、八百屋の店先で猫を見て「そうだ、猫を書こう」と思い立ったという。そして八百屋のおかみと交渉して猫を譲り受け、画室に自由に遊ばせながら丹念に観察して作品に仕上げた。
…えーっ。モシ、オヌシモネコヨノウ。このような気持ちを指しておおらかに「ネコモシヤクシ」と表現しようではありませんか。…えーっ。
・Google ストリートビュー 「ネコモシヤクシ」(鹿児島市)のイメージです
https://goo.gl/maps/nQLcer2P8Aw
※ネコモシヤクシ:もしかしたらネコがいるかもしれないという気配。また、そのような気持ちとともに散策すること。(※そのような方言等は実在してございません。)
・「もし」
https://dictionary.goo.ne.jp/jn/219076/meaning/m0u/
> 「―、そちらの方」
・山種美術館の見解です
http://www.yamatane-museum.jp/collection/collection.html
> モデルとなった猫は栖鳳が沼津に滞在していた時、偶然見つけた近所の八百屋のおかみさんの愛猫であった。その姿に中国南宋時代の徽宗皇帝の描いた猫を想起し、絵心がかき立てられたため、交渉して譲り受けて京都に連れ帰り、日夜、画室に自由に遊ばせながら丹念に観察して作品に仕上げたのであった。
「…と、山種美術館は説明しています」という、正確を期した記述をしないで好き勝手に「そうだ、猫を書こう」などと誤字りつつ、「おかみさんの愛猫」「京都に連れ帰り」「自由に」という重要な情報が欠落した抜け殻のような文章をウィキペディアに書いていては、いけないのですよ。「南宋時代」が「そうだ、」に、「かき立てられた」が「「猫を書こう」と思い立った」にリプレースされたんですね、わかります。…コレハヒドイ。
・Google ストリートビュー 青梅短絡線「ヤマタネ立川文書センター」付近
https://goo.gl/maps/ovpQ5yqLyLt
http://www.yamatane.co.jp/lgs/trunk/
・「電気機関車を納入したイングリッシュ・エレクトリック社の年賀状」(1927年)のイメージです
http://img.4travel.jp/img/tcs/t/pict/500/18/82/15/500_18821520.jpg
※1924年は大正13年、1927年は昭和2年です。なお、1923年9月には関東大震災が起きています。日常的なささやかなものごとの1つ1つがいとおしく感じられるなど、描くモチーフの選択にも影響しているのでしょうか。そして、沼津から京都まで手荷物扱いできっぷをですね(略)このフォーラムとしては、やっぱりそっちですかっ。(恐縮です。)「芥川荘」(1897年)については[3416]を参照。1912年ごろといわれる「朔ちゃんのステレオ写真乾板」については[3168]を参照。
・ウィキペディア「ED13形」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%89%84ED17%E5%BD%A2%E9%9B%BB%E6%B0%97%E6%A9%9F%E9%96%A2%E8%BB%8A#ED13.E5.BD.A2
> ED13形は、東海道本線電化に際して、輸入された貨物列車牽引用の電気機関車で、1924年(大正13年)に2両が製造された。
> 製造当初は、1030形(1030・1031)と称したが、1928年(昭和3年)の車両形式称号規程改正により、ED13形(ED13 1・2)に改められた。
> ED17形に改造後は、作並機関区に転属
> 製造時は直流600V/1,200Vの複電圧仕様
作並機関区については[2977]を参照。
・ウィキペディア「東海道本線」より「大正期・昭和初期」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93%E6%9C%AC%E7%B7%9A#.E5.A4.A7.E6.AD.A3.E6.9C.9F.E3.83.BB.E6.98.AD.E5.92.8C.E5.88.9D.E6.9C.9F
> 逢坂山(大津駅 - 京都駅間)は新逢坂山トンネル・東山トンネルが新たに造られ1921年(大正10年)に現在のルートになった。これによって特急列車による東京駅 - 神戸駅間の所要時間は11時間45分となった。伊豆・箱根地区(国府津駅 - 沼津駅間)についても別ルートを建設することとし、1925年(大正14年)までに国府津駅 - 熱海駅間が「熱海線」として開通したが、熱海駅 - 沼津駅間は丹那トンネルの建設が難工事となったため、開通が遅れることとなった。一方、このころから列車線の電化工事が東京側から始まり、1928年(昭和3年)までに東京駅 - 熱海駅間の電化が完成、それまでの蒸気機関車に代わる電気機関車の運用も開始された。
沼津からネコのきっぷも握りしめながら『ネコのような顔!』で新逢坂山トンネルを蒸気機関車にけん引されて…ゲフンゲフン。もし、そのほうのネコが顔を洗おうとする前にぬぐっておあげなさい。…えーっ。
・「『そのかた』じゃないよ『そのほう』だよ」付近
http://kobun.weblio.jp/content/%E5%85%B6%E3%81%AE%E6%96%B9
京都が近くなってから乗ってきた人なら、画家の先生に対して対等に(もしくは「上から」!)ものがいえましてよ。(※あくまで勝手な想像です。)新逢坂山トンネルについては[3452]を参照。
・京都市立芸術大学芸術資料館の説明です
http://w3.kcua.ac.jp/muse/bio/takeuchiseiho.html
> 内国勧業博覧会や全国絵画共進会などで受賞。
現代の「受賞」より、はるかに重大な意味(何かを決定するような効力)があるのではないかといって、ウィキペディアに特筆すべきではないかなぁ。(※あくまで推定です。)
・丹青社の見解です
http://www.museum.or.jp/modules/topics/index.php?action=view&id=895
> このポーズを取らせるために、背中に蜂蜜を塗ったというエピソードも伝わります。
竹内逸「栖鳳藝談」(1950年)に、26年も経ってからのうのうと脚色たっぷりに書かれていると疑われます。美術館や資料館がまるっとさりげなく無視しているエピソード(確認のしようがないエピソードや、詳細に確認すると問題が生じるかもしれないエピソード)は、わたしたちも、それなりに読んで、読んでなお、あたかも読まなかった(『見落とした!』)かのようにふるまえばいいのかもですよ。本当でしょうか。…ですから、そういう書きかたが新聞記事への不満につながっているんですってばぁ。やだなぁ。(※あくまで私見です。)
・獣医師の見解の一例です
http://www.kao.co.jp/pet/cat/soudan/category09/009.html
http://www.kao.co.jp/pet/cat/soudan/category10/009.html
http://www.kao.co.jp/pet/cat/soudan/category10/023.html
http://www.kao.co.jp/pet/cat/soudan/category10/001.html
http://www.kao.co.jp/pet/cat/soudan/category09/003.html
http://www.ac-plaza.co.jp/about/number/
> このケースの場合は、往診専門医ではなく、しっかりとした病院で、総合的な検査を受けることが必要です。
…うーん。お高いんでしょ? とはいえ、先進的な事例が報告され普及していくためには、最初のほうでは割高なことをしていかなければならないのだという覚悟もございましょう。ペットが動物病院にかかりっきりになっても大丈夫なくらいの財力がなければペットを飼う資格はない! …そこまでいわれてしまうとカナシイかなぁ。(※まだ答えのない問題だと思いました。)
・テレビ東京の見解です
http://www.tv-tokyo.co.jp/kyojin/data/060527/
> 栖鳳はそれまでの流派の垣根を越え、「岩石を描くのに狩野風、草花を描くのに四条風、動物を描くのに円山風」といったように、描き方の優れた部分を自由に取り入れて描いていきます。
> 栖鳳は、古い日本画の問題点を見つけ、新しい時代に合った日本画を目指した改革者でした。しかし世間には、怪しげな作風と捉えられてしまいます。
> 栖鳳は描きたい動物がいれば、その殆どを自宅に持ち込みました。うさぎ、猿、かもめなど…。栖鳳の家の庭はいつも動物たちの声で賑わっていました。
> 1900年、36歳のとき、欧州巡遊の旅に出ます。
> 栖鳳はその間、西洋の美術の歴史と最先端の技術を精力的に見て周ります。その旅は彼にとって驚きの連続でした。そして、そこで百獣の王、ライオンを目にします。
> 栖鳳はライオンを写生するため、毎日動物園に通います。
家の中を鉄道部品だらけにするひとと同じ『マインド!』(⇒「これくしょん!」[3424],[3436])なのではないかといってですね(略)…メッソウでしたっ!(たいへん失礼いたしました。)
・青島文化教材社「部品点数1000点を超える****」のイメージです
http://rensai.jp/wp-content/uploads/2015/05/65686f0f56a35a0c59f88a96479e62d6.jpg
http://getnews.jp/archives/956975
> 最近のプラモデルは部品点数を減らして簡単に組み立てられる傾向にありましたが、今回の****はあえて昔のプラモデルっぽく仕上げたとの事です。部品点数が多いと組み立てる人の苦労ばかり取り上げられますが、業者も大量の金型を準備する必要があるのでとても苦労する商品でもあります。
…コレジャナイ。でも、コレハスゴイ。
・京都市の見解ならびに京都新聞社1978年の見解です
https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/html/hi030.html
https://goo.gl/maps/wyZ2isGV4pw
> 第1回文展審査委員や第1回文化勲章受章者となった。
・「Neue Frutiger」
http://www.linotype.co.jp/neue_frutiger/neue_frutiger.html
> 1960年代終わり仏シャルル・ド・ゴール国際空港計画が着手され、要となる案内標識の必須条件として最大限の可読性が挙げられました。Frutiger氏と彼のデザインオフィスに全てが委ねられ、誕生した新書体Frutigerは大好評を博し、同空港以外で、また印刷物での需要も急増しました。かくしてFrutigerは案内標識書体の金字塔をうち立て、スモールポイントサイズや日常使用される書体としても欠かせない存在となりました。需要の高まりに応え1977年にライノタイプ社よりFrutigerとして世に送り出され世界中のグラッフィックデザイナーに福音をもたらしました。
日本語の印刷物やサイン(看板)製作業者の態勢というものがアレで、ちょっと遅れたとの早合点でよろしかったでしょうか。
> 1999年にリリースされたFrutiger Nextは、ミュンヘンのアルテピナコテーク美術館のために1997年に開発されました。
> そして2009年リリースのNeue Frutiger(ノイエ・フルティガー)は1977年のFrutigerをベースに様々な点でデザインを改良しウェイトも更に充実しています。
・はまれぽ「横浜博覧会は今の横浜にどんな影響を残してる?」(2012年11月3日)
http://hamarepo.com/story.php?story_id=1433
http://hamarepo.com/writer/story/images/images/tachibana/yokohamahaku/yokohamahaku01.jpg
> YES’89
> 1989(平成元)年に開催された横浜博覧会。この年は、横浜開港から130年、横浜市制100年の節目の年。
> 1987(昭和62)年8月11日の産経新聞によると、横浜博覧会の施設建設のための工事事務所が、西区高島町のビルの一画に設けられ、工事が始まったとある。
> そして、同年10月20日に工事の起工式が行われた。
> 「横浜博覧会の基本計画書」
> 横浜博覧会の推進団体は、財団法人横浜博覧会協会
計画の着手がいつなのか、この記事ではわからないですぞ@なんてこったい。ウィキペディアにも書いてないですぞ@モアなんてこったい。
・「横浜博覧会公式記録」
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000002069689-00
> 編集・製作: 神奈川新聞社
名状しがたい製作委員会方式! …じゃなくて、一種『その場限り』の財団法人を出版社扱いしながら実質は神奈川新聞社っ! さらになんてこったい!(※感想です!)神奈川新聞社な界隈については[3394]も参照。
・「アルテ・ピナコテーク(独: Alte Pinakothek、旧絵画館)」⇒「The Alte Pinakothek (Old Pinacotheca)」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%86%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%8A%E3%82%B3%E3%83%86%E3%83%BC%E3%82%AF
https://en.wikipedia.org/wiki/Alte_Pinakothek
ドイツ語はわからないのだけれど英語はわかるよ、といって、なるほど「alte」って「old」なんですね、と、ここまではいいんですけど、日本語版で「旧絵画館」といわれても、すんなりとはわからないんですよ。「絵画館の旧館」みたいな訳ではいけないんですかねぇ。…しかし傍題でした。
★「営団地下鉄五十年史」(1991年7月)を手に取らずに参照するはなし(談)
…手に取らないとはナニゴトか、といって、うーん。
・(先述)
> いわゆるひとつの「コンダーラPRO!(業務用コンダーラ!)」ですね、わかります!
> 社史や工事誌など、必要とあらば取り寄せて実物を読めばよく、そのダイジェストを報じることにはほとんど意味がないといえるのではないでしょうか
工事誌を(きわめて受身的な態度で)「ひも解き」さえすれば「いっぱしの鉄道ライター!」というふーちょー的なものには感心しないなぁ。(※見解です。)じぶんなりの目的や検索方針([3372])があって、その結果として工事誌を参照することになるというのがもともと想定されている利用法であって、▼「あんたがた国会図書館になんて行かないじゃろ」からの▼「代わりに行って読んできたよ☆ちゃちゃっとダイジェストしてあげるんだからねっ(…バキバキッ)」しちゃうひと低〜い!(※感想です。)…このサイトといたしましてはそのように考えておると、たぶんこういうわけです。
・「帝都高速度交通営団『営団地下鉄五十年史』(1991.07)」(渋沢社史データベース)
https://shashi.shibusawa.or.jp/details_nenpyo.php?sid=12040&query=&class=&d=all&page=35
> 昭和35年(1960) 7月28日 丸ノ内線内で誘導無線式非常警報装置公開試験
> 8月2日 第5号線(中野・東陽町間)建設計画決定
> 昭和36年(1961) 2月8日 全線集札業務開始、旅客運賃 線別均一制
> 昭和37年(1962) 4月16日 日比谷線南千住・上野間でATO(列車自動運転装置)の公開試験運転実施
> 5月31日 東武鉄道伊勢崎線と北越谷・人形町間で営団としては初の相互直通運転開始
> 10月19日 第5号線中野・東陽町間の土木工事着手
> 昭和38年(1963) 1月16日 乗車券印刷発行機(ミニプリンター試用開始)(40.7.28本格採用)
> 昭和39年(1964) 3月23日 日本鉄道建設公団設立
> 8月5日 銀座線テープによる車内放送開始
> 9月8日 日比谷線 列車自動運転装置(ATO)使用開始//南千住・人形町間
> 12月7日 列車位置、番号表示装置を銀座運転派出所に移転設置
> 昭和40年(1965) 9月1日 丸ノ内線、日比谷線の主要駅に行先表示板を設置
> 10月 駅出入口に番号制を採用(銀座駅)
> 11月15日 旅客指令業務を運転指令所へ移管
> 昭和41年(1966) 9月19日 銀座線誘導無線の使用開始
> 昭和42年(1967) 4月1日 職制一部改正//運輸部を営業部、運転部の2部に、経理部購買課を購買第一課、購買第二課に分課、営業部・運転部共管の運輸事務所設置、同所の下に運輸指令所を設置
> 7月10日 駅のホーム監視用テレビを設置(国会議事堂前駅)
> 昭和43年(1968) 4月7日 神戸高速鉄道開通(7.6キロ)、京阪神急行、阪神、山陽及び神戸の各電鉄による相互直通乗入開始
> 6月15日 都市計画法公布(44.6.14施行)
> 7月1日 郵便番号制度発足
> 8月1日 高架下管理委員会設置(高架下利用臨時調査委員会を改称)
> 9月3日 株式会社メトロ給食センター設立
> 12月1日 鉄道電話番号4桁化実施
> 12月20日 丸ノ内線・荻窪線誘導無線装置完成
※「臨時調査委員会」⇒「臨調」といいさえすれば「仕事してます感」が…ゲフンゲフン。いえ、正式には「臨時行政調査会」だけが「臨調」と略されることにはなっています。1968年の時点で、そういうふうに名称が整理されて「高架下管理委員会設置」なのかなぁ、との感触にございました。本当でしょうか。改称されてなお部内では「ナントカ臨調!(小町的にウチらのミッション高〜い!)」と呼ばれ続けたというようなことはなかったのだろうかと邪推するところにもございます。「臨時」という単語だけで「特別!」とのニュアンスが混ざってくるので、こういうことになるんですよ。臨時の調査を次々にしないといけないというのは、制度や体制が未熟だということにほかならないとの理解にございます。「昔の人ほどブルーオーシャン」([3364])も参照。
※営団って、営団ですよね。でも、1968年には早くも「株式会社」で「メトロ」と冠する子会社のほうなど…ゲフンゲフン。「SFメトロカード」の払い戻しって、いつまでできますぅ? …2018年1月31日までとのことです。
1964年の公団設立より後は、指導的な機能は公団が果たしたと見られ、東京都交通局と営団地下鉄の間でどの技術の採用が先だの後だのというのは、単に建設の順序によるものだと思われてきそうでした。たいへん失礼いたしました。
★「メトロアーカイブアルバム」の1960年代を「ぜんぶ見る」はなし(談)
・メトロアーカイブアルバム「新型券売機」(1960年)
https://metroarchive.jp/pic_year/year1960/n003-04-16.html
> 運賃が20円から25円に変更になり、10円硬貨3枚を入れると5円の釣銭が出る新型券売機
・メトロアーカイブアルバム「乗車券印刷発行機」(1963年)
https://metroarchive.jp/pic_year/year1960/n017-05-01.html
> 自動印刷装置と集計装置を内蔵
> 従来の自動券売機とは異なり、押しボタンひとつで即座に印刷された切符が出てくる
従来と比べ、何が異なるのか、が、この文章ではよくわかりませんでしたと***は***はしょーじきに申し添えてみたり…気になります! テレタイプの応用で、券面全体をスタンプみたいにしたのを「みなし1文字!」としてがちゃこらがちゃこらしながらすたぱーん!! …券片の用紙に押印すると同時に、集計用のロール紙にも「1文字!」が押印され、あとは人手で数えて帳簿に転記して…それでも「集計装置」と呼ばれたかもですよ。そういうことがわかりません、の意。
※がちゃこら:(機織り機のような複雑な動作音を奏でながら)回転型ヘッドが小刻みに回転するようす。すたぱーん:速乾性の油性インクが乾かぬよう勢いよくスタンプが紙にたたきつけられ、ただちに引き離されるようす。
・「機織り機」からのYouTube「がちゃこらがちゃこら」のイメージです
http://www.weblio.jp/content/%E6%A9%9F%E7%B9%94%E3%82%8A%E6%A9%9F
https://www.youtube.com/watch?v=qeowqT642f4
・東和レジスター兵庫販売「レシート側」「ジャーナル側」のイメージです
https://www.towa-hyogo.co.jp/register/nr-3100a.html
https://www.towa-hyogo.co.jp/register/nr-3100a/receipt-change01.png
https://www.towa-hyogo.co.jp/register/nr-3100a/receipt-change02.png
> レシート側、ジャーナル側ともに投げ込み式の採用により、簡単・スピーディーなロール紙交換が可能です。
> 大きく見やすいジャーナルウインドを搭載。記録の確認が容易です。また、ジャーナルウインドは便利な開閉式の為、レジ担当者の交代時や売上訂正時等のサイン、メモの記入、押印に便利です。
スタンドアローンで使って、後から帳簿に転記して、会計の期間ごとにさらに転記して…ゲフンゲフン。明示的に「集計用電子計算機!」といわれない限りは、そういう単体での機械の利用だと想像されます。(あくまで想像です。)
・YouTube 最新鋭!「すたぱーん」のイメージです(4月15日)
https://www.youtube.com/watch?v=LL0SAYHK46k
※すたぱーん:狭い通路を早足で通り抜けながらICカードを軽くたたきつけるようす。…えーっ。
・メトロアーカイブアルバム「お客様の混雑」(1960年)・「定期券拝見」(1962年)のイメージです
https://metroarchive.jp/pic_year/year1960/n004-05-15.html
https://metroarchive.jp/pic_year/year1960/%e4%bf%ae%e7%a5%93%e5%bc%8f%e3%82%92%e5%be%85%e3%81%a4%e9%a7%85.html
通路が狭ければ狭いほど我々『牧羊犬に追いたてられたウシやヒツジのような顔!』で早足になるのではありませんこと? …その発想はなかった! やだなぁ、早足で歩いていただくために(改札の)通路を細くするんじゃないですかぁ。…モアその発想はなかった!
・[3314]
> わたしっ「ぐずぐずモタモタ歩いている人」([3289])ですかっ…。
・メトロアーカイブアルバム「駅ホームに設置された赤電話を利用する様子を紹介した風景」(1967年)
https://metroarchive.jp/pic_year/year1960/n041-06-23.html
> 駅ホームに設置された赤電話を利用する様子を紹介した風景
> カテゴリ:広報
…いや、まあ、その、いわんとすることはわからないでもないですけど、ひどい日本語だなぁ。
・メトロアーカイブアルバム「東西線車両と並んで走行する中央線車両」(1966年)
https://metroarchive.jp/pic_year/year1960/new174.html
> JR線内を並んで走行する東西線車両と中央線車両
「国鉄中央線(現在のJR中央線)の複々線化区間」などと書かなくていいんですかねぇ。写真は確かながら、エトキがあまりにゾンザイではないですかねぇ。(※見解です。)営団としては国鉄の複々線化など知らんのだと、それは「向こう!」のことなんだと、…そういうソレは事業体としてのソレであって、「アーカイブ」には持ちこまないでほしいかなぁ。ひいては、そのような客観視のないまま「アーカイブ」と称して、その実、「営団のOBがよろこぶ卒業アルバム!」のレヴェルに留まってしまうではないですか。…やだなぁ。(※見解です。)
・メトロアーカイブアルバム「地下鉄初の快速電車」「東西線車両(西船橋行)と総武線・中央線車両」(1969年)ならびに「東西線出土品」(1964年)
https://metroarchive.jp/pic_year/year1960/n057-13-28.html
https://metroarchive.jp/pic_year/year1960/new176.html
https://metroarchive.jp/pic_year/year1960/n025-15-03.html
> 東西線の竹橋付近で、江戸初期に敷設されたと思われる上水路用の石の水枡が発見された
> 運行ダイヤに沿った試運転でダイヤ確認のため、葛西駅で快速電車の通過待ちをする5000形車両
> 中野坑口付近
このような運行のために、CTCが構築されないわけがない(⇒CTCなしでは快速運転は新しく実施できない)との理解にございます。
・メトロアーカイブアルバム「銀座駅 案内板」のイメージです(1964年)
https://metroarchive.jp/pic_year/year1960/n024-17-35.html
https://metroarchive.jp/wp/wp-content/uploads/2012/11/N024-17-35.jpg
> 色別になった地下鉄路線図の下に各駅別の押しボタンがあり、行先駅のボタンを押すと、経由路線と行先駅が黄色いランプで、乗換駅は赤色のランプの点滅で表示された
点滅するのって、球切れとか大丈夫っぽいんですかっ&そっちですかっ。博物館で押したくなるコレ([2949])、いいですのう。(※感想です。)
・[2949]
> 博物館によくある、広大なジオラマ(模型)の中にランプが仕込んであって、手前のボタンを押すとランプが光るアレ、私的(わたしてき)に理屈抜きで大好きなのですが(逆に、好きなだけなので、その程度の話と受け止めていただければと思います)
・メトロアーカイブアルバム「大手町〜霞ケ関開通式」(1971年)
https://metroarchive.jp/pic_year/year1970/neg02-1-22.html
・メトロアーカイブアルバム「有楽町線開通式」(1974年)
https://metroarchive.jp/pic_year/year1970/ku4-16.html
メトロアーカイブアルバムで公開されている1960年代の写真では見つからず(=ぜんぶ見て、見つからないことを確かめました)、1974年の写真で初めて目に留まるのが「○ 電車がきます」の行灯式の表示器です。そして、少し戻って1971年の千代田線の写真では、ラッパ型のスピーカーと、白地に黒字で細かく「こんどの電車は○○駅を発車しました」的なことが書かれているように見えなくもないっぽい行灯らしきものが見えると気づきます。(※文字の内容までは読めません。ただの固定式サインかもしれません。)
※「電車がきます」の行灯は、中継信号機の逆といいましょうか、手前の駅の出発信号が「赤!」のときに点灯する信号機みたいなものです。…えーっ。手前の駅が「出発停止で進入の駅」だったら実装できないじゃないですかぁ。もう少し複雑かなぁ。(あくまで想像です。)そして、こういうものはアイデアが既に知られていれば簡単でも、これを最初に思いつくというのはとてつもなくたいへんそうだと想像してみます。
おお、この時点で、新線や新駅とあらば、固定メッセージでの自動放送(⇒詳しくない自動放送)と行灯式の表示器をセットで備えよとの「達!」のほうなど…本当でしょうか。有楽町線くらいの時代になれば、どのような設備を設けるべきかということはほとんど公団において標準化され、個々の事業体で裁量する余地はほとんどなかったはずだと想像してみます。そして、小竹向原では「ベル」が鳴るそうですよ。…なんと、小竹向原では「ベル」が鳴るそうですよ!
・(個人のページ)「小竹向原」より4番線のみ「発車ベル」付近のイメージです
http://yurakuchou.fc2web.com/Eki/Kotake/Kotake.htm
http://w10.oroti.net/~railway/Stereo/Yurakuchou/Kotake/OO4.mp3
http://yurakuchou.fc2web.com/Eki/Kotake/40.jpg
「営団ブザー」と同じしくみで定数だけ変えたような「プププププ…」という『ベル』でございます。ラッパ型の「電子電鈴」が使われているというわけではないようですね。本当でしょうか。
そして、「営団ブザー」って、駅の「名状しがたいATC架のようなもの!」と接続された、実は高度な信号装置であったり…しませんよねぇ。もっと本当でしょうか。ホームドアの設置にあわせて「メロディー化!」されるという、わたしたち、そちら方向にばかり興味・関心を奪われますが、なぜ「営団ブザー」のままにしておくことができないのだろうかといって、ATC架の限られた接点をホームドアの装置の側に譲れば「営団ブザー」は使えなくなるのだと…本当でしょうか。(まったくの憶測です。)ひいては「営団ブザー」と呼ばれる特定の周波数の信号そのものが、まるでほかのATCの信号と同じようにATC架で発振され、変調されずに引き出されて高声電話につなぎさえすればですね(略)うそーん!!
・日本信号「ATC」に関する各種イメージございます付近(推定)
http://www.signal.co.jp/products/railway/productsinfo/assets_c/2010/03/27_28a-thumb-853x397-43.jpg
http://www.signal.co.jp/products/railway/productsinfo/assets_c/2010/03/27_28b-thumb-270xauto-24.jpg
http://www.signal.co.jp/products/railway/productsinfo/2010/03/atc.php
もっとも、後年「営団ブザー」と呼ばれたソレが、最初からそのような実装であったなら、なんとエレガントな実装だろうといって大いに感嘆してみたいと思いました。(※素朴な感想です。)
・(個人のブログ)渋谷駅「○ 電車がきます」のイメージです
http://blog-imgs-24.fc2.com/n/a/m/namtul/EPSN3129zoom.jpg
http://namtul.blog9.fc2.com/blog-category-23.html
> 1973年に出来たやつですよ!
・(個人のページ)新桜台駅「○ 電車がきます」「反転式時計」のイメージです
http://www.tawatawa.com/shindensha/1si/img311.jpg
http://www.tawatawa.com/shindensha/1si/page003.html
http://www.geocities.jp/seibuwoouen/P10902541.jpg
(スピーカーと発振部が対になっていて電源だけオン・オフするという意味での)電子電鈴を設置するには、駅の土木の段階からよく考えられていないと設置できないとみられ(≒設置ならびに配線できる空間がないとみられ)、電子電鈴より前の時代に土木ができてしまった駅では、こう、なんとしても既設の高声電話を活かしての『電子電鈴相当』の「何か」を実現せねばならなかったのではないか、そして、できればお安く、といって、『営団ブザー!』との「現実的な解<かい>!」が見出されていったのかなぁ、との気配も漂ってきそうに思えました。もっと本当でしょうか。
あるいは、西船橋駅や中野駅などという、国鉄線の乗り場だけで電子電鈴の音色の種類を使い果たしてしまう駅で、音の種類がさらに国鉄と地下鉄で異なっていることが望まれたのだとしますと、ここで初めて『営団ブザー!』というものが「何かの代わり!」でなく必要とされる状況が生まれたといえます。(あくまで推定です。)国鉄とは明確に異なる音が鳴って、これぞ地下鉄というイメージが伴えばさらによいといって、おお、丸ノ内線の電車の帯のほうなどポヤンと思い浮かべながら…ぎゃふん。(あくまで推定です。)『営団ブザー!』って、東西線と国鉄の乗り入れがあってこそのものだったのかなぁ。(あくまで推定です。)
地震計、東西線のARCおよびCTCについては[3455]に続きます。
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